実業の栞(じつぎょうのしおり)風鈴売

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風鈴売

四月中旬より七月下旬迄、屋台に風鈴及び硝子[がらす]水出し手遊[おもちゃ]等を並列して、鈴の音さわやかに市中を行商する商人あり。此[この]問屋は都下に浅草区茅町一丁目吉川善太郎同区北清島町田川モン神田五軒町荒井カネ下谷区徒町[おかちまち]三丁目池田金治の四軒あるのみにて、此商人には其種類数多[あまた]あり、屋台を担[かつ]ぎて行商するは廿人位、朝顔に付けて売る者十七八人、造花[つくりばな][しのぶ]へ下げて売る者合せて四十五六人に及ぶ。

▼荵…のきしのぶ。吊りしのぶ。
▲資本仕入利益

担ぎ屋台を新規に購求するとなれば、二十円より三十円位の資本を要すれど、構造の[そ]なるものなれば十円にても十五円にても求められる、仕入れは何[いづ]れも現金にて、手遊[おもちゃ]は浅草茅町日本橋横山町等の手遊卸屋にて買入るるを例とし、合計十円位仕入行くはその上等ながら、下等なるは四五円位の仕入高に過[すぎ]ず。利益は大凡[おほよそ]仕入金の三倍となり、平均して倍の儲けある由[よし]

▼粗なるもの…精巧じゃないもの。
▲営業時間

は普通昼頃より始め、極繁華なる日本橋京橋辺は行商せず、仲通り或[あるひ]は新道[しんみち]等を選びて売歩き大凡夕景迄にて、中には夜に入[いり]て縁日等に出るものあり吉原洲崎等の花柳界へは午前の内[うち]商ひに行く、さて売口よき時期は、七月盆前後夕景午後五六時頃が売れるなり、斯[かく]て盆が過ぎれば売残品に不足品を買足し、、栃木等の地方へ旧盆を当[あて]に旅商[たびあきなひ]に趣[おもむ]くが常なり。

▼夕景…夕暮れ。
▼吉原洲崎…よしわら、すさき、どちらも遊郭がありました。
▼信…信濃国。
▼甲…甲斐国。
▼上…上野国。
▼房…安房国。
▼総…上総国と下総国。
▲上等の顧客

は花柳界の流連客[いつづけきゃく]、さては料理店待合等の派手稼業にて、華族等の邸[やしき]に呼込れし時は、風鈴は元より下婢[かひ]等にも揃[そろひ]に水玉の簪[かんざし]等数本の買上[かひあげ]ありて、価[あたひ]も流し売りする直段[ねだん]よりは高く売る事[こと]論なく、思はぬ利益を見るなり。

▼下婢…お手伝い。女中。
▲問屋の繁忙

問屋は旧盆を過ぐれば、直[ただち]に翌年の仕込に掛り、風鈴製造の傍[かたはら]ホヤ燗徳利[かんどくり]、瓶[びん]等の製造をなせば、一ヶ年職工の手を明け置く事なく、風鈴計[ばか]りわ以[もっ]て営業するとしても、資本は千円余も要する由[よし]、猶[なほ]売口よき風鈴の直段は三十銭位の物、簪[かんざし]等は二三銭の物、水出しは小児[こども]の手遊[おもちゃ]なれば一銭位の品が捌[さば]けるなり。

▼ホヤ…ランプの部品。

▲売方の秘訣

ともいふべきは町の四辻等へ荷を下[おろ]して、其処に少なくも一二時間休み居[を]る事[こと]肝要なり、付近の小児[こども]は手遊[おもちゃ]等の屋台に並べあるより之[これ]に目が止[とま]り、忽[たちま]ち八九人は其周囲に集り来る内に其父母等も来[きた]りて小児の手遊なり水出しなりを買与へ、知らず知らず風鈴の一個も買求むる気になるものなれば、凡[すべ]て流し売[うり]する商人は最も気長にせざれば売損[うりそん]ずる恐れあり。又荷を担ぐにも元来破損し安き品物なれば、動揺せぬ様[やう]緩々[ゆるゆる]足を運び急足[いそぎあし]に担ぎ行く事[こと]厳禁にて此[この]担ぎ方には中々[なかなか]の熟練を要し、従って烈風の日には商売には出ず。

風鈴に来るよいづくの低気圧 三華

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▼動揺…ぶらぶらがたがた動く。風鈴の大敵。
▼烈風…風が強すぎる。
校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい