実業の栞(じつぎょうのしおり)虫売

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虫売

▲問屋

虫売の問屋は、浅草区上平右衛門町の須山[すやま]、下谷区[おかち]一丁目山崎[やまざき]の二軒にて、問屋は諸虫を何処[いづこ]より仕入するかと云ふに、其[その]多くは四谷区信濃町十一番地川澄武吉[かはずみたけきち]が製養の鈴虫[すずむし]松虫[まつむし]等を仕入するなり、又自然発生の物も採集して之[これ]を売れど、自然物の出[いづ]る頃には、虫屋の販路が末となるより多くは人造物を売るを例とす、自然物の松虫鈴虫等は東京付近なれば八王子付近の山々より採収し、彼[か]の声よき河鹿[かじか]は京都嵐山の産を以て上等となす由[よし]

▼徒町…御徒町。
▼自然発生の物…そのあたりの野っ原にいる虫。
▼人造物…人工的に繁殖させた虫。
▲取引

[すべ]て現金にして、取引の繁忙なるは六月下旬より盆前後なり。利益は虫によりて異なれど胡瓜[きうり]南瓜等の餌に金を費[つひや]すを以て、大約五六分位に止[とど]まり、虫の死する時は損失と知るべく、又鳴声[なきごゑ]の善悪により卸直[おろしね]の高下を生ずれば、予[かね]て鳴声を聞分け上中下と別[わか]ち置き、さて小売へ卸すなり篭[かご]も上等物より下等物迄一切備[そな]へありて小売へ卸す例なるが、鈴虫松虫等の篭は上八九円以下二三銭迄あり、蛍篭[ほたるかご]も一銭以上四五十銭迄ありて、問屋の利益は平均約一割余あり。併[しか]し営業期間は僅[わづか]三ヶ月位なれば、其余[そのよ]は例の片商売[かたしゃうばい]する事と知るべし。

▼南瓜…原本では傍訓に「なす」とあります。なすとかぼちゃどっちなんざんしょ。
▲小売商

と云へば行商する者が大部分を占め店売するは僅少にて、地方より入来[いりきた]る行商と市中の流し売[うり]とを合[がっ]すれば人員五六百人あり、房総辺の漁師も夏季は此[この]行商となる者尠[すくな]からずと。其[その]荷拵[にごしらへ]は二種ありて、一を高荷[たかに]と云ひ一を五呂荷[ごろに]と云ふ。高荷となれば諸付属品を合[がっ]して三四十円を要せど、五呂荷なれば十四五円以下二三円にても出来、高荷は仕入金も虫と篭とを合せて五十円より百円以上も要し、五呂荷は四五円にて仕入らるる者なり、利益は篭三割余虫と同じ位となり、毎年此行商に出る者には得意ありて、紳士等の宅へ売れば流売[ながしうり]よりは高価にて、利益も五割余ありといふ、但[ただ]し其[その]仕入は皆[みな]現金なる事[こと]論なく、売口[うれくち]よきは松虫、鈴虫、蛍[ほたる]、蟋蟀[きりぎりす]、轡虫[くつわむし](俗にガチャガチャ)等、鳴声を知られたる虫にて、河鹿[かじか]は水盤[すゐばん]又は金網[かなあみ]等に金が掛るより売口[うれぐち]遠し。さて能[よ]く捌[さば]く行商なれば日に五六円の売揚[うりあげ]あれど、雨天と風の吹く時は商売に出られず、結局一ヶ月間にて行商に出[いづ]るは半ヶ月と見ば大差なく、平均三円も売る者は上等の部なり

虫売のかことかましき朝寝かな 蕪村

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校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい