実業の栞(じつぎょうのしおり)酸漿売

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酸漿売

目下市中を行商する酸漿売[ほほづきうり]は、老幼男女を通じて約一千数百名の多きに上れど、問屋は僅[わづか]に二軒の少数に過ぎず、其一は日本橋区平松町の相半商店[あひはんしゃうてん]にて、其二は神田区通新石町の西春商店[にしはるしゃうてん]なり。相半は文化年中始めて現住所に此店を開き、父子連綿として現今四代に及び、西春は明治の初年開店せるもの也。次に卸商即ち仲買は日本橋区松島町重松佐兵衛[しげまつさへゑ]内藤新宿北裏町三柳竹次郎[みつやなぎたけじらう][ほか]一軒にして、是等[これら]は問屋より品物を仕入れ、荒物屋[あらものや]菓子屋等へ卸売する[さ]に小売商の状態を述べん。

▼文化年中…1804-1818年。
▼父子連綿…おやこだいだい。
▼左…次。
▲資本

小売の荷拵[にこしら]へには、五呂荷[ごろに](天秤棒にて担[かつ]ぐ荷)、半台張[はんだいばり](半台の店)、小車[こぐるま]にて挽行[ひきゆ]く荷、提荷[さげに](竹製手付の篭[かご]もしくは小判形四ッ重[がさね]の手付桶に入れたるもの)等の種類あり。五呂荷なれば諸道具取揃へ下等にて五円上等にて八円もあれば宜[よ]し。半台張は七八円、小車は上等製にて十円、提荷の竹製篭至って粗末なる物にては僅か四五十銭にて充分なり、桶は少し上等にても一円五十銭にて新造するを得[う]


▲仕入

は五呂荷にて三円内外より五円位、半台張五円より八円位、小車之[これ]に同じく、提荷は竹篭にて一円位、花柳界向[むき]の小判形桶にて二円内外なりとぞ。


▲酸漿の種類と売口

酸漿ほほづき[]には俗に下[くだ]りといふ極大の海酸漿[うみほほづき]、備中[びっちう]又は小物[こもの]と称する中物[ちうもの]、長刀[なぎなた]権平[ごんぺい]俗に逆酸漿[さかほほづき]、南京一[なんきんいち]は、ヒョットコ粟酸漿[あはほほづき]、丹波酸漿[たんばほほづき]小柄[こがら]大柄[おほがら]、千成酸漿[せんなりほほづき]の数種あり。此中[このうち]最も売口よきは長刀[なぎなた]にて、海酸漿[うみほほづき]丹波酸漿[たんばほほづき]は殆[ほと]んど看板用なりと。

▼海酸漿…うみほおずき。貝の卵嚢。植物のほおずきと同じように口の中で鳴らして遊びます。
▲利益

元より一定の価[あたひ]あるものならねば、買手次第にて高くも安くもなり、とおり一遍の客には五本一銭の長刀も、三本位売る状況にて其日々々[そのひそのひ]の出来映えながら、総じて五六割以上の利益ありと見ば大差なかるべし、尤[もっと]も花柳界にては上等の品物なれば、直[ね]の高きを厭[いと]はず買手あれど又貸売[かしうり]となる事少なからず、斯[かく]て此商売の盛況を極むるは一月より七月までにして、中にも三月より六月までを目抜[めぬき]とし、其[その]閑散[ひま]なるは十十一十二の三箇月なりとす。猶[なほ]問屋の利益は二三割ありとぞ。


▲毛色の変った行商

他の行商大方の雨天に閉口するに引替へ、此小売商は雨降[あめふり]にも関[かま]ひなし、但し雨天には五呂荷を担ぎて路次等へ這入[はい]れざるゆゑ、提荷にして売歩くものなり。されど千幾百人の中[うち]雨天に出[いづ]る者はさすがに稀なりと知るべく此商人中老輩なるは、芝区仲門前町の住人池田岩吉[いけだいはきち]とて、八才の頃より此業に立入り、今は三十余年に及びぬとぞ。彼[か]新粉細工梶鍬太郎[かぢくわたらう]と好一対の人物なるべし。

▼老輩…熟練者。ベテラン。
▼梶鍬太郎…新粉細工の名人。
▲酸漿の産地と問屋の繁昌

[ちなみ]に記す、酸漿の産地は、長刀が九州船橋大堀等、丹波の小柄物は水戸地方、大柄物は神奈川在、海酸漿は海苔[のり][あるひ]は海老[えび]の漁場にて採集され千成は向島請地[むかうじまうけち]等より出づるを重[おも]なる物とす。さて長刀の新物は六月上旬より七月一杯、丹波は七月より八月に掛けて出るものにて、これ等[ら][す]べての酸漿類は何[いづ]れも相半[あひはん]西春[にしはる]両店へ集中すれば、其盛況推[お]して知るべく、中にも相半は数代の老舗[しにせ]とて、全国各地に取引先多く、殊[こと]に現時は北海道の果[はて]より南台湾の端[はて]までも取引し居[を]れりといふ。僅に少女の手遊[てあそび]としては驚くべき限りならずや。

誰か恋の鬼灯売[ほほづきうり]や廓[さと]の昼 疎山

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校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい