実業の栞(じつぎょうのしおり)質商

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質商

下等社会及び中等社会の融通機関といふべきは質屋なる事[こと]論なく、此[この]商売にも大店[おほだな]中店[ちうみせ]小店[こみせ]の区別ありて、小店[こみせ]をテッカ質屋と呼び、其日[そのひ]の朝に質物[しちぐさ]を入れ、其[その]夕景に受出すといふ極めて小期間の客を取扱ひ、中店[ちうみせ]はテッカ及び大質[おほしち]をも取扱ひ大店[おほだな]は小店等の質に取りたる物を一纏[ひとまと]めにして取扱ふもの、之[これ]を下質[したじち]或は親質[おやじち]とも云ひ、又小質[こしち]をも兼ぬるものあり。

▼質物…質草。質屋さんにお金と交換で預ける物品。
▼夕景…日暮れ、夕方。
▼小期間…短期間。
▲資本と利益

資本は小店にて一千円もあれば、一ヶ年三千円位の質は取れるもの也。中店は五千円以上一万円位、大店となりては五万円以上限りなし。但[ただ]し小店中の小店即ち貧民部落のテッカ質屋は僅々二百円の資本あれば、立派に店は張り行かるるもの也。利益は重[おも]に貸金[かしきん]の利子にあること論なし、今少しく利子の状態[ありさま]を述べんに、仲間の規約は一円に付[つき]一ヶ月三銭といふ定[さだめ]なれど、これは店によりて一定せず大約一円に付[つき]二銭五厘なり。五円以上は二銭、十円以上は一銭五厘程通例とす。斯[かく]て大店が小店等より取る質物に対しては、普通貸借[かしかり]上の利子にて、廿円に付[つき]一ヶ月廿五銭俗に廿両一分[ぶ]、もしくは一円につき一銭三厘が例なり。されば小店が二銭の利子にて客に貸付けたる時、親質へ下げて七厘の利あり、繰廻[くりまは]しを能[よ]くするには是非とも右の如くすべき事なり。

▼張り行かるる…営業してゆける。
▲店の構造

は普通の商店と異[ことな]り、小店の如きは以前は成るべく出入り[でいり]の際[さい]人目に触れざるやう造りしが、今は漸[やうや]く斯[か]くする事[こと][まれ]になり、唯[ただ]店の中央に荒き格子[かうし]を嵌[は]めて、店員は其[その]格子の辺にて執務し、客は格子外にて店員と取引するやうに造られあり。


▲客の種類

は処によりて異[ことな]れり。例へば牛込[うしごめ]小石川[こいしかは]山の手の地は小官吏多く、本郷[ほんごう]神田[かんだ]の西部には書生にて持切り、品物も羽織[はおり][はかま]書籍[しょじゃく]等多ければ質屋は常に古本屋と気脈を通じ、損失のないやう心懸け居れり。放蕩書生は別問題ながら、大方は利子及び期限堅きものにて、これらは教育の素養ある故[ゆゑ]なるべし。浅草[あさくさ]下谷[したや][しば]麻布[あざぶ]四谷[よつや]等の貧民部落にては、衣類はいふに及ばず、雨天続きの時は日用品の鍋釜火鉢などょも入質[いれじち]し、之[これ]を金に換へて小商売[こあきなひ]もしくは労働に出[い]づるを例とす。其[その]夕景になれば得たりし金にて日用品は受出すものにて是等[これら]の品物を取扱ふ店は利子の割合非常に宜[よ]けれど、中には三代も得意なりとて誇り顔に利子を溜[ため]らるる恐[おそれ]あり、斯[かか]る場合にもそを厳重に督促[とくそく]するは人情として出来ず、質店[しちや]は大[おほひ]に困難するものなり。此[この]質屋には期限も三日間といふものもありて、雨天続[つづき]の時は中々[なかなか]の繁昌を極む。又寺院の多き場所は、僧侶の法衣[ほうい]を入質[いれじち]する者多く、日本橋取引所付近の店は、相場師が相手なれば、金目の品物を入れに来たりし時は、普通の客に貸す価格より幾分か割を宜[よ]くす。相場は儲[まうけ]ありし時は其[その]日の間[うち]に一ヶ月の利子を払ひて受出す訳ゆゑ、質屋も彼等[かれら]に対して大[おほひ]にはづみ遣[や]る也。花柳社会[くわりうしゃかい]にありては、芸妓[げいしゃ]が座敷着[ざしきぎ]三味線[さみせん][ばち]等を持来[もちきた]りて融通を求むるが例なるが、是等[これら]も相手が商売人とて至って利益多く、例へば御約束の座敷とか宴会の席上にて紋付[もんつき]の入用なる時、彼等[かれら]は直[ただち]に質屋へ駆付け、十円 位の処へは五円位の羽織なり何なりを持来り一ヶ月の利子(捨利[すてり])を払ひて、目的の品物を持出し、済みたる時は早速身代りの品を受取って元の物を入質[いれじち]するより割合中々[なかなか]よろし。猶[なほ]小売の呉服屋にてよく金の廻らぬ店は、冬物夏物なども季節まで我家へ仕舞ひ置かれねば、不用の間は大抵質屋の蔵へ預け置く事多し。

▼山の手…江戸時代は武家地だったので、維新後はその後に建てられた官舎や官吏たちの家なども多かった。
▼書生…大学生たち。
▼雨天続きの時…雨が降ると仕事が出来ないので、懐がぴいぴいになっちゃう。
▼得意…おとくいさま。
▼花柳社会…花柳界。女郎や芸者たち。
▲期限

は以前六ヶ月なりしも、今は四ヶ月と改めたり。惣じて流期[りうき]に至りても大方期限通りには行かぬもの故[ゆゑ]、一時利子の入金を迫り先へ先へと繰返すが多し。流れの書付[かきつけ]を廻しても、置主[おきぬし]の利子を支払はざる時は、余儀なく流れとして相応の処分を付くる事なれども、時の景気不景気によりて往々損失を招くを免[まぬが]れず。例へば夏季に単物[ひとへもの]を流されたる時の如きは、時の相場に高低こそあれどうやら捌口[さばけぐち]よければさしたる損失なきものなれども、綿入[わたいれ]を流されたる場合は殆[ほと]んど其[その]始末に困[こう]じ決して割にも合はざるものと知るべし。

▼流期…質流れの期日。
▲店員

は小店程余分に要するものなり。そは絶へず親質[おやじち]へ下げに行くものあり、若[もし]くは店に客を待[また]せながら、恰[あたか]も我[わが]蔵中[くらなか]にあるかの如く見せ掛け品物を取りに親質へ走り行くものなどありて、中々[なかなか]多忙を極むるを以てなり。されど中店[ちうみせ]大店[おほだな]に至りては其[その]割合に人を要せず、同じ店員の中[うち]にても番頭[ばんとう]たる者は顧客より因業[いんがふ]なりと云はるるやうならでは、迚[とて]も充分の利益を見る事[こと][かた]きものなり。


▲鑑定法其他

質屋は衣類などの鑑定に長ずべきは謂ふまでもなき事なれども、昼と夜とによりて中々[なかなか]の困難あり、そは色気の識別にて、これ等[ら]は品質の善悪を見分[みわけ]る外[ほか]の難事なりとする品質の善悪を見極むるは質屋の最も生命とする処なれど、中には充分の眼識なき輩[やから]ありて、往々古着屋へ売払ふよりも高価に品物わ受くる処あり、斯[かか]る場合置主[おきぬし]は決して質受[しちうけ]せず其侭[そのまま]流すより自然損失に終るもの也。凡[す]べて時計美術品書籍等は衣類より利子高く、又不正品と心付かず質に取りたる時は殆[ほと]んど丸損なりと知るべく、従って通帳[かよひちゃう]を出[いだ]すには余程先方を確[たしか]むるものなりと、因[ちなみ]に記す、流れの品を置主と相談の上[うへ]買取る古着屋ありて、絶えず此等[これら]の者は質屋へ出入[でいり]す。

▼色気…着物などの染めなどの色具合をみること。お日様の光で見るのとランプや電灯の下で見るとではやはり狂いが出て来ます。
▼自然…そうするとおのずから。
▼不正品…まがいもの、いんちき。
▼流れの品…質流れしてしまったもの。
▲大店の営業振

小店中店は大抵以上に記したるが如くなれど、大店となりては大に差異あり。元来大店には下質[したじち]のみ扱ふものと、兼ねて小質[こじち]を取るものとありて、下質[したじち]の取方にも二種あり、一纏[ひとまとめ](月極[つきぎめ])に取るとダラとの別ありて、月極は通常の貸金[かしきん]の利子なり、ダラは小店が日々客より取りたる物を其[その]都度入れに来るを取扱ふ事にて、利子は一円に付[つき]一銭三厘なり。但[ただ]し小店にても信用ある向[むき]は、大方銀行より融通を仰[あふ]ぎ、信用なき者のみ大店を当[あて]にする事と知るべし。


▲質屋の繁忙期

は移り替りの際にて、殊[こと]歳晩[さいばん]盆の前後の如き節季[せっき]は、小僧番頭等殆[ほと]んど徹夜の状態[ありさま]なりとぞ。

やや寒の質を出すなる工面かな 紅葉

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▼歳晩…12月、年の瀬。
校註●莱莉垣桜文(2013) こっとんきゃんでい