東武 神屋蓬洲述並画
今は昔▼人皇[にんわう]百三代。▼後花園院[ごはなぞのいん]の御宇[ぎょう]かとよ。▼嘉吉元年 六月京都の将軍▼義教[よしのり]公。赤松満祐[あかまつまんいう]が▼領地を分[わか]って。赤松貞村[あかまつさだむら]に与[あたへ]んと欲し玉ひしに。満祐此事[このこと]を憤[いきどほ]り。遂に義教公を▼弑[しい]し奉[たてまつ]る。是に仍[より]て▼管領[かんりゃう]磯川持之[いそかはもちゆき]。畠山持国[はけたやまもちくに]。▼義勝[よしかつ]公を帥[かしづ]き奉り。軍勢を催[もよ]ほして 彼[か]の満祐が楯篭[たてこも]れる。播州白幡[ばんしうしらはた]の城を攻[せめ]しめければ。秋九月といへるに遂に落城して。満祐は乱軍の中に自殺をぞ遂[とげ]たりける。
扨[さて]此[この]満祐一門に。赤松左衛門尉常祐[あかまつさゑもんのぜうぜうゆう]といふものあり。天性英智[ゑいち]忠を励み。義を専[もっぱ]らとして▼塵芥[じんかい]の事にも克[よく]三思[さんし]を廻[めぐら]し。▼満祐謀反の▼刻[きざみ]も度々[たびたび]▼諫争[かんそう]してけれども。更に是を用ひざれば。其[その]不義なるを▼恚[ふづく]み。世を疎[うとん]じて▼播州[ばんしう]一谷[いちのたに]の山奥に引篭[ひきこも]り。▼家の子郎等[らうどう]にいたるまで。皆ことごとく暇[いとま]をとらせて。只[ただ]常姫[つねひめ]と名づけし三才なる幼子[みどりご]をやしなひ。臣下には赤松忠之丞春時[あかまつちうのぜうはるとき]なるもの一人[いちにん]をぞ▼倶[ぐ]したりける。春時が妻に咲花[さくはな]と云[いへ]る▼節婦[せっぷ]あり。はた米吉[よねきち]といふ五才になれる子息ありて。共に常祐に帥[かしづき]しが。主従もとより心にもあらで。此[この]山中の▼春秋[はるあき]を営みけり。時に京都の逆臣鬼塚道見[おにづかだうけん]といふもの。兼[かね]て常祐が仁義を守れる本性なるを心に忌嫌[いみきらひ]居たりしが。頃日[このごろ]常祐一の谷の山中に引篭り。彼[か]の亡[ほろび]たる満祐が▼恨[うらみ]を報ぜんため。密[ひそか]に▼軍勢を駆催[かりもよほ]して。京都を攻[せむ]べききざしの由[よし]承りぬと。短[たん]を求めて▼讒奏[ざんそう]に及びければ。将軍最[いと]驚き玉ひて。直[ただち]に鬼塚道見を討手とし。是に数百の▼士卒を授けて一の谷をぞ攻[せめ]させらる。比[ころ]しも秋の末つかた。其勢[そのぜい]凡[およそ]三百余騎。▼陣太皷をうちならして。僅[わづか]に常祐主従の隠家[かくれが]を。▼十重廿重[とへはたへ]に取巻たり。
されば爰[ここ]には▼思ひ設けぬ事成[なれ]ば。常祐を始めとして春時も周章[あはてふため]き。▼寄手[よりて]は如何なる者やらん。先[まづ]哨馬[ものみ]をぞ仕[つかまつ]り候[さむら]はんと。外[と]のかたに立出[たちいづ]るを。常祐ややと声かけて。春時を近く招き。是に告[つげ]て云[いひ]たるやう。こは正[まさ]しく鬼塚道見が討手とこそ覚えたれ。渠[かれ]元来[もとより]▼諂諛[てんゆ]を以[も]て君を欺[あざむ]き奉り。渠[かれ]を避[さけ]しめんと謀りしに。渠[かれ]また我を悪[にく]める事。仇敵[あだかたき]の如[ごとく]なりしも我[わが]武運つたなくて。斯[かく]▼零落せし程なれば。今ぞ▼怨[うらみ]を散ずべき時なめりと。▼去[さり]し満祐が謀反に事よせ。我をも▼誅[ちう]に伏さしむる奸計[かんけい]を心得たり。よしそれとても仕方なし。▼官軍に弓引[ゆみひく]べき謂[いはれ]なければ。唯[ただ]潔[いさぎよ]く▼生害[せうがい]して▼後の世を全うせんと思ふなり。さるにても此侭[このまま]に。我空しく世を辞せば。誰かは此[この]不義ならざるを天下に明[あか]し得[う]べけんや。見よ我▼冥土[めいど]の鬼とならば生[いけ]る鬼塚を挫[とりひし]ぎて▼国の愁[うれひ]を除くべし。されば汝等[なんじら]親子の者は。早[はやく]此処[このところ]を落延[おちのび]。我[わが]なき跡に常姫をもりたてて米吉に▼嫁[か]せしめよ。斯[かく]て又時節を得ば。将軍家に訴訟して我[わが]汚名をも雪[すす]ぐべし。さあらば此世[このよ]におもひ置く事さらになし。是までなりやさらばぞと。もろはだ押抜[おしぬき]懐剣をぬきもちたる。其手[そのて]にすがりて春時が。忽[たちまち]両眼に涕[なみだ]を灑[すすぎ]。実[げ]に御定[ごぜう]には候へども。臣[しん]元来[もとより]君と先世同祖なれば。譬[たとへ]今遁[のが]れしとて▼讒者[ざんしゃ]の為に捜し出[いだ]され。同じく誅を蒙[こう]むらん事必定せり。▼まいて▼君恩[くんおん]海よりも深く。山よりも尚[なほ]高し。何[なんぞ]かかる時節に臨んで。片時[へんし]も後[おく]れまいらする事をせん。願[ねがは]くば▼黄泉[こうせん]に御供[おんとも]し。▼三途の川の浅瀬を渡[わたり]奉らん。又常姫君の御事[おんこと]は。咲花に託し申さば。米吉が成長を相待[あいまち]御本懐を達せん事。▼露ばかり油断仕り候はん様もなし。▼児女子[じじょし]は讒[ざん]にもあふまじければ。世をかくれ忍ぶさへ。我等[われら]がやうにはあるべからず。臣に唯々[ただただ]死出[しで]の御供[おんとも]仕り度[たく]さむらふなれと。ひた嘆[なげ]きに歎[なげ]きて云[いへ]ば。常祐大[おほひ]に怒[いかっ]ていへらく。汝[なんじ]如何[いか]なれば一時の理を泥[なず]んで。百年の謀[はかりごと]を誤れるや。夫[それ]死は易く生は難[かた]し。唯[ただ]我が素志[そし]を遂[とげ]しめんこそ。真の忠心と云[いふ]べけれ▼疾々[とくとく]妻子を将[ゐ]て落[よち]よと。▼堰[せき]にせいたる折[おり]こそあれ。最[いと]▼攻太皷[せめだいこ]の近づけば。春時もせんかたなく。前後を忘[ぼう]じて立[たっ]たりしが。今はかくては叶[かな]はじと。やがて常姫を懐[いだ]きまいらせ。咲花には我が子を託して。夫婦諸共[もろとも]甲斐々々敷[かひがひしく]常姫を守護しつつ。出行[いでゆく]空もなかなかに。▼生[いき]ながらふる身を怨めば。常祐も心の中[うち]に涕を隠し。春時に命じて飛竜丸[ひりゃうまる]の名剣を取出[とりいだ]しめ。是は赤松の家に伝はる宝なれども。斯[かく]成果[なりはつ]るうへなれば。▼先裔[せんえい]の同性なる。汝が為に与ふるなり。後又[のちまた]子孫に譲るべしと。春時に是を渡し。死期[しご]をいそぎつれなくも▼一間[ひとま]に入れば。▼何心なき常姫が。父上こひしと泣叫ぶを。▼ふすまのあなたに常祐が。可愛[かあい]のものやといひさして。懐剣抜[ぬき]たる音すなり。
外[と]の方よりは鬼塚道見。士卒を▼下知[げぢ]して鯨声[とき]を揚れば。先[まづ]裏口より妻子を▼落[おと]して。春時一人常姫を懐[ふところ]にし。さるにても主君の死骸を仇敵[きうてき]の手に渡さじと。表の軒端[のきば]に火を放ち。一間[ひとま]のうちに▼欠入[かけい]れば。はや常祐は腹かき切り。咽[のんど]に刀突たてて。うつぶせにぞ伏したりけり。夫[それ]と見るより心も消え。目さへ眛[くら]みてをのづから。倒るる足を踏しめ踏しめ。やがて死骸を▼わきばさんで。同[おなじ]く▼脊戸屋[せどや]の口に出[いづ]れば。押寄[おしよせ]たる軍勢の。▼四方八面遠間[とおま]もなく。山のごとくに見えわたりて。さらに▼落[おつ]べき道だになく。さきに出[いで]たる妻子さへ。前後を忘[ぼう]じて立居たり。されば。かく君の亡骸[なきがら]を負[おひ]奉りて。姫を懐にせし上は。妻子を助けて▼囲[かこみ]を出[いで]んやうもなし。只君がなきがらをば▼烟[けぶり]となしまいらせて。仇敵の手に渡さじものをと。もとの住家に立帰り。以前放ちし烈火の中[うち]に入[いれ]奉りて。やがて妻子を後ろに歩ませ。▼槍を捻[ひねっ]て大勢に割[わっ]て入[いれ]ば。すはや曲者[くせもの]ござんなれ。生捕[いけどっ]て鬼塚公の御前へ引[ひけ]と。▼手々[てんで]に▼得物[えもの]を引提[ひっさげ]つつ。夫婦のものを真中[まんなか]に取囲めば。心得たりと春時が。彼[かの]▼長坂坡[てうはんぱ]の戦ひに。幼主を救ひし昔をならひて。あたかも▼長雲[てううん]が勇を振[ふる]ひ。右往左往に薙立突立[なぎたてつきたて]。遣[やっ]つかへしつたたかふうちに。忽[たちまち]一方を切破[きりやぶっ]て。漸[やうやく]道の分[わか]ちさへ見えたるに。常姫を始めとして親子三人▼恙[つつが]なければ。春時ほと溜息つき。とある木蔭に▼休らひしが。追手かからぬ其先[そのさき]に。いでいで道を急がんと▼鵯越[ひよどりごへ]を跡になし。落ゆく方のそこぞとも。知らぬ山々谷々分[わけ]てあとなくなりにけり。
秋の日なれば暮[くれ]やすく。▼日も西山[せいざん]に傾[かたぶ]きて。月まだ出[いで]ぬ宵闇に。生田[いくた]の森のかなたより。松明[たいまつ]星の如[ごとく]に爛[きらめ]き。数百の軍勢大浪の湧[わく]がごとく。えいえい声して馳来[はせきた]り。▼鬼塚が後陣を破[やぶれ]ば。道見大に周章[あはてふため]き。こは如何なる狼[らう]ぜきやらんと。▼駒のかしらをふりむけて。暫[しばし]▼陣所に彳[たたず]む所へ。美々[びび]しき▼[灰+皿]甲[はいこう]に身をかためて。威風凛々たる大将の。二騎相並んで真先[まっさき]に進み出[いで]。▼大音声[だいおんぜう]に呼[よば]はりけるは。いかに鬼塚道見慥[たしか]に聞[きけ]。汝兼[かね]て謀反の企[くはだ]てあるにより。ややもすれば賢を悪[にく]める事[こと]甚[はなはだ]しく剰[あまつさへ]▼君を欺[あざむ]き奉り。罪なき常祐を攻[せめ]んとせし非道の沙汰。今日露顕に及びたれば。君大に後悔し玉ひ。とく我々に命じ玉ひて常祐を助令[たすけしむ]。はた汝を▼誅戮[ちうりく]して。国の患[うれ]ひを除くべしとの厳命なれば。速[すみやか]に頭[こうべ]を切[きっ]て将軍に捧[ささげ]奉るべき処なり。斯[かく]いふ我々両人は。磯川持之[いそかはもちゆき]畠山持国[はたけやまもちくに]なりと呼[よば]はる声を聞[きき]しより。さしもの道見たまりかね。一戦にも及ば不[ず]して。馬よりどうと倒[さかしま]に落[おち]たりけり。されば道見が▼宗徒[むねと]の臣。横島軍藤六[よこしまぐんとうろく]是を助けて。士卒の中に紛[まぎ]れ入[い]れば。▼両将苛[いらっ]て傍[あたり]を捜求[さがしもとむ]れど。道見に付随[つきしたが]ひたる軍兵[ぐんべう]ども。旗を捨て弓箭[ゆみや]を投[なげ]て一同に迯廻[にげまは]れば。いづれに行くを道見と認[みとめ]がたく。只闇討にうたしめけれと。終[つい]に行衛[ゆくゑ]を見失ひて。空しく軍[いくさ]を繰上[くりあげ]けり。扨[さて]常祐が隠家[かくれが]を尋[たづ]ぬるに。早▼尽[はやことごとく]灰塵[くわいぢん]となり果[はて]て。更に人気[ひとけ]も見えざりければ。両将大に嘆息し。扨[さて]は常祐主従が。斯[か]く隠家に火を放ちて。生害[せうがい]せしと覚[おぼへ]たり。口惜[くちおし]や甲斐[かひ]なやと。互[たがひ]に涕を催[もよほ]して鎧の袖をぞぬらしける。
▼山囲故国周遭在[やまここくをかこんでしうそうとあり]。潮打空城寂寞回[うしほくうぜうをうちせきばくとしてかへる]。古人の作れる詩[からうた]も。茲[ここ]にぞ思ひ合せたる。淡路島の南界に。灘[なだ]といへる所あり。南は▼青海E茫[せいかいべうぼう]として。目に見るものは雲と水。北は▼岩石崔嵬[がんせきさいくわい]をかたどり。人の行来[ゆきき]の路[みち]たえて。只数声[すうせい]の猿の声[こゑ]▼谺[こだま]に響くばかりなり。茲[ここ]に赤松忠之丞春時[あかまつちうのぜうはるとき]は。主君常祐の遺命を守り。常姫を供[ぐ]し参らせて。此[この]海岸に世を忍[しのぶ]しばしが程の侘住居[わびずまゐ]。▼弓矢とる身のはかなくも。釣り▼漁[すなどり]を業[わざ]として。是[ここ]を三里北なる淡路の町に売鬻[うりひさ]ぎ。細き烟[けぶり]も立てかねて。奔走隙[ひま]なき活計[すぎわい]に。妻[つま]咲花も千辛万苦を堪忍[たえしの]び。克[よく]春時に仕へて。常姫米吉が養育を専[もっぱら]とし。昼は海辺に▼藻塩[もしほ]を拾[とり]。夜は一点の灯[ともし]を挑[かか]げて。窓下[そうか] に▼麻苧[あさう]を紡績[うみつむ]ぎ。飢寒[きかん]を凌[しの]ぐ扶[たすけ]として其日々々[そのひそのひ]を営みけり。
右[かく]て▼光陰矢のごとく。已[すで]に二年の春秋[はるあき]を過[すぎ]ければ。常姫は四才になり。米吉は七才に成[なり]たりける。扨[さて]或夜[あるよ]春時は。灯下に小首[こくび]傾けて心の中[うち]に思ふ様[やう]。我[われ]先君の遺命を受[うけ]て。惜しからぬ命をながらへ。斯[か]く民間に堕落して虚[むな]しく月日を送るといへども。今に君の汚名をも雪[すす]ぎ奉らず。女児にも劣れる振舞は。返す返すも口惜[くちおし]し。さりとて京都[みやこ]に近付かず。又復[またまた]道見が為に見出され。ことには常姫君の命まで召されんも量[はか]りがたし。嗚呼[ああ]何[いづれ]の日か天運の廻[めぐり]来て。此[この]鬱憤をば散[さん]ずべきと。良[やや]嘆息して居たりしを。咲花は夫[それ]と見て。我が夫[つま]何をか患[うれ]ひ 玉ふぞ。我等[われら]此処[このところ]にきたりしより。貧苦に迫れる年月は過[すご]せども。さいはひに常姫や米吉が。▼風[かぜ]さへ召さず煩[わづら]はず。其[その]▼生長[おひたち]まで人に勝[すぐ]れて。▼利発にも見えはべれば。自[おのづから]末たのもしく覚[おぼゆ]るなり。夫[それ]人[ひと]乱[みだれ]て天に勝ち。天[てん]定[さだまっ]て人に勝[かつ]とやらん承りさふらへば。終[つゐ]には本懐を達せんこと。疑ふべくもあらずかし。只[ただ]何事も打廃[うちすて]て時を待[まつ]には如[し]くべからず。さばかり悶苦[もだへくるし]みて。病[やまひ]を醸[かも]し玉ふなと。▼半眼に笑ひを催ほし。半眼に涕を浮[うか]めて。夫[つま]の心を慰[なぐさむ]る。心は同じ嘆きにて。夜[よ]を寝ぬ床[とこ]の海原に泣沈むこそ哀[あはれ]なれ。頃しも春の夜をこめて。はや明星の爛[きらめ]けば。例の如くに咲花が。甲斐々々しく▼飯[いゐ]を炊[かし]き。兎角[とかく]して東明[しののめ]ちかくなるままに。春時は彼[かの]▼打網[うちあみ]を引提[ひきさげ]つつ。海辺をさして急ぎゆく。跡見送りて咲花が。今日も魚[うお]だに獲[え]玉はば。あはびさだおかみさかなに。酒ととのへて参せん。疾々[とくとく]かへらせ玉へやと。夕[ゆうべ]を契る言の葉も。名残惜しげに立別れぬ。
扨[さて]春時は灘[なだ]より小舟に棹[さお]さして空の景色をながむるに。春の日の長閑[のどか]にして。一点の雲だになければ。けふぞ獲[えもの]も沢山[さは]なるべしと。心の中[うち]ほとほとよろこび。遥の沖に漕出せば。いよいよ濤[なみ]穏[おだや]かにして鼈頭[べっとう]動き。風[かぜ]静[しづか]にして蜃気[しんき]昇り。西となく東となく。其[その]絶景たとふるに物なければ。天涯[てんがい]に眼[まなこ]を極[きは]めて眺望したる折[おり]こそあれ。不思議や一つの快船[はやふね]の。いづくよりかは来りけん。此[この]春時が乗たる船に近づきて。とりえたる▼いろくずをば皆ことごとく得させよと。高らかに呼[よば]はれば。是[これ]正[まさ]しく海賊なめりと。春時やがて是に答へて。安き程の事にてはさふらへども。御覧さふらへ今日は未[ま]だ。一つの魚だにとりえねば参らすべきものもなし。あら笑止やと▼唯[いら]へて。面[おもて]を見ればこは如何[いか]に。鬼塚道見が宗徒[むねと]の臣。横島軍藤六なりけり。扨[さて]また船中に座したる賊は。紛[まぎれ]もなき道見なれば。春時奇異の思[おもひ]を為[な]し。先[まづ]其[その]仔細を問[とは]んとすれば。彼方[かなた]より道見が。春時を白眼[にらみ]見て。珍しや赤松春時。我一度[ひとたび]常祐が為に謀反人の汚名を蒙り。はからずも一の谷の陣中より。官軍を追払はるれば。日本国中[にっぽんこくちう]身を置[おか]ん処なく。空しく▼海賊の作業に飢寒を凌[しの]ぎ。斯[か]く汎然[はんぜん]と波濤[はとう]の上に漂ふなり。此[この]怨[うらみ]や汝等[なんじら]に掛るまじきか。おもひよらずも今茲[いまここ]に。出会たるこそ幸[さいわい]なれ。いで汝を八裂[やつざき]にして海底に投ずべし。覚悟せよ春時と。怒[いか]れる眼[まなこ]に顔色[がんしょく]変じ。髪逆立たる様態[ありさま]は。▼夜叉の荒たる如くにて。大刀[たち]抜[ぬき]かざし立上[たちあが]れば。軍藤六は▼熊手をもて。▼こなたの船に打掛け打掛け。えいやえいやと引寄る。扨[さて]春時は腰に▼飛竜の名剣を▼帯たれども。賊の為に汚[けが]さんは恐ありと。楫[かい]を握[にぎっ]て身をかため。はたと白眼[にらん]で詰寄れば。よせて船さへすりあひぬ。
髟而[やがて]春時。道見に謂[いっ]て云[いは]く。汝さいわひに生[いき]ながらへてありしよな。我は此[この]海上に漂ふみ。汝をまつこと已[すで]に久し。今日ぞ怨[うらみ]を散ずべき時来ぬれば。疾[と]く汝が頭[かうべ]を切[きっ]て亡君に捧ぐべし。いでいで頭[かうべ]をうけとらんと。▼かなたの船に飛[とび]うつれば。しやものものしと道見が。身を飜[かは]して切[きり]つくるを。受[うけ]つ流しつ戦ひしが。春時透[すか]さず。もちたる楫[かい]を取出し。真甲微塵[まっかうみぢん]に打[うち]つくれば。道見が太刀筋乱れて。叶難[かなひがた]くや思ひけん。海にざんぶと飛入[とびいれ]ば。遁[のが]すまじとて春時も。続いて波間に飛込だり。道見忽[たちまち]とってかへし。浮[うき]つ沈[しづん]づ切る太刀の。光は波に輝きて。月の出汐[でしほ]に異ならず。こなたは楫[かい]を振立々々[ふりたてふりたて]よせてはかへし返してはよるかと見れば船中より。軍藤六が例の熊手をさしのべて。春時の袖にからみ。水底深く突入[つきい]るるを。しすましたりと道見 が。同じ熊手の柄[え]に取[とり]つき。其侭[そのまま]とりて春時を。▼千尋[ちひろ]の底に沈めつつ。其身[そのみ]も見えず成りにけり。船の中には軍藤六。主人を敵に討[うた]せじと艫舳[ともへ]に立[たち]て身をあせれど。游[およ]ぐ事さへしら波の行く衛[ゑ]いかにと見居たる所に。水底深くあと喚[さけ]ぶ声のみして。波は血汐に染[そめ]なせば。扨[さて]はいづれか討[うた]れぬらん。南無や八幡大菩薩。南無阿弥陀仏みだ仏[ほとけ]。主人道見息才延命。春時往生疑ひなしと一心不乱に念じつつ。舷[ふなはた]に取つきて。▼血の沸くかたを見てあれば。飛竜丸の宝剣を片手に掴み。血刀を波濤に洗[あらっ]て。鬼塚道見忽然[こつぜん]と浮み出れば。あら有難[ありがた]やうれしやと。軍藤六もさながらに。蘇りたる心地して。難なく船にぞ引上たり。憐[あはれ]むべし春時は。いかなる前世の▼業因[がういん]にや。かかる忠義の士といへども。▼天運つたなく。終に▼凶賊の為に害せられて。空[むなし]く此[この]▼海底のみくづとはなりにけり。
扨[さて]また灘[なだ]の棲[すみか]には。児等[こら]を相手に咲花が。夫の▼留主守[るすも]るうき涕。かかることとは露ばかり。神ならぬ身の知らばこそ。只春時がかへらぬ程を待侘[まちわび]て。如何なる故[ゆへ]にやあるらんと。▼磯辺づたひをたどりつつ。▼遠[おち]よ近[こち]よと尋ぬれど。沖のかたにも汀[みぎは]にも。蜑小舟[あまこぶね]さへ見えざれば。其事[そのこと]問はんよすがだに。浪打[うち]よする春の風。松に音する許[ばかり]なり。携[たずさ]ふ二人[ふたりの]稚児[おさなご]は。左に父を尋ぬれば。右[みぎ]りに泣[なき]て恋慕ふ同じ思ひに三人が。真沙[まさご]のうへにまろび臥し。春時殿に我が夫[つま]よ。我が父上と声たてて。呼号[よびさけ]びたる其折[そのおり]しも。沖のかたより風かけり。小船一艘寄せくれば。是ぞ正[まさ]しく春時の乗[のり]玉ひたる船ならんと。咲花やがて立上[たちあが]り。のび上りつつ差招けば。次第に近づく▼猟船[りゃうせん]の。目じるしだにも違ひなく。たしかに夫[それ]と見るままに。浪打際[なみうちぎは]へ下立[おりたっ]て。我が夫[つま]いかで遅かりし。こは転寝[うたたね]もやしたまふらん。疾々[とくとく]起[おき]させ玉ひねと。問へどこたへもあら磯の。風のまにまに彼[か]の船は。ゆられ流れて汎々[はんぱん]たり。あなこちたしと身をもたべ。船の舳先[へさき]にすがるべく。水の浅みに飛入れば。不思議や底にありありと。血に染[そ]む骸[かばね]の見え透くを。もし其人[そのひと]やと気づかはしく。諸手[もろて]をかけてゆり起[おこ]し。面[おもて]を見ればこは如何[いか]に。正[まさ]しく春時なりければ。見るに目も暮[くれ]心も消え。汀[みぎは]にどうと倒[たほ]るれば死骸も水に枕して。もとの波間に流るるを。あなやいづくに行[ゆき]玉ふと。走り寄りて懐[いだき]つき。小婦[わらは]は斯[か]くも待侘[まちわび]て。たづね迷ふをさりとては。あはれとも思[おぼ]されず。あまり難面[つれ]なの御事[おんこと]や。せめては▼物をのたまへよ咲花にてさふらふぞと。問へど▼いらへも情[なさけ]なく。歯を喰[くい]しばり目を閉[とぢ]て。▼赤[あけ]に染[そみ]たる忽身[そうしん]の氷の如く冷[ひえ]わたれば。咲花始めて打驚[うちおどろ]き。こは何事ぞ我が夫[つま]は。死[しに]玉へるかと計[ばか]りにて。あと号[さけ]びつつ転臥[まろびふ]し前後不覚に泣沈めば。裙[すそ]に懸[かか]れる波よりも袖の涙や深からん。扨[さて]米吉は常姫を脊[せな]に負[お]ひ。此[この]▼遠浅[とをあさ]に下り立[たっ]て。父上かへらせ玉ふかと。呼[よば]はる声を聞[きき]しより。咲花はっと心付き。もし姫君の水底に落入[おちいり]玉はば如何[いか]にせん。其方[そなた]に待[また]せ玉へよと。我が子を制す片手には夫[つま]の死骸をいたはりて。見よ茲許[ここもと]に帰らせ玉へば。いざいざ伴[ともな]ひ参らせん。辺[はた]になよりそと▼ゆふ汐の。さす手をかりて春時が。骸[かばね]は▼沙上に引上たり。斯[かく]てあるべき事ならねば。先[まづ]何者の所為[しわざ]にや。さるべき証拠もあれかしと。身前身後[しんぜんしんご]を捜せども。是ぞと思ふものもなく。剰[あまつさ]へ腰に飛竜の宝剣も帯ずして。只脇腹を▼弓手[ゆんで]より。▼馬手[めて]に貫く太刀疵[たちきづ]の。洞[ほら]のごとくに見えたれば。忽[たちまち]心頭より怒[いかり]を発して。あら口惜[くちおし]やと歯がみをなし。敵[かたき]はいづくにありとても。やは此[この]怨みを晴[はら]さでは置[おく]べきか。あら口惜[くちおし]や無念やと。海のおもてを見やりつつ。身を揮[ふる]はして立上れば。こなたにうかがふ米吉が。よよと泣て走りいで。我が父上を殺せしは何処[いづく]の誰にてあるやらん。痛くつめりて母人[ははびと]の。今の恨[うらみ]をはらすべし。敵[かたき]のありか教[おしへ]てよと。何心なき幼子[おさなご]の。親を思へる孝の道。なを行末[ゆくすへ]のたのもしく。咲花殆[ほとんど]感悦[かんゑつ]し。実[げ]に▼栴檀[せんだん]の二葉[ふたば]よりかんばしと。流石[さすが]にも春時殿の胤[たね]なりけり。うれしの我が子。勇ましの米吉やと。ほとほと歓[よろこ]ぶ目もとより。先だつものは涙なり。
扨[さて]米吉を傍近[そばちか]く懐[いだ]き寄せ。これに告[つげ]て云ひける様[やう]。御身[おんみ]幼き心にもよく聞[きき]てよ。今父上を害せしは。いづくの誰と知れねども。赤松家の重宝[てうほう]たる。飛竜の剣[つるぎ]の見えざれば。正[まさ]しく奪はれ玉ひぬと覚へたり。されば彼[か]の宝剣を所持なすものこそ。父の敵[かたき]と心得べし。さるにても父上は。千万騎の敵をだに物の数共し玉はず。勝利を得玉ふ勇士にて。かくやみやみと討[うた]れ玉へば。敵も又尋常[よりつね]の者ならじ。必[かならず]不覚を取まじと。日頃心に油断なく。なを剣法をも学ぶべし。かまへて此事[このこと]忘れなと。教へさとせば米吉が。謹[つつしん]で是を聞き。敵の首をとらん事。貝拾ふより安かるべし。さのみな案じ玉ひそと。最[いと]おとなびて聞[きこ]えつつ母を労[いたは]る其折[そのおり]しも。後の▼山の絶頂より。熊鷹[くまたか]の大ひなるが羽たたきして飛下[とびくだ]り。春時が枕のもとに泣臥したる。常姫を▼掴むとひとしく。其侭[そのまま]虚空を翔[かけ]上れば。咲花大にあはてふためき。あれよあれよと立騒ぎ。足をはかりに追行けど雲井遥かに隔[へだた]りて。影だに見えず飛失[とびうせ]ぬ。なを咲花は心乱れて。夫の死骸も米吉も。灘のこなたに残し置き。唯[ただ]常姫を慕ひつつ。行き行く方はいづこなれば。淡路の町の程近き。▼荒磯ぎはにぞ出たりける。
已[すで]に此日[このひ]も▼入相[いりあひ]に。海の面[おもて]の暮[くれ]ゆけば。沖の▼いざり火ほのみえて。最[いと]寥々[りゃうりゃう]たる松陰[まつかげ]を。そこともしらで行迷ふ。乱れ心ぞ便なけれ。時に海岸にかかりたる泊船[とまりぶね]のありけるが。裡[うち]より一人の大男[おのこ]苫[とま]をもたげて。さきより咲花がはしりあるくを見ゐたるさまなり。此男[このおのこ]忽[たちまち]陸[くが]に飛上り。狂人の前に立て。こやつ▼胡散[うさん]なしれものと。顔さし覗[のぞ]けば咲花が。夢の心地に打驚[うちおどろ]き。何との玉ふそれなるは小松の三位[さんみ]重盛[しげもり]とや。君は昔日[そのかみ]世を辞し玉ふと聞[きこ]えしが。今此[いまこの]浦にましませしに。そも此度[このたび]の戦ひに。平家は須磨を落[おち]玉ひて。主上を始め奉り御一門さへ残[のこり]なく。彼[か]の海底に沈み玉ふ。されば我のみ世の中に。生[いき]長らへて何かせん。疾[と]く此[この]海に身を投[なげ]て。先だち玉ひし我君や。我が亡夫[なきつま]の御供せん。そこ退[のき]玉へと云[いひ]つつも。▼小石を拾ふて袂[たもと]に入れ。海原さして駆[は]せ行[ゆく]を。やらじと留[とめ]て其侭[そのまま]に。小児のごとく懐[いだ]き上げ。もとの船にぞ乗りうつりぬ。
咲花は心地酔[よへ]るが如くにて。如何なる方にや来ぬらんと。先[まづ]此船[このふね]の裡[うち] を見るに。彼[か]の夫[おのこ]の妻と覚[おぼ]しく。年の頃▼三十余り六七計[ばかり]なる女が。余多[あまた]の嬰児[こども]を膝の前後[まへうしろ]に置[おき]て。乳抔[ちちなど]与ふるけはひなり。扨[さて]此女[このおんな]が咲花を見て夫にいへらく。今宵[こよひ]の獲[えもの]は美しきえものなれど。年ははや廿余[はたちあま]りと見えはべれば。些[ちと]▼古き方にて。十分の価[あた]ひに売らんもおぼつかなかるべし。そがうへ剥取るべき衣服だに見苦[みぐるし]うて。さまでのものとも覚えぬを。せめては身に添[そへ]たる▼黄金[こがね]にてもえ玉ふかと。最[いと]さかしげに尋ぬれば。夫は聞くより首打[くびうち]ふり。いないな是は人買ふ人などに売渡すべき為にてはさふらはず。いかさま由[よし]ある人の女[め]と見えはべるが。何等[なんら]の故[ゆえ]にや心乱れて。此[この]浦伝[うらづた]ひを狂ひありけば。余[あまり]の事の痛はしさに。斯[か]くもたすけて▼養生を加ふるなり。されば御身も心を添[そへ]て。此[この]病者を労[いたわ]るべしかまへて▼麁略[そりゃく]にし玉ふなと。かたへに坐したる咲花が脊[せな]の辺[あたり]を撫[なで]つつ云へば。妻もさすがに▼腹ふくらし。実[げ]に仰[おほせ]は去る事なれども。夫[それ]なる女は元来[もとより]何の縁[ゆかり]ありとも覚えぬを。さまでいたはり玉ふこそ心得ぬ。小婦[わらは]はえこそいたはるまじけれ。只[ただ]剥取[はぎとる]べきものもなき狂人ならば。いつまで爰[ここ]に留置[とめおか]んも▼無益[むやく]なり。いざいざもとの海岸に▼追[おひ]やらんと。自[みづから]立[たつ]れば。夫[おのこ]は見るより忽[たちまち]に。其手[そのて]を取[とっ]て払ひのけ。襟髪[ゑりがみ]掴んで投居[なげすへ]たりこは何故[なにゆへ]にわらはをば投[なげ]玉ふぞ。さるにても嫉[ねた]ましきは只狂人と。又立上るを復[また]はねのけ。疾[と]く猿轡[さるぐつは]に口を覆[おほ]ひ。碇[いかり]の綱もて身を縛[いまし]め。なんじこそ狂人ならし。動いて見よと白眼[にらむ]れば。妻もさすがに▼せんかたなく。眼[まなこ]計[ばかり]を怒[いか]らして。無念の涙せきあへず。歎[なげ]くとしるき有様は。おかしくも又心地よし。さればこなたに臥し居たる幼子[おさなご]の夫[それ]と見るより打驚[うちおどろ]き。父上などか母人[ははびと]を縛[いま]しめ玉ふぞ。疾[と]く免[ゆる]してよとなきさけべば。あな喧[かまび]すしといきまきて。船の板子[いたご]を左右へはねのけ。二人三人の幼子[おさなご]をば。みな船ぞこに押入れ押入れ。もとのごとくに板子を並べ。上に自[みづから]どうと坐し。さて咲花をながし目に見やりつつ。実[げ]に美しき狂人かな。いづくの誰とはしらねども今日彼所[かしこ]にて見初[みそめ]しより。今は思ひに堪へざれば。永く御身をここもとに留置[とめおき]。▼二世[にせ]の契[ちぎり]を結ばんと思ふなり。かく恋[こが]るれば稲船[いなふね]の。いなにはあらじと戯れつ波まくらして添臥[そひふ]しぬ妻は見るより▼気をいらち。唯[ただ]後手[うしろで]に繋がれし。いかりの色をほのめかせど。夫[おのこ]は更に見向[みむき]もせず。いよいよこなたに戯るを。咲花忽[たちまち]心づき。汝いかなる者なれば斯[か]く我を侮[あなど]り不礼なる。▼聊爾[りゃうじ]なせそと突放し。袖を払ふて立[たた]んとすれば。夫[おのこ]は独[ひとり]莞爾々々[からから]と打笑[うちわら]ひ。とても海の上なれば。何方[いづく]へ遁[のが]れん道もなし。兎[と]に角[かく]に心を定めて。早々[はやはや]我に随へと。又寄添へば咲花が。傍[あたり]に有合[ありあふ]刀▼おっとり抜手[ぬくて]も見せず。只[ただ]一討[ひとうち]と切[きり]つけたり。夫[おのこ]は忽[たちまち]かいくぐりて。咲花が刀持手[かたなもつて]をしっかと捕へ。大に怒[いか]って謂[いっ]て云[いは]く汝等[なんじら]が豪傑を知らずして。かかる不敵の振舞こそ奇怪[きっくわい]なれ。いで此怨[このうらみ]を報ぜんには我又汝の心の侭[まま]に罪[つみ]すべし。されば只一刀に討果[うちはた]さんは安けれども。斯[かく]ては曲も無かるべければ。▼終夜[よもすがら]百刀にして殺すべし。先[まづ]一刀を受[うけ]て見よと。咲花が眉間[みけん]をさして。一寸許[ばかり]傷[きづつ]くれば。妻は見るより忽[たちまち]に怒[いかり]の色を和[やはら]げて。板子[いたご]を足に蹈鳴[ふみなら]し。小躍[こおどり]してぞ歓[よろこ]びける。咲花は皃[かほ]に流るる血汐をはらひ。▼丈[たけ]なる髪を振乱[ふりみ]だして。物言ひたげに悶[もだ]ゆれど。こなたは刀の絶間[たえま] なく。畳[たた]みかけつつ切るままに。更に▼面[おもて]もわかぬまで身は尽[ことごと]く血に染[そみ]たり。
時に怪しや朦朧[もうろう]たる▼烟霞[えんか]の中より。一陣の冷風[れいふう]此船[このふね]の傍[かたへ]を吹けば。忽[たちまち]波濤[はとう]を覆[くつがへ]して。赤松春時忽然[こつぜん]と顕[あらは]れ出[いで]。▼悪鬼[あくき]のごとく眼[まなこ]を怒[いか]らし。大に声を放って謂[いへ]らく。いかに横島軍藤六。汝[なんじ]鬼塚道見と力を合せて。先に我を海底に沈めし事。其怨[そのうらみ]心魂に徹せしなり。剰[あまつさ]へ我妻[わがつま]まで。かくぞ捕へて切[きり]さいなみ。世に例[ためし]なき暴悪をばしつるよな。見よ汝[なんじ]思ひしらざで置くべきかと。いと▼青ざめたる手をさしのべ。丈[たけ]高く。つったち上[あが]りて。▼後髪[うしろがみ]を曳くよと見えしが。次第に風の烈[はげし]く吹けば。船諸共[もろとも]に亡霊も。遥の沖にぞ漂ひぬ。
巻之上終