実業の栞(じつぎょうのしおり)氷屋

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氷屋

氷と云ふもの我国[わがくに]に始めて行はれしは、僅[わづか]に三十年以前の事にして、其頃には現時の如く人造氷の製造などあらざりしは論なく、京橋区越前堀に住せし中川嘉兵衛[なかがはかへゑ]と云へる人が率先して、函館五稜郭の天然氷を一手に販売せしが起源なり、小売商にて最も旧家と称するは、浅草二天門前の大塚[おほつか]日本橋区米沢町の星川屋[ほしかはや]等にて、此[この]二店はやがて小売の始祖とも云ふべく、今日[こんにち]氷庫[こほりぐら]を有する問屋は竜紋氷室[りうもんひむろ]、機械製氷[きかいせいひょう]等数軒ありて、例年四月一日より氷の卸売をなし、庫[くら]より氷を積出すは十貫目以上ならでは取引せざる規定[さだめ]なり此問屋は資本も中々に要し、機械製氷の如きは三十万円の株式組織なり。

▼天然氷…「函館氷」という名で呼ばれてました。明治初期の氷屋さんの目印としてたてられたフラッグには「函館氷」という文字を染め出したものが多くあったようです。
▲仲買

されど是等[これら]大組織の物は暫[しばら]く別とし、仲買即ち卸[おろし]の傍[かたは]ら小売をもなす店の有様を窺[うかが]はんに貯蔵場の一ヶ所も造り一杯売をもなす者にて、家屋は除き氷運搬の荷車より器具迄も新調するとせば、少なくも五百円以上は要するなり。その利益は氷庫の所有者より、六千貫以上卸す者へは一割五分の口銭を与へ、五千貫なれば其以下を与へる定めありて、積出[つみだし]に来[きた]れる際一々帳簿に記入し置き、期節[きせつ]終りて決算の上、卸高の多少により規定の口銭を割戻すがやがて卸の儲[まうけ]なり。

▼一杯売…氷水やかき氷を売る。
▲一杯売の氷屋

なれば諸道具より椽台[えんだい]等取揃へて、二百円もあれば二間[にけん]間口の店は張れるものにて、利益は普通五割あれど平均して三割位なり。安く売る店なれば、二百目の氷を一銭売五杯に削るものなれど、甚[はなはだ]しきに至りては六杯にも七杯にも削る暴利屋[ぼりや]あり。さて上等の店にては甘露[かんろ]を煮て之[これ]を用ふれど、下等の店は生砂糖[きざとう]を水に解[と]きたるを入るるが普通にて、此甘露の甲乙に依り利益に差異を生ずるなり、またサイホン玉ラムネ等は各製造元より氷店へ競うて卸に来るものにて、ラムネは皆[みな]売揚勘定なれば、資本入[い]らずに装飾品の一となり、利益も四五割はあり。市中最も繁昌を極むるは、浅草雷門付近の店の右に出るものなく、売上の多き時は一日に百円近くに及ぶと聞く。斯[かく]てその書入時[かきいれどき]は盆前後より八月に掛[かけ]たる所謂[いはゆる]土用中が盛況を極むるなり、此折[このをり]には蔵元が俄[にはか]に直上[ねあ]げをなし、今迄十貫目一円のものも忽[たちま]ち倍額に昂騰[こうたう]するは毎年の例にて従って一杯売も之[こ]れが影響を受け、一銭五厘或[あるひ]は二銭以上になす事あり。最も一杯売の大打撃を蒙[こうむ]るは此時にして一銭五厘より以上となれば飲用する人[ひと][とみ]に減ずるより、利益を此時期に見んとの目的も忽[たちま]ちがらりと外れ、却[かへっ]て大失敗に終る事多し、さて最も売口あるは氷水[こほりみづ]にして、種物[たねもの]即ちレモン、蜜柑[みかん]氷汁粉[こほりじるこ]等は、本郷神田辺の書生の巣窟にては売口よきも、日本橋とか銀座辺に至りてはその売高は少なしとぞ。

▼甘露…シロップ。みぞれ。
▼装飾品…お店のよいディスプレイとなるのじゃ。
▼氷水…かき氷。
▲露店の氷屋

は屋台コップ削台[けづりだい]等悉皆揃へて、五円にても十円にても此以下にても出来るものにて、多くは一杯五厘に売るなり。仕入と云っても僅少にて、氷がなくなれば付近の卸屋へ馳付[かけつ]け、二百目なり五百目なりを仕入来[きた]りて間に合す事ゆゑ、仕入金とても五十銭もあれば確かなり。利益は却[かへっ]て普通の氷屋より割合よろし。又アイスクリン売の資本は器械の桶[をけ]にて、一個なれば三円四五十銭にて求められ僅[わづか]四五十銭の原料にて十倍の売揚となり、非常に利益あれど仕込だけ悉皆売切る事は稀[まれ]なり。売れぬ時は諸方を担[かつ]ぎ廻る事ながら、其内[そのうち]には氷の解くる恐[おそれ]あれば、能[よ]く中なる品を持たせんとするには、結局氷と代に追[おは]れ、純益は三倍位に止[とど]まり、猶[なほ]雨天の時は晴天の時より氷の解くる事[こと][はなはだ]しく、已[や]むなく休業の有様なり。

ままになる浮世なりけり氷水 文六

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▼削台…かんなをさかさにとりつけた台。氷をけずるために使う器具。
▼アイスクリン…アイスクリーム。
▼器械の桶…アイスクリームメーカー。中に氷を入れて材料を入れた容器をその中に詰め、ハンドル等を回転させることによって中身を冷やし、アイスクリームを造ります。
▼塩…氷を冷やすために使います。
校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい