天縁奇遇(てんえんきぐう) 巻之上


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天縁奇遇 巻之上

東武 神屋蓬洲述並画

第一齣

今は昔人皇[にんわう]百三代。後花園院[ごはなぞのいん]の御宇[ぎょう]かとよ。嘉吉元年 六月京都の将軍義教[よしのり]。赤松満祐[あかまつまんいう]領地を分[わか]って。赤松貞村[あかまつさだむら]に与[あたへ]んと欲し玉ひしに。満祐此事[このこと]を憤[いきどほ]り。遂に義教公を[しい][たてまつ]る。是に仍[より]管領[かんりゃう]磯川持之[いそかはもちゆき]。畠山持国[はけたやまもちくに]義勝[よしかつ]を帥[かしづ]き奉り。軍勢を催[もよ]ほして 彼[か]の満祐が楯篭[たてこも]れる。播州白幡[ばんしうしらはた]の城を攻[せめ]しめければ。秋九月といへるに遂に落城して。満祐は乱軍の中に自殺をぞ遂[とげ]たりける。

▼人皇…大和朝廷の天皇。
▼後花園院…後花園天皇。
▼嘉吉元年…1441年。
▼義教公…足利義教(1394-1441)足利幕府の6代目の将軍さま。
▼領地を分って…領地を切り分けて。
▼弑し…ころして。嘉吉の乱を言ったもの。足利義教はこのとき殺されてしまいました。
▼管領…「かんれい」ではなく「かんりょう」という読みに注意。
▼義勝公…足利義勝(1434-1443)足利幕府の7代目の将軍さま。

[さて][この]満祐一門に。赤松左衛門尉常祐[あかまつさゑもんのぜうぜうゆう]といふものあり。天性英智[ゑいち]忠を励み。義を専[もっぱ]らとして塵芥[じんかい]の事にも[よく]三思[さんし]を廻[めぐら]し。満祐謀反[きざみ]も度々[たびたび]諫争[かんそう]してけれども。更に是を用ひざれば。其[その]不義なるを[ふづく]。世を疎[うとん]じて播州[ばんしう]一谷[いちのたに]の山奥に引篭[ひきこも]り。家の子郎等[らうどう]にいたるまで。皆ことごとく暇[いとま]をとらせて。只[ただ]常姫[つねひめ]と名づけし三才なる幼子[みどりご]をやしなひ。臣下には赤松忠之丞春時[あかまつちうのぜうはるとき]なるもの一人[いちにん]をぞ[ぐ]したりける。春時が妻に咲花[さくはな]と云[いへ]節婦[せっぷ]あり。はた米吉[よねきち]といふ五才になれる子息ありて。共に常祐に帥[かしづき]しが。主従もとより心にもあらで。此[この]山中の春秋[はるあき]を営みけり。時に京都の逆臣鬼塚道見[おにづかだうけん]といふもの。兼[かね]て常祐が仁義を守れる本性なるを心に忌嫌[いみきらひ]居たりしが。頃日[このごろ]常祐一の谷の山中に引篭り。彼[か]の亡[ほろび]たる満祐が[うらみ]を報ぜんため。密[ひそか]軍勢を駆催[かりもよほ]して。京都を攻[せむ]べききざしの由[よし]承りぬと。短[たん]を求めて讒奏[ざんそう]に及びければ。将軍最[いと]驚き玉ひて。直[ただち]に鬼塚道見を討手とし。是に数百の士卒を授けて一の谷をぞ攻[せめ]させらる。比[ころ]しも秋の末つかた。其勢[そのぜい][およそ]三百余騎。陣太皷をうちならして。僅[わづか]に常祐主従の隠家[かくれが]を。十重廿重[とへはたへ]に取巻たり。

▼塵芥の事にも…どんなちいさな事でも。
▼満祐謀反…領地や新将軍のことに関するごたごたで赤松満祐が足利幕府に対して起こした一連のむほん。
▼刻…〜のとき。過去の特定の時間をさすときにつかうことば。
▼諫争…おいさめもうしあげる。
▼恚み…このましく思わない。
▼播州…播磨の国。
▼家の子郎等…家の子郎党。家臣たち。
▼倶したりける…つれていった。
▼節婦…立派なおくさん。
▼春秋を営みけり…年月をすごしていった。「春秋」は一年間のこと。
▼恨を報ぜんため…うらみをはらすために。
▼軍勢を駆催して…軍勢をかりあつめて。
▼讒奏…「赤松常祐は主君を討たれた事への報復計画をたてておりますよ」と鬼塚道見は幕府に讒言を奏上したの。
▼士卒…兵卒。
▼陣太皷…軍を進めるときに鳴らす太皷。
▼十重廿重…ぐるぐるびっしりと取り囲む。

されば爰[ここ]には思ひ設けぬ事[なれ]ば。常祐を始めとして春時も周章[あはてふため]き。寄手[よりて]は如何なる者やらん。先[まづ]哨馬[ものみ]をぞ仕[つかまつ]り候[さむら]はんと。外[と]のかたに立出[たちいづ]るを。常祐ややと声かけて。春時を近く招き。是に告[つげ]て云[いひ]たるやう。こは正[まさ]しく鬼塚道見が討手とこそ覚えたれ。渠[かれ]元来[もとより]諂諛[てんゆ]を以[も]て君を欺[あざむ]き奉り。渠[かれ]を避[さけ]しめんと謀りしに。渠[かれ]また我を悪[にく]める事。仇敵[あだかたき]の如[ごとく]なりしも我[わが]武運つたなくて。斯[かく]零落せし程なれば。今ぞ[うらみ]を散ずべき時なめりと。[さり]満祐が謀反に事よせ。我をも[ちう]に伏さしむる奸計[かんけい]を心得たり。よしそれとても仕方なし。官軍に弓引[ゆみひく]べき謂[いはれ]なければ。唯[ただ][いさぎよ]生害[せうがい]して後の世を全うせんと思ふなり。さるにても此侭[このまま]に。我空しく世を辞せば。誰かは此[この]不義ならざるを天下に明[あか]し得[う]べけんや。見よ我冥土[めいど]の鬼とならば生[いけ]る鬼塚を挫[とりひし]ぎて国の愁[うれひ]を除くべし。されば汝等[なんじら]親子の者は。早[はやく]此処[このところ]を落延[おちのび]。我[わが]なき跡に常姫をもりたてて米吉に[か]せしめよ。斯[かく]て又時節を得ば。将軍家に訴訟して我[わが]汚名をも雪[すす]ぐべし。さあらば此世[このよ]におもひ置く事さらになし。是までなりやさらばぞと。もろはだ押抜[おしぬき]懐剣をぬきもちたる。其手[そのて]にすがりて春時が。忽[たちまち]両眼に涕[なみだ]を灑[すすぎ][げ]に御定[ごぜう]には候へども。臣[しん]元来[もとより]君と先世同祖なれば。譬[たとへ]今遁[のが]れしとて讒者[ざんしゃ]の為に捜し出[いだ]され。同じく誅を蒙[こう]むらん事必定せり。まいて君恩[くんおん]海よりも深く。山よりも尚[なほ]高し。何[なんぞ]かかる時節に臨んで。片時[へんし]も後[おく]れまいらする事をせん。願[ねがは]くば黄泉[こうせん]に御供[おんとも]し。三途の川の浅瀬を渡[わたり]奉らん。又常姫君の御事[おんこと]は。咲花に託し申さば。米吉が成長を相待[あいまち]御本懐を達せん事。露ばかり油断仕り候はん様もなし。児女子[じじょし]は讒[ざん]にもあふまじければ。世をかくれ忍ぶさへ。我等[われら]がやうにはあるべからず。臣に唯々[ただただ]死出[しで]の御供[おんとも]仕り度[たく]さむらふなれと。ひた嘆[なげ]きに歎[なげ]きて云[いへ]ば。常祐大[おほひ]に怒[いかっ]ていへらく。[なんじ]如何[いか]なれば一時の理を泥[なず]んで。百年の謀[はかりごと]を誤れるや。夫[それ]死は易く生は難[かた]し。唯[ただ]我が素志[そし]を遂[とげ]しめんこそ。真の忠心と云[いふ]べけれ疾々[とくとく]妻子を将[ゐ]て落[よち]と。[せき]にせいたる[おり]こそあれ。最[いと]攻太皷[せめだいこ]の近づけば。春時もせんかたなく。前後を忘[ぼう]じて立[たっ]たりしが。今はかくては叶[かな]はじと。やがて常姫を懐[いだ]きまいらせ。咲花には我が子を託して。夫婦諸共[もろとも]甲斐々々敷[かひがひしく]常姫を守護しつつ。出行[いでゆく]空もなかなかに。[いき]ながらふる身を怨めば。常祐も心の中[うち]に涕を隠し。春時に命じて飛竜丸[ひりゃうまる]の名剣を取出[とりいだ]しめ。是は赤松の家に伝はる宝なれども。斯[かく]成果[なりはつ]るうへなれば。先裔[せんえい]の同性なる。汝が為に与ふるなり。後又[のちまた]子孫に譲るべしと。春時に是を渡し。死期[しご]をいそぎつれなくも一間[ひとま]に入れば。何心なき常姫が。父上こひしと泣叫ぶを。ふすまのあなたに常祐が。可愛[かあい]のものやといひさして。懐剣抜[ぬき]たる音すなり。

▼思ひ設けぬ事…思いもよらない突然の事。
▼寄手…攻め寄せてくる軍勢。ここでは幕府からつかわされた鬼塚道見たちの軍勢。
▼諂諛…おべっか。侫言。
▼零落…落ちぶれ果てた。一の谷の山の中でほそぼそと暮らしている現状を言ったもの。
▼恨を散ず…うらみをはらす。
▼去し…以前の。いまは亡き。
▼官軍に弓引…足利幕府に対立する。
▼誅に伏さしむる…悪者として退治させる。
▼生害…切腹。自刃。
▼後の世…後生、来世。
▼冥土の鬼…あの世のひと。うらめしや。
▼国の愁…国家の害毒となるような悪人たちのこと。
▼嫁せしめよ…よめにさせよ。
▼讒者…讒言をする悪者。ここでは鬼塚道見やそれに類する者のこと。
▼まいて…まして。
▼君恩海よりも深く山よりも尚高し…主君から受けたご恩は海より深く山より高い。北条政子も御家人たちにこんな事を言っておったね。
▼黄泉…あの世。よみのくに。「黄泉にお供」はあとを追って殉死をすること。あとに出て来る「死出のお供」も同様の意味。
▼三途の川…あの世にあるという川。ここを渡ると十王庁など、生前の善悪の裁判などをする施設にたどりつきますそうな。
▼露ばかり…ほんのちょっぴりも。
▼児女子…こどもや女性。ここでは常姫、米吉と咲花。
▼疾々…はやくはやく。
▼堰にせいたる…あせりにあせる。「せき」は「急」が正しい用字ですが、「堰」の字がつかわれることも多いようです。
▼攻太皷…軍を攻め込ませるときに打ち鳴らす合図の陣太皷の音。
▼生ながらふる身…生き長らえる我が身。
▼先裔…ご先祖様。
▼一間…一室。
▼何心なき…まだ小さくて無邪気な。
▼ふすまのあなた…ふすまを隔てた向こう側。

[と]の方よりは鬼塚道見。士卒を下知[げぢ]して鯨声[とき]を揚れば。先[まづ]裏口より妻子を[おと]して。春時一人常姫を懐[ふところ]にし。さるにても主君の死骸を仇敵[きうてき]の手に渡さじと。表の軒端[のきば]に火を放ち。一間[ひとま]のうちに欠入[かけい]れば。はや常祐は腹かき切り。咽[のんど]に刀突たてて。うつぶせにぞ伏したりけり。夫[それ]と見るより心も消え。目さへ眛[くら]みてをのづから。倒るる足を踏しめ踏しめ。やがて死骸をわきばさんで。同[おなじ]脊戸屋[せどや]の口に出[いづ]れば。押寄[おしよせ]たる軍勢の。四方八面遠間[とおま]もなく。山のごとくに見えわたりて。さらに[おつ]べき道だになく。さきに出[いで]たる妻子さへ。前後を忘[ぼう]じて立居たり。されば。かく君の亡骸[なきがら]を負[おひ]奉りて。姫を懐にせし上は。妻子を助けて[かこみ]を出[いで]んやうもなし。只君がなきがらをば[けぶり]となしまいらせて。仇敵の手に渡さじものをと。もとの住家に立帰り。以前放ちし烈火の中[うち]に入[いれ]奉りて。やがて妻子を後ろに歩ませ。槍を捻[ひねっ]大勢に割[わっ]て入[いれ]ば。すはや曲者[くせもの]ござんなれ。生捕[いけどっ]て鬼塚公の御前へ引[ひけ]と。手々[てんで]得物[えもの]を引提[ひっさげ]つつ。夫婦のものを真中[まんなか]に取囲めば。心得たりと春時が。彼[かの]長坂坡[てうはんぱ]の戦ひに。幼主を救ひし昔をならひて。あたかも長雲[てううん]が勇を振[ふる]ひ。右往左往に薙立突立[なぎたてつきたて]。遣[やっ]つかへしつたたかふうちに。忽[たちまち]一方を切破[きりやぶっ]て。漸[やうやく]道の分[わか]ちさへ見えたるに。常姫を始めとして親子三人[つつが]なければ。春時ほと溜息つき。とある木蔭に休らひしが。追手かからぬ其先[そのさき]に。いでいで道を急がん鵯越[ひよどりごへ]を跡になし。落ゆく方のそこぞとも。知らぬ山々谷々分[わけ]てあとなくなりにけり。

▼下知して…命じて。
▼落して…落ち延びさせて。
▼欠入れば…駆け入れば。
▼わきばさんで…脇にかかえて。
▼脊戸屋の口…うらぐち。
▼四方八面…四方八方から。
▼落べき道…逃げるためのみち。
▼囲を出んやう…ぐるりと取り囲まれた敵勢の中から脱出する方法。
▼烟となしまいらせて…燃やしてしまって。敵勢に首を取られないようにする最終手段。
▼槍を捻て…やりをグイッとしごいて。
▼手々…それぞれに。
▼得物…武器。
▼長坂坡の戦ひ…劉備と曹操が交えたいくさ。『三国志』で知られているもので、幼主というのは劉備の息子・劉禅のこと。
▼長雲…趙雲のこと。長坂坡の戦いで劉禅を救った段はよく知られていたおはなし。
▼恙なければ…無事だった。
▼休らひ…ひといきつく。
▼鵯越…一の谷。

秋の日なれば暮[くれ]やすく。日も西山[せいざん]に傾[かたぶ]きて。月まだ出[いで]ぬ宵闇に。生田[いくた]の森のかなたより。松明[たいまつ]星の如[ごとく]に爛[きらめ]き。数百の軍勢大浪の湧[わく]がごとく。えいえい声して馳来[はせきた]り。鬼塚が後陣を破[やぶれ]。道見大に周章[あはてふため]き。こは如何なる狼[らう]ぜきやらんと。駒のかしらをふりむけて。暫[しばし]陣所に彳[たたず]む所へ。美々[びび]しき[灰+皿]甲[はいこう]に身をかためて。威風凛々たる大将の。二騎相並んで真先[まっさき]に進み出[いで]大音声[だいおんぜう]に呼[よば]はりけるは。いかに鬼塚道見慥[たしか]に聞[きけ]。汝兼[かね]て謀反の企[くはだ]てあるにより。ややもすれば賢を悪[にく]める事[こと][はなはだ]しく剰[あまつさへ]を欺[あざむ]き奉り。罪なき常祐を攻[せめ]んとせし非道の沙汰。今日露顕に及びたれば。君大に後悔し玉ひ。とく我々に命じ玉ひて常祐を助令[たすけしむ]。はた汝を誅戮[ちうりく]して。国の患[うれ]ひを除くべしとの厳命なれば。速[すみやか]に頭[こうべ]を切[きっ]て将軍に捧[ささげ]奉るべき処なり。斯[かく]いふ我々両人は。磯川持之[いそかはもちゆき]畠山持国[はたけやまもちくに]なりと呼[よば]はる声を聞[きき]しより。さしもの道見たまりかね。一戦にも及ば不[ず]して。馬よりどうと倒[さかしま]に落[おち]たりけり。されば道見が宗徒[むねと]の臣。横島軍藤六[よこしまぐんとうろく]是を助けて。士卒の中に紛[まぎ]れ入[い]れば。両将[いらっ]て傍[あたり]を捜求[さがしもとむ]れど。道見に付随[つきしたが]ひたる軍兵[ぐんべう]ども。旗を捨て弓箭[ゆみや]を投[なげ]て一同に迯廻[にげまは]れば。いづれに行くを道見と認[みとめ]がたく。只闇討にうたしめけれと。終[つい]に行衛[ゆくゑ]を見失ひて。空しく軍[いくさ]を繰上[くりあげ]けり。扨[さて]常祐が隠家[かくれが]を尋[たづ]ぬるに。早[はやことごとく]灰塵[くわいぢん]となり果[はて]て。更に人気[ひとけ]も見えざりければ。両将大に嘆息し。[さて]は常祐主従が。斯[か]く隠家に火を放ちて。生害[せうがい]せしと覚[おぼへ]たり。口惜[くちおし]や甲斐[かひ]なやと。互[たがひ]に涕を催[もよほ]して鎧の袖をぞぬらしける。

▼日も西山に傾きて…おひさまが西の山にしずんでいく。
▼鬼塚が後陣を破れば…どこからか急に来た軍勢が鬼塚道見の軍勢を打ち破りだしたので、道見はびっくり仰天。
▼駒のかしら…馬のあたま。
▼陣所…軍の本陣。
▼[灰+皿]甲…よろいかぶと。
▼大音声に呼はりける…おおきな声をはりあげて呼びかける。
▼君…足利将軍。
▼誅戮…せいばいする。
▼宗徒の臣…一番の家臣。
▼両将…磯川持之と畠山持国。
▼尽灰燼…ぜんぶまっくろこげ。

第二齣

山囲故国周遭在[やまここくをかこんでしうそうとあり]。潮打空城寂寞回[うしほくうぜうをうちせきばくとしてかへる]。古人の作れる詩[からうた]も。茲[ここ]にぞ思ひ合せたる。淡路島の南界に。灘[なだ]といへる所あり。南は青海E茫[せいかいべうぼう]として。目に見るものは雲と水。北は岩石崔嵬[がんせきさいくわい]をかたどり。人の行来[ゆきき]の路[みち]たえて。只数声[すうせい]の猿の声[こゑ][こだま]に響くばかりなり。茲[ここ]に赤松忠之丞春時[あかまつちうのぜうはるとき]は。主君常祐の遺命を守り。常姫を供[ぐ]し参らせて。此[この]海岸に世を忍[しのぶ]しばしが程の侘住居[わびずまゐ]弓矢とる身のはかなくも。釣り[すなどり]を業[わざ]として。是[ここ]を三里北なる淡路の町に売鬻[うりひさ]ぎ。細き烟[けぶり]も立てかねて。奔走隙[ひま]なき活計[すぎわい]に。妻[つま]咲花も千辛万苦を堪忍[たえしの]び。克[よく]春時に仕へて。常姫米吉が養育を専[もっぱら]とし。昼は海辺に藻塩[もしほ]を拾[とり]。夜は一点の灯[ともし]を挑[かか]げて。窓下[そうか]麻苧[あさう]を紡績[うみつむ]ぎ。飢寒[きかん]を凌[しの]ぐ扶[たすけ]として其日々々[そのひそのひ]を営みけり。

▼山囲故国周遭在…山と海にぐるりと囲まれてる。劉禹錫の「石城頭」から。「山囲故国周遭在 潮打空城寂寞回 淮水東辺旧時月 夜深還過女牆来」
▼青海E茫…海がひろがっている。
▼岩石崔嵬…岩山がそびえている。
▼谺…やまびこ。
▼弓矢とる身…武士。
▼漁…魚や貝を採ること。
▼藻塩…海藻をあつめて燃やしてつくる塩。
▼麻苧…麻糸の材料。

[かく]光陰矢のごとく。已[すで]に二年の春秋[はるあき]を過[すぎ]ければ。常姫は四才になり。米吉は七才に成[なり]たりける。扨[さて]或夜[あるよ]春時は。灯下に小首[こくび]傾けて心の中[うち]に思ふ様[やう][われ]先君の遺命を受[うけ]て。惜しからぬ命をながらへ。斯[か]く民間に堕落して虚[むな]しく月日を送るといへども。今に君の汚名をも雪[すす]ぎ奉らず。女児にも劣れる振舞は。返す返すも口惜[くちおし]し。さりとて京都[みやこ]に近付かず。又復[またまた]道見が為に見出され。ことには常姫君の命まで召されんも量[はか]りがたし。嗚呼[ああ][いづれ]の日か天運の廻[めぐり]来て。此[この]鬱憤をば散[さん]ずべきと。良[やや]嘆息して居たりしを。咲花は夫[それ]と見て。我が夫[つま]何をか患[うれ]ひ 玉ふぞ。我等[われら]此処[このところ]にきたりしより。貧苦に迫れる年月は過[すご]せども。さいはひに常姫や米吉が。[かぜ]さへ召さず煩[わづら]はず。其[その]生長[おひたち]まで人に勝[すぐ]れて。利発にも見えはべれば。自[おのづから]末たのもしく覚[おぼゆ]るなり。夫[それ][ひと][みだれ]て天に勝ち。天[てん][さだまっ]て人に勝[かつ]とやらん承りさふらへば。終[つゐ]には本懐を達せんこと。疑ふべくもあらずかし。只[ただ]何事も打廃[うちすて]て時を待[まつ]には如[し]くべからず。さばかり悶苦[もだへくるし]みて。病[やまひ]を醸[かも]し玉ふなと。半眼に笑ひを催ほし。半眼に涕を浮[うか]めて。夫[つま]の心を慰[なぐさむ]る。心は同じ嘆きにて。夜[よ]を寝ぬ床[とこ]の海原に泣沈むこそ哀[あはれ]なれ。頃しも春の夜をこめて。はや明星の爛[きらめ]けば。例の如くに咲花が。甲斐々々しく[いゐ]を炊[かし]。兎角[とかく]して東明[しののめ]ちかくなるままに。春時は彼[かの]打網[うちあみ]を引提[ひきさげ]つつ。海辺をさして急ぎゆく。跡見送りて咲花が。今日も魚[うお]だに獲[え]玉はば。あはびさだおかみさかなに。酒ととのへて参せん。疾々[とくとく]かへらせ玉へやと。夕[ゆうべ]を契る言の葉も。名残惜しげに立別れぬ。

▼光陰矢のごとく…月日のたつのは早いもの。
▼風…風邪。
▼生長…成長。
▼利発…利口で発明。おりこうさん。
▼半眼…片方の目。
▼飯を炊き…ごはんたき。
▼打網…魚をとるための投網。赤松春時の現在の商売道具。

[さて]春時は灘[なだ]より小舟に棹[さお]さして空の景色をながむるに。春の日の長閑[のどか]にして。一点の雲だになければ。けふぞ獲[えもの]も沢山[さは]なるべしと。心の中[うち]ほとほとよろこび。遥の沖に漕出せば。いよいよ濤[なみ][おだや]かにして鼈頭[べっとう]動き。風[かぜ][しづか]にして蜃気[しんき]昇り。西となく東となく。其[その]絶景たとふるに物なければ。天涯[てんがい]に眼[まなこ]を極[きは]めて眺望したる折[おり]こそあれ。不思議や一つの快船[はやふね]の。いづくよりかは来りけん。此[この]春時が乗たる船に近づきて。とりえたるいろくずをば皆ことごとく得させよと。高らかに呼[よば]はれば。是[これ][まさ]しく海賊なめりと。春時やがて是に答へて。安き程の事にてはさふらへども。御覧さふらへ今日は未[ま]だ。一つの魚だにとりえねば参らすべきものもなし。あら笑止や[いら]へて。面[おもて]を見ればこは如何[いか]に。鬼塚道見が宗徒[むねと]の臣。横島軍藤六なりけり。扨[さて]また船中に座したる賊は。紛[まぎれ]もなき道見なれば。春時奇異の思[おもひ]を為[な]し。先[まづ][その]仔細を問[とは]んとすれば。彼方[かなた]より道見が。春時を白眼[にらみ]見て。珍しや赤松春時。我一度[ひとたび]常祐が為に謀反人の汚名を蒙り。はからずも一の谷の陣中より。官軍を追払はるれば。日本国中[にっぽんこくちう]身を置[おか]ん処なく。空しく海賊の作業に飢寒を凌[しの]ぎ。斯[か]く汎然[はんぜん]と波濤[はとう]の上に漂ふなり。此[この][うらみ]や汝等[なんじら]に掛るまじきか。おもひよらずも今茲[いまここ]に。出会たるこそ幸[さいわい]なれ。いで汝を八裂[やつざき]にして海底に投ずべし。覚悟せよ春時と。怒[いか]れる眼[まなこ]に顔色[がんしょく]変じ。髪逆立たる様態[ありさま]は。夜叉の荒たる如くにて。大刀[たち][ぬき]かざし立上[たちあが]れば。軍藤六は熊手をもて。こなたの船に打掛け打掛け。えいやえいやと引寄る。扨[さて]春時は腰に飛竜の名剣帯たれども。賊の為に汚[けが]さんは恐ありと。楫[かい]を握[にぎっ]て身をかため。はたと白眼[にらん]で詰寄れば。よせて船さへすりあひぬ。

▼いろくず…うろくず。魚のこと。
▼唯へて…答えて。
▼海賊の作業…海賊をはたらく。
▼夜叉…ひとを喰べたりするおそろしい魔物。
▼熊手…棒の先端に爪状の金具がついているもの。戦闘中、物をひっかけて引き寄せたりするのに使われます。
▼こなたの船…赤松春時の乗ってる小舟。
▼飛竜の名剣…赤松家に伝わる飛竜丸。
▼帯たれども…携帯していましたが。

髟而[やがて]春時。道見に謂[いっ]て云[いは]く。汝さいわひに生[いき]ながらへてありしよな。我は此[この]海上に漂ふみ。汝をまつこと已[すで]に久し。今日ぞ怨[うらみ]を散ずべき時来ぬれば。疾[と]く汝が頭[かうべ]を切[きっ]て亡君に捧ぐべし。いでいで頭[かうべ]をうけとらんと。かなたの船に飛[とび]うつれば。しやものものしと道見が。身を飜[かは]して切[きり]つくるを。受[うけ]つ流しつ戦ひしが。春時透[すか]さず。もちたる楫[かい]を取出し。真甲微塵[まっかうみぢん]に打[うち]つくれば。道見が太刀筋乱れて。叶難[かなひがた]くや思ひけん。海にざんぶと飛入[とびいれ]ば。[のが]すまじとて春時も。続いて波間に飛込だり。道見忽[たちまち]とってかへし。浮[うき]つ沈[しづん]づ切る太刀の。光は波に輝きて。月の出汐[でしほ]に異ならず。こなたは楫[かい]を振立々々[ふりたてふりたて]よせてはかへし返してはよるかと見れば船中より。軍藤六が例の熊手をさしのべて。春時の袖にからみ。水底深く突入[つきい]るるを。しすましたりと道見 が。同じ熊手の柄[え]に取[とり]つき。其侭[そのまま]とりて春時を。千尋[ちひろ]の底に沈めつつ。其身[そのみ]も見えず成りにけり。船の中には軍藤六。主人を敵に討[うた]せじと艫舳[ともへ]に立[たち]て身をあせれど。游[およ]ぐ事さへしら波の行く衛[ゑ]いかにと見居たる所に。水底深くあと喚[さけ]ぶ声のみして。波は血汐に染[そめ]なせば。[さて]はいづれか討[うた]れぬらん。南無や八幡大菩薩。南無阿弥陀仏みだ仏[ほとけ]。主人道見息才延命。春時往生疑ひなしと一心不乱に念じつつ。舷[ふなはた]に取つきて。血の沸くかたを見てあれば。飛竜丸の宝剣を片手に掴み。血刀を波濤に洗[あらっ]て。鬼塚道見忽然[こつぜん]と浮み出れば。あら有難[ありがた]やうれしやと。軍藤六もさながらに。蘇りたる心地して。難なく船にぞ引上たり。憐[あはれ]むべし春時は。いかなる前世の業因[がういん]にや。かかる忠義の士といへども。天運つたなく。終に凶賊の為に害せられて。空[むなし]く此[この]海底のみくづとはなりにけり。

▼かなたの船…鬼塚道見たちの海賊船。
▼千尋の底…ふかいふかい海底。
▼血の沸くかた…ぶくぶくと血がにじみわたってるほう。
▼業因…因果のめぐりあわせ。
▼天運…天の決めた運。
▼凶賊…わるもの。
▼海底のみくづ…海のもくず。あわれ赤松春時はプランクトンになってしまいました。

[さて]また灘[なだ]の棲[すみか]には。児等[こら]を相手に咲花が。夫の留主守[るすも]うき涕。かかることとは露ばかり。神ならぬ身の知らばこそ。只春時がかへらぬ程を待侘[まちわび]て。如何なる故[ゆへ]にやあるらんと。磯辺づたひをたどりつつ。[おち]よ近[こち]と尋ぬれど。沖のかたにも汀[みぎは]にも。蜑小舟[あまこぶね]さへ見えざれば。其事[そのこと]問はんよすがだに。浪打[うち]よする春の風。松に音する許[ばかり]なり。携[たずさ]ふ二人[ふたりの]稚児[おさなご]は。左に父を尋ぬれば。右[みぎ]りに泣[なき]て恋慕ふ同じ思ひに三人が。真沙[まさご]のうへにまろび臥し。春時殿に我が夫[つま]よ。我が父上と声たてて。呼号[よびさけ]びたる其折[そのおり]しも。沖のかたより風かけり。小船一艘寄せくれば。是ぞ正[まさ]しく春時の乗[のり]玉ひたる船ならんと。咲花やがて立上[たちあが]り。のび上りつつ差招けば。次第に近づく猟船[りゃうせん]の。目じるしだにも違ひなく。たしかに夫[それ]と見るままに。浪打際[なみうちぎは]へ下立[おりたっ]て。我が夫[つま]いかで遅かりし。こは転寝[うたたね]もやしたまふらん。疾々[とくとく][おき]させ玉ひねと。問へどこたへもあら磯の。風のまにまに彼[か]の船は。ゆられ流れて汎々[はんぱん]たり。あなこちたしと身をもたべ。船の舳先[へさき]にすがるべく。水の浅みに飛入れば。不思議や底にありありと。血に染[そ]む骸[かばね]の見え透くを。もし其人[そのひと]やと気づかはしく。諸手[もろて]をかけてゆり起[おこ]し。面[おもて]を見ればこは如何[いか]に。正[まさ]しく春時なりければ。見るに目も暮[くれ]心も消え。汀[みぎは]にどうと倒[たほ]るれば死骸も水に枕して。もとの波間に流るるを。あなやいづくに行[ゆき]玉ふと。走り寄りて懐[いだき]つき。小婦[わらは]は斯[か]くも待侘[まちわび]て。たづね迷ふをさりとては。あはれとも思[おぼ]されず。あまり難面[つれ]なの御事[おんこと]や。せめては物をのたまへよ咲花にてさふらふぞと。問へどいらへも情[なさけ]なく。歯を喰[くい]しばり目を閉[とぢ]て。[あけ][そみ]たる忽身[そうしん]の氷の如く冷[ひえ]わたれば。咲花始めて打驚[うちおどろ]き。こは何事ぞ我が夫[つま]は。死[しに]玉へるかと計[ばか]りにて。あと号[さけ]びつつ転臥[まろびふ]し前後不覚に泣沈めば。裙[すそ]に懸[かか]れる波よりも袖の涙や深からん。扨[さて]米吉は常姫を脊[せな]に負[お]ひ。此[この]遠浅[とをあさ]に下り立[たっ]て。父上かへらせ玉ふかと。呼[よば]はる声を聞[きき]しより。咲花はっと心付き。もし姫君の水底に落入[おちいり]玉はば如何[いか]にせん。其方[そなた]に待[また]せ玉へよと。我が子を制す片手には夫[つま]の死骸をいたはりて。見よ茲許[ここもと]に帰らせ玉へば。いざいざ伴[ともな]ひ参らせん。辺[はた]になよりそゆふ汐の。さす手をかりて春時が。骸[かばね]沙上に引上たり。斯[かく]てあるべき事ならねば。先[まづ]何者の所為[しわざ]にや。さるべき証拠もあれかしと。身前身後[しんぜんしんご]を捜せども。是ぞと思ふものもなく。剰[あまつさ]へ腰に飛竜の宝剣も帯ずして。只脇腹を弓手[ゆんで]より。馬手[めて]に貫く太刀疵[たちきづ]の。洞[ほら]のごとくに見えたれば。忽[たちまち]心頭より怒[いかり]を発して。あら口惜[くちおし]と歯がみをなし。[かたき]はいづくにありとても。やは此[この]怨みを晴[はら]さでは置[おく]べきか。あら口惜[くちおし]や無念やと。海のおもてを見やりつつ。身を揮[ふる]はして立上れば。こなたにうかがふ米吉が。よよと泣て走りいで。我が父上を殺せしは何処[いづく]の誰にてあるやらん。痛くつめりて母人[ははびと]の。今の恨[うらみ]をはらすべし。敵[かたき]のありか教[おしへ]てよと。何心なき幼子[おさなご]の。親を思へる孝の道。なを行末[ゆくすへ]のたのもしく。咲花殆[ほとんど]感悦[かんゑつ]し。[げ]栴檀[せんだん]の二葉[ふたば]よりかんばしと。流石[さすが]にも春時殿の胤[たね]なりけり。うれしの我が子。勇ましの米吉やと。ほとほと歓[よろこ]ぶ目もとより。先だつものは涙なり。

▼留主守る…「るす」に使われてる「留主」と「留守」の用字ちがいに注意。
▼磯辺づたひ…海岸ぞい。
▼猟船…漁船。
▼遠よ近よ…あちらこちらを。
▼物をのたまへよ…何か言ってくださりませ。
▼いらへ…答え。
▼赤に…血に。舟に乗っかっていたのは血まみれになってもう冷たくなってる赤松春時でした。
▼遠浅…浅瀬。
▼ゆふ汐…「夕」汐と「言う」のかけことば。
▼沙上…砂浜のうえ。
▼弓手…ひだり手。
▼馬手…みぎ手。
▼栴檀の二葉よりかんばし…立派な人物はおさない頃から立派。

[さて]米吉を傍近[そばちか]く懐[いだ]き寄せ。これに告[つげ]て云ひける様[やう]御身[おんみ]幼き心にもよく聞[きき]てよ。今父上を害せしは。いづくの誰と知れねども。赤松家の重宝[てうほう]たる。飛竜の剣[つるぎ]の見えざれば。正[まさ]しく奪はれ玉ひぬと覚へたり。されば彼[か]の宝剣を所持なすものこそ。父の敵[かたき]と心得べし。さるにても父上は。千万騎の敵をだに物の数共し玉はず。勝利を得玉ふ勇士にて。かくやみやみと討[うた]れ玉へば。敵も又尋常[よりつね]の者ならじ。必[かならず]不覚を取まじと。日頃心に油断なく。なを剣法をも学ぶべし。かまへて此事[このこと]忘れなと。教へさとせば米吉が。謹[つつしん]で是を聞き。敵の首をとらん事。貝拾ふより安かるべし。さのみな案じ玉ひそと。最[いと]おとなびて聞[きこ]えつつ母を労[いたは]る其折[そのおり]しも。後の山の絶頂より。熊鷹[くまたか]の大ひなるが羽たたきして飛下[とびくだ]り。春時が枕のもとに泣臥したる。常姫を掴むとひとしく。其侭[そのまま]虚空を翔[かけ]上れば。咲花大にあはてふためき。あれよあれよと立騒ぎ。足をはかりに追行けど雲井遥かに隔[へだた]りて。影だに見えず飛失[とびうせ]ぬ。なを咲花は心乱れて。夫の死骸も米吉も。灘のこなたに残し置き。唯[ただ]常姫を慕ひつつ。行き行く方はいづこなれば。淡路の町の程近き。荒磯ぎはにぞ出たりける。

▼山の絶頂…やまのてっぺん。
▼掴む…巨大な熊鷹が常姫をつかんでさらっていってしまった。小さな子が鷹にさらわれてしまうのは、良弁の幼いときなど、古くからつかわれているお話の形。
▼荒磯ぎは…荒磯際。海岸。

[すで]に此日[このひ]入相[いりあひ]に。海の面[おもて]の暮[くれ]ゆけば。沖のいざり火ほのみえて。最[いと]寥々[りゃうりゃう]たる松陰[まつかげ]を。そこともしらで行迷ふ。乱れ心ぞ便なけれ。時に海岸にかかりたる泊船[とまりぶね]のありけるが。裡[うち]より一人の大男[おのこ][とま]をもたげて。さきより咲花がはしりあるくを見ゐたるさまなり。此男[このおのこ][たちまち][くが]に飛上り。狂人の前に立て。こやつ胡散[うさん]なしれものと。顔さし覗[のぞ]けば咲花が。夢の心地に打驚[うちおどろ]き。何との玉ふそれなるは小松の三位[さんみ]重盛[しげもり]とや。君は昔日[そのかみ]世を辞し玉ふと聞[きこ]えしが。今此[いまこの]浦にましませしに。そも此度[このたび]の戦ひに。平家は須磨を落[おち]玉ひて。主上を始め奉り御一門さへ残[のこり]なく。彼[か]の海底に沈み玉ふ。されば我のみ世の中に。生[いき]長らへて何かせん。疾[と]く此[この]海に身を投[なげ]て。先だち玉ひし我君や。我が亡夫[なきつま]の御供せん。そこ退[のき]玉へと云[いひ]つつも。小石を拾ふて袂[たもと]に入れ。海原さして駆[は]せ行[ゆく]を。やらじと留[とめ]て其侭[そのまま]に。小児のごとく懐[いだ]き上げ。もとの船にぞ乗りうつりぬ。

▼入相…日没。
▼いざり火…漁火。漁船のつけてる火。
▼胡散…あやしい。
▼小石を拾ふて袂に入れ…入水するとき、自分がなるべく沈むようにするための行為。

咲花は心地酔[よへ]るが如くにて。如何なる方にや来ぬらんと。先[まづ]此船[このふね]の裡[うち] を見るに。彼[か]の夫[おのこ]の妻と覚[おぼ]しく。年の頃三十余り六七計[ばかり]なる女が。余多[あまた]の嬰児[こども]を膝の前後[まへうしろ]に置[おき]て。乳抔[ちちなど]与ふるけはひなり。扨[さて]此女[このおんな]が咲花を見て夫にいへらく。今宵[こよひ]の獲[えもの]は美しきえものなれど。年ははや廿余[はたちあま]りと見えはべれば。些[ちと]古き方にて。十分の価[あた]ひに売らんもおぼつかなかるべし。そがうへ剥取るべき衣服だに見苦[みぐるし]うて。さまでのものとも覚えぬを。せめては身に添[そへ]たる黄金[こがね]にてもえ玉ふかと。最[いと]さかしげに尋ぬれば。夫は聞くより首打[くびうち]ふり。いないな是は人買ふ人などに売渡すべき為にてはさふらはず。いかさま由[よし]ある人の女[め]と見えはべるが。何等[なんら]の故[ゆえ]にや心乱れて。此[この]浦伝[うらづた]ひを狂ひありけば。余[あまり]の事の痛はしさに。斯[か]くもたすけて養生を加ふるなり。されば御身も心を添[そへ]て。此[この]病者を労[いたわ]るべしかまへて麁略[そりゃく]にし玉ふなと。かたへに坐したる咲花が脊[せな]の辺[あたり]を撫[なで]つつ云へば。妻もさすがに腹ふくらし[げ]に仰[おほせ]は去る事なれども。夫[それ]なる女は元来[もとより]何の縁[ゆかり]ありとも覚えぬを。さまでいたはり玉ふこそ心得ぬ。小婦[わらは]はえこそいたはるまじけれ。只[ただ]剥取[はぎとる]べきものもなき狂人ならば。いつまで爰[ここ]に留置[とめおか]んも無益[むやく]なり。いざいざもとの海岸に[おひ]やらんと。自[みづから][たつ]れば。夫[おのこ]は見るより忽[たちまち]に。其手[そのて]を取[とっ]て払ひのけ。襟髪[ゑりがみ]掴んで投居[なげすへ]たりこは何故[なにゆへ]にわらはをば投[なげ]玉ふぞ。さるにても嫉[ねた]ましきは只狂人と。又立上るを復[また]はねのけ。疾[と]く猿轡[さるぐつは]に口を覆[おほ]ひ。碇[いかり]の綱もて身を縛[いまし]め。なんじこそ狂人ならし。動いて見よと白眼[にらむ]れば。妻もさすがにせんかたなく。眼[まなこ][ばかり]を怒[いか]らして。無念の涙せきあへず。歎[なげ]くとしるき有様は。おかしくも又心地よし。さればこなたに臥し居たる幼子[おさなご]の夫[それ]と見るより打驚[うちおどろ]き。父上などか母人[ははびと]を縛[いま]しめ玉ふぞ。疾[と]く免[ゆる]してよとなきさけべば。あな喧[かまび]すしといきまきて。船の板子[いたご]を左右へはねのけ。二人三人の幼子[おさなご]をば。みな船ぞこに押入れ押入れ。もとのごとくに板子を並べ。上に自[みづから]どうと坐し。さて咲花をながし目に見やりつつ。[げ]に美しき狂人かな。いづくの誰とはしらねども今日彼所[かしこ]にて見初[みそめ]しより。今は思ひに堪へざれば。永く御身をここもとに留置[とめおき]二世[にせ]の契[ちぎり]を結ばんと思ふなり。かく恋[こが]るれば稲船[いなふね]の。いなにはあらじと戯れつ波まくらして添臥[そひふ]しぬ妻は見るより気をいらち。唯[ただ]後手[うしろで]に繋がれし。いかりの色をほのめかせど。夫[おのこ]は更に見向[みむき]もせず。いよいよこなたに戯るを。咲花忽[たちまち]心づき。汝いかなる者なれば斯[か]く我を侮[あなど]り不礼なる。聊爾[りゃうじ]なせそと突放し。袖を払ふて立[たた]んとすれば。夫[おのこ]は独[ひとり]莞爾々々[からから]と打笑[うちわら]ひ。とても海の上なれば。何方[いづく]へ遁[のが]れん道もなし。兎[と]に角[かく]に心を定めて。早々[はやはや]我に随へと。又寄添へば咲花が。傍[あたり]に有合[ありあふ]おっとり抜手[ぬくて]も見せず。只[ただ]一討[ひとうち]と切[きり]つけたり。夫[おのこ]は忽[たちまち]かいくぐりて。咲花が刀持手[かたなもつて]をしっかと捕へ。大に怒[いか]って謂[いっ]て云[いは]汝等[なんじら]が豪傑を知らずして。かかる不敵の振舞こそ奇怪[きっくわい]なれ。いで此怨[このうらみ]を報ぜんには我又汝の心の侭[まま]に罪[つみ]すべし。されば只一刀に討果[うちはた]さんは安けれども。斯[かく]ては曲も無かるべければ。終夜[よもすがら]百刀にして殺すべし。先[まづ]一刀を受[うけ]て見よと。咲花が眉間[みけん]をさして。一寸許[ばかり][きづつ]くれば。妻は見るより忽[たちまち]に怒[いかり]の色を和[やはら]げて。板子[いたご]を足に蹈鳴[ふみなら]し。小躍[こおどり]してぞ歓[よろこ]びける。咲花は皃[かほ]に流るる血汐をはらひ。[たけ]なる髪を振乱[ふりみ]だして。物言ひたげに悶[もだ]ゆれど。こなたは刀の絶間[たえま] なく。畳[たた]みかけつつ切るままに。更に[おもて]もわかぬまで身は尽[ことごと]く血に染[そみ]たり。

▼三十余り六七計…36、7歳ぐらい。
▼古き方…年取ってる。
▼黄金…おかね。
▼養生を加ふる…介抱をしてあげる。
▼麁略…粗略。ぞんざいに。
▼腹ふくらし…ぷりぷり怒って。
▼無益…むだ。
▼追やらん…追っ払って来ておくれよ。
▼せんかたなく…なすすべもなく。
▼二世の契…夫婦の関係。「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」という言葉から。
▼気をいらち…いらいらする。
▼聊爾…無礼なるふるまい。いたずら。
▼おっとり…押取り。すばやく取り上げて。
▼終夜百刀にして殺すべし…夜どおし少しずつ刀で切りさいなんで、じわじわと殺してやろう。
▼丈なる髪…とてもながい髪の毛。
▼面もわかぬまで…顔が見えなくなるまで。

時に怪しや朦朧[もうろう]たる烟霞[えんか]の中より。一陣の冷風[れいふう]此船[このふね]の傍[かたへ]を吹けば。忽[たちまち]波濤[はとう]を覆[くつがへ]して。赤松春時忽然[こつぜん]と顕[あらは]れ出[いで]悪鬼[あくき]のごとく眼[まなこ]を怒[いか]らし。大に声を放って謂[いへ]らく。いかに横島軍藤六。汝[なんじ]鬼塚道見と力を合せて。先に我を海底に沈めし事。其怨[そのうらみ]心魂に徹せしなり。剰[あまつさ]へ我妻[わがつま]まで。かくぞ捕へて切[きり]さいなみ。世に例[ためし]なき暴悪をばしつるよな。見よ汝[なんじ]思ひしらざで置くべきかと。いと青ざめたる手をさしのべ。丈[たけ]高く。つったち上[あが]りて。後髪[うしろがみ]を曳くよと見えしが。次第に風の烈[はげし]く吹けば。船諸共[もろとも]に亡霊も。遥の沖にぞ漂ひぬ。

巻之上終

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▼烟霞…かすみ。もやもや。
▼悪鬼…おそろしく邪悪な鬼。
▼青ざめたる手…赤松春時は既に亡霊になっちゃってるので体色がわるい。
▼後髪を曳く…幽霊が逃げ出したりした人間をひきもどす時の動作の一ッ。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい