▼新粉細工[しんこざいく]は▼新粉餅[しんこもち]より変化したるものにして、其起源は大凡[おほよそ]百四五十年前にあるべく、明和の頃(今より百三十年前)出版されたる絵画に已[すで]に此事を載せたり。其時代には新粉細工とは云[いは]ず、チマチンコロと称し、粽[チマキ]を以て狆[ちん]ころ若[もし]くは鶏等を造り、市中を流し売[うり]せしものにて、其[その]担ぎたる荷も今の荷とは体裁を異[こと]にせり。さて現時市中に於ける同業者は約二千余人の多きに達し、縁日商組合にては此商人を指[さし]て小店[こみせ]といふ。其[そ]は僅か二尺位の見世にて稼業すればなり。其仲間に加入せざる者は之[これ]を甚左衛門[じんざゑもん]と称す。
屋台に三種あり、即ち担荷[かつぎに](ごろ荷)肩荷(てんこ荷といふ)小車にて引くものにて、これに大傘[おほがさ]丼[どんぶり]▼蜜を入るる硝子壜[ガラスびん]、細工用の鋏[はさみ]錐[きり]松葉もて造りたる▼ウズクリ木櫛[きぐし]等を悉皆新調すると見て、十円もあらば上等物を取揃へらる。従って▼古物[ふるもの]ならば五円にても二三円にても道具の購入は充分なり。
は乾物店より上新粉を買ふ事第一にて之[これ]に蜜[みつ]寒天[かんてん]豌豆[えんどう]砂糖[さとう]色付絵具[いろつけゑのぐ]等を加へ、悉皆にて一円もあれば宜し、但し好く売る商人は六百目の粉を捌[さば]けど、売れざる者はそれ以下なりと知るべし。
一円の原料にて営業に出るとし、常見世(市街四辻の商家の庇合或[あるひ]は軒先を平素借りて出店する者)にて其付近の小児に馴染[なじみ]多ければ、売揚は一円五十銭余となり、諸雑費を差引き純利益四十五銭より五十銭位あり、但し此位の儲[まうけ]は安売の商人にて、縁日又は市中を流して商ひする者も略[ほぼ]五割と見て大差なし、併[しか]し流し売[うり]の商人も、紳士或は▼高等官吏華族等に得意あれば、僅[わづか]に十銭の原料にて三十銭位になるものにて、之[これ]は人物とか▼花卉[かき]とは種々の好みを細工する手間が篭[こも]るより倍以上の利ある訳なり。
祭礼が最も此商人の書入[かきいれ]にて、平素一円の原料にて五十銭の利益も、祭礼には同じ原料にて三円も売揚あり。これは平素の売直[うりね]より高く商ふ故[ゆゑ]にて、縁日にても▼西川岸[にしがし]の地蔵▼銀座の地蔵▼茅場町の薬師等は中々収入あれど、到底祭礼と比較は出来ず。
常見世を張る者は午前八時頃より午後四時過[すぐ]る迄出店す。日の長短により少しの相違はあれど大凡[おほよそ]其範囲内を常とし、小学生徒の登校前と▼退出後等が大に此商人の商ひに関係あるものなり。買手は元より小児なれば、随って代価も五厘が其大部分を占め一銭以上は少なし。昔は随分花卉[かき]人物等の細工物を望みしが、当今は蜜柑[みかん]なり犬なりの細工物にても、中には砂糖を入れて▼食用に出来るものならねば承知せず、概して寄鍋[よせなべ]とか汁粉[しるこ]とか直[すぐ]に食料となるもの売口よし。
相当の仕込して商ひに出ても、午前十時頃より雨となれば忽[たちま]ち大影響を来[きた]し、原料に残りを生ず、尤[もっと]も寒中なれば残品の蒸直[むしなほ]しも出来れど、暑気となりてそれさへ叶はず、已[や]むなく新粉を霰[あられ]等に切りて乾し置くか乃至[ないし]自宅にて食するかの二途[にと]に出づれど、▼絵具を合せし新粉は全く▼廃物となる也。
は凡[す]べて買手が小児なれば、その機嫌を取るが肝要にして、甘[うま]く小児を遊ばせる心得なくては叶はず。小児[こども]嫌ひの者には其面倒が見られざれば、さる場合には迚[とて]も商法とならざるなり。
斯道[このみち]に名人と聞[きこ]えしは牛込区原町二丁目七番地に住する梶鍬太郎[かぢくわたらう](六十五年)と云ふ者にて廿二歳の時新粉細工の露天商となり、晴天なれば神楽坂毘沙門前へ露店を出す事▼四時変りなく、本年にて四十二年間此業に従事せり。同人は普通の新粉細工屋と異り、多少美術思想もあり、拙筆ながら絵画も認[したた]め目に一丁字[いちていじ]なき老爺[らうや]ならねば、何物を造りても頗[すこぶ]る巧妙を極め、尤も得意とするは花鳥昆虫蔬菜人物等にして、軍人馬乗[うまのり]の新粉細工等は真に迫れり。二銭位に売る細工物なれば、一時間に十数個を造り、人物等十銭位に売る品物も同時間に二三個は製造する技量あり。去[さる]明治十六年中或粹士[あるすいし]が其技術の堪能なるを見て、或宴会の席上に招きしが抑[そもそ]も座敷へ招がれし▼嚆矢[かうし]にて、以後外国公使館或は宴会園遊会等へ常に余興として招かるる事引きも切らねば、今は露店を出す暇[いとま]なく、一回宴会等に招かるる時は原料及[および]竹篭[たけかご]等の代価を積算して、十円位の報酬を得るは珍しからずと。
新粉やもねぢ鉢巻や夏祭 銅台