×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

天縁奇遇(てんえんきぐう) 巻之中


巻之上
巻之中
巻之下

もどる

天縁奇遇 巻之中

東武 神屋蓬洲述並画

第三齣

却説[かへってとく]米吉[よねきち]の行衛[ゆくゑ]の覚束[おぼつか]なく。只姫君よ母上よと。こなたに吟[さまよ]ひかなたに呼[よび]。仰ぎつ臥しつ。足摺[あしすり]して歎[なげ]くといへども。未[まだ]此浦[このうら]の西東をだに分[わか]たざれば。いづくをさして尋ぬべきたよりもなく。あはれ往来[ゆきき]の人あらば。[とひ]もやせん兎見角見[とみかうみ]。扨又[さてまた]父の亡骸[なきがら]も。このまま砂上に曝[さら]さじと。幼心に心を配れど。かよはき臑[すね]の孤[ひとつ]にて。如何にとも。せんかた無ければ。なをも涙にむせびつつ茫然として立居たり。茲[ここ]もおなじき夕暮に。寝ぐらもとむる群烏[むれがらす]可哀[かあい]と鳴[ない]て行くかとみれば。情[なさけ]なや春時が死骸の上に群[むらが]り来り。[はし]を鳴[なら]して啄[ついばま]んと。かなたこなたに飛[とび]まがふを。米吉見るより走り寄り。追[おひ]つ払ひつ駆廻[かけめぐ]れど。次第に鳥の友よびて。下[お]り重なればさすがにも。はらひあぐみてどうと坐しよよと計[ばかり]に泣[なき]さけびぬ。斯[か]くてあるべき事ならねば。死骸を土中に埋[うづ]めんと。春時が臥したる傍[あたり]の。砂を左右へかきわけかきわけ。最[いと][ささやか]なる手のかぎり指もて地中を堀かへせば。皆爪先の皮肉を破りて。砂子[いさご][あけ]に染成[そみなし]たり。されども親を思へる心一なれば。更に煩[わづら]はしき事とも為[せ]ず。宛[あたか]も蟻[あり]の土もつごとく。已[すで]にして一歩ばかりの穴となれば。やがて死骸をあち押しこち押し。漸[やうや]く窪みに転[まろば]し落せば。群[むらが]る烏[からす]の忽[たちまち]に。此[この]孝心を感じてや啄[ついば]む嘴[はし]を飜[ひるがへ]し。皆口々に土[うごろ]を含[ふくん]で死骸の上に持運びぬ。余多[あまた]の鳥り斯[かく]すること頻[しき]り成れば。須臾[しばし]に尸[かばね]を埋[うづ]み隠して。もとの平沙[へいさ]となりたりけり。

▼米吉…赤松春時のむすこ。
▼母…赤松春時の妻・咲花。
▼姫君…常姫。赤松春時の主君・赤松常祐のご息女。
▼問もやせん…誰かが歩いて来たりでもしたら、母や姫様がどっちのほうへ行ったのか聞き出したい。
▼兎見角見…左見右見。あっちこっちをきょろきょろ。
▼砂上…砂浜の上に。
▼かよはき臑…か弱き臑。ちからが無い。
▼可哀…からすの鳴き声「かぁ」からの用字。
▼嘴…くちばし。
▼友よびて…なかまを呼んで。
▼皮肉を破りて…指がきずだらけ。
▼赤…血。
▼平沙…たいらな砂浜。

[かか]る処へ鬼塚道見[おにづかだうけん]賊と覚[おぼ]しき分扮[いでたち]なるが。一刀を腰に横たへ。しづしづと歩み来たり。米吉を見て問[とう]ていへらく。[なんじ]如何なる者の子なれば。斯[か]く人気[ひとげ]も見ぬ荒磯に。夕[ゆふべ] を待得[まちえ]て彳[たたずみ]しぞ。我は此傍[このあたり]に住居[すまゐ]する賈人[あきびと]なるが。元来[もとより]金銀財宝を身に貯へ。何不足なく世を渡れど。子といふものあらざれば。汝が如き幼稚[おさなき]を見る毎に。愛[いつくしみ]を加ふること。我が子のごとく思ふなり。されば汝も我が行方[ゆくかた]に来[きた]りなば。速[すみやか]美服[びふく]をもて其身[そのみ]に纏[まと]はせ。珍味を与ふて飽[あく]までに肥[こや]すべし。疾[とく]我が方に来たらんやと。米吉が手を携ふれば。こなたははらはらと涙を流し。いづこいかなる御方[おんかた]かはしらねども。実[げ]に有がたき御定[ごぜう]かな。我は固[もと]より名もなきものの子なりければ。左程[さほど]の寵[てう]を受[うけ]ずとも。便[たより]なき身を助[たすけ]てだに玉はらば。君が方に参るべし。いざいざ伴[ともな]ひ玉はれと。いとうれしげに聞[きこ]ゆれど。心の内はさながらに。父を埋[うづ]めし此浦[このうら]になつかしく。唯[ただ]程近き傍[あたり]といふをたのみにて。心ならずも随ひゆく。孤[みなしご]ぞ世に哀[あはれ]なれ。」

▼賈人…商人。
▼美服…きれいなきもの。
▼珍味…おいしいたべもの。
▼左程の寵…そんなに素晴らしい好待遇。

[それ]は扨置[さておき][ここ]讃州支度[しど]の辺[ほとり]に。毒虫の勘太[どくむしのかんた]と云ひて。世にしられたる悪漢[わるもの]あり。遠近[えんきん]より童男童女[どうなんどうじょ]を買とりて。是を中国西国に売渡し。大に利潤をむさぼれば。倖[さいわい]にして家[いへ]富けり。時に鬼塚道見は。彼[か]の米吉に猿轡[さるぐつは]を含ませ。或夜[あるよ][この]勘太がもとに引来たりて。疾[とく]売渡すべきよしを云ひ入るれば。勘太出[いで]て是を迎へ。先[まづ]米吉を熟[つくづく]見るに。色白く鼻筋通りて。眼中殊[こと]に美[うる]はしければ。是[これ][あっぱれ]金箱[かねはこ]なめりと。心の内にほとほと歓[よろこ]び。手のしなへ。足のほそやかなるまで。尽[ことごと]く見畢[みおは]るに。身の中[うち]一点の疵[きづ] だになければ。やがて十分の価[あたひ]を出[いだ]して。道見に是を渡し。其侭[そのまま][ここ]に買置[かいおき]けり。

▼讃州…讃岐の国。
▼遠近…あっちこっち。
▼童男童女…小さい男の子女の子。
▼中国西国…中国地方や九州。
▼金箱…いいもうけの種。金のなる木。

[か]くて幾日も過[すぎ]ざるに。彼[か]の国々の人買共[ひとかひども]。交[かはる]がはるに入来たりて。米吉が艶[みやびか]なる顔[かんばせ]を愛[めで]ぬれば。元の価[あたひ]に十倍して買取るべしとぞ競ひあへり。されども勘太は今少し[おい]たたせて。なを莫大の利をとらんと謀りしかば。茲[ここ]に四歳[よつとせ]星霜[せいそう]を重ねつつ。其後[そののち]難波[なには]の坂町なる。色子[いろこ]に社[こそ]は売渡しぬ。されば米吉も大[おほき]になりて。はや拾歳[じっさい]と聞[きこ]ゆれば。程なく色子の形に仕立[したて]。面[おもて]白粉[はくふん]にを粧[よそを]ひ。身に紅[くれなひ]の絹をまとふて。旦暮[あけくれ]糸竹[いとたけ]の手業[てわざ]を試み。彼[か]の花井半之丞[はなゐはんのぜう]が躍[おどり]のふり抔[など]学ばせけり。然[しか]るに米吉日を追[おっ]て猛勇の気性を現はし。ややもすれば尺八の笛もて。他[た]の色子の頭[かしら]を砕き。又或時[あるとき]は琴をとりて。嫖客[きゃく]を打居[うちす]へ抔[など]して。色子に似気[にげ]なき振舞のみ多かるが。なを遊芸の道に疎[うと]く。唯[ただ]力量をためさん事に。心を委[ゆだ]ね居たりしかば。[あるじ]も殆[ほとんど]呆果[あきれはて]今は唯[ただ]。売りたる主[ぬし]へ返さんには如[しか]とて。其後[そののち]讃州へ人を馳[はせ]。不日[ふじつ]に価[あたひ]を償[つぐの]はしめて。勘太が許[もと]にぞ送り返しぬ。右[かく]て又。色子を商[あきな]ふ所と云へば。彼方此方[かなたこなた]の厭[いとひ]なく。余多度[あまたたび]米吉を売り渡したりけれど。皆先のごときおももちにて。是が許[もと]に送りかへせば。勘太は大に怒[いか]りをなして。米吉をいたく縛[いま]しめ庭上[ていじゃう]に引居[ひきす]へて。捻棒[ねぢぼう]をふりもたげて。丁々はしと打擲[うちたた]けば。其手[そのて]の下より泣[ない]て云[いは]く。[げ]に御憤[おんいきどう]りはさることなれども。我は固[もと]より卑賤[ひせん]の身なれば。彼[か]の美服[びふく]を著[き]。珍味を食し。朝夕[あさゆう]に糸竹の道を学ぶことのならざる也。願はくば[たきぎ]を樵[こ]り。水を荷[にな]へる業[わざ]ならば。命の限[かぎり]務むべし。さるべきかたもさふらはば。疾[とく]売渡して玉はれとぞ。涙ながらにかき口説[くどき]ぬ。さあらば汝[なんじ]山に行[ゆき]て。日に五十把[ぱ]の薪を苅[か]れ。川よりも日に五十荷[か]の水を運はば。先[まづ]我が方に留[とどむ]べし。[もし][かた]しとせば。此[かく]のごとく。速[すみやか]に打殺[うちころ]さんとて。又捻棒[ねぢぼう]を振上[ふりあぐ]れば。あに待[まち]玉へ。必[かならず]命じ玉ふ程[ほど]薪水[しんすい]を荷[にな]ふべし。唯[ただ][いまし]めをゆるめてよと。仰[あふ]ぎつ臥[ふ]しつ打詫[うちわぶ]れば。漸[やうや]くに繋げる縄を切解[きりほど]き。一[ひとつ]の鎌を持来[もちきた]りて。米吉に是を授け。後の山に行かしむれば。領掌してとく立出[たちいで]。是より日々に山中を馳廻[はせめぐ]りて。多[おほく]の薪を苅取れども。五十把に満[みた]ざる時は。是に食事を与へねば。日を歴[へ]る侭[まま]に飢疲[うへつか]れて。惣身尽[ことごと]肉脱[にくだつ]。艶[えん]なる姿[すがた][ひき]かへて。彼[か]阿史仙[あしせん]に事[つか]へたる。太子のむかしかくやらんと。おもふばかりのありさまなり。

▼長たたせて…成長させて。
▼星霜…年月。
▼色子…芝居小屋などにつとめる幼い少年俳優たちのこと。
▼拾歳…10歳。
▼形に仕立て…衣裳を着せて、化粧をつけて。
▼白粉…おしろい。
▼糸竹の手業…楽器のひき方。
▼尺八…楽器として使われるほかに、町の伊達者が常に帯にさして持ち歩き、けんかのときの武器に使ったりも。
▼嫖客…悪所がよいなお客様。
▼似気なき…似つかわしくない。
▼主…米吉のやといぬし。
▼人を馳…人を遣わせて。ここでは米吉を売った人買いのもとへ米吉の暴れっぷりの苦情を言わせるために。
▼余多度…なんどもなんどもなんども。
▼卑賤の身…いやしい身分。
▼薪を樵り。水を荷へる業…まき割りや水くみといったちからしごと。
▼若難しとせば…もし出来ないと言ったら。
▼命じ玉ふ程…命じられたとおりに。
▼肉脱し…やせおとろえて。がりがり。
▼阿史仙…阿羅羅仙人のことか。
▼太子…悉多太子。おしゃかさま。檀特山で薪と水をあつめつつ修行をしてたという様子は『通小町』などにも引かれてるもの。

されば米吉は。菓[このみ]を喰[くら]ひ水を飲[のみ]。漸々[やうやう]飢渇[きかつ]を凌[しの]ぎつつ。兼[かね]て剣法を学ばんの心掛[こころがけ]ありしかば。[これ]究竟のところぞと。あまたの大木を合手[あいて]とし。手来[てごろ]の棒を木太刀[きだち]と定めて。実に敵[かたき]に向ふがごとく。奮然と身を堅め。或[あるひ]は霞[かすみ]。烏[からす]飛び。上段下段。青眼[せいがん]の一手毎[ひとてごと]に工夫を廻[めぐ]らし。偏[ひとへ]精心を凝[こら]ししかば。宛[あたか]舎那王[しゃなわう]の再来かと疑ふまで。古語に所謂[いはゆる]。後発先至のおももちも。問はずしてこれを会得し。其上[そのうへ]力量他の人を越[こえ]たりければ。是より五年を過[すぎ]ぬる中[うち]。遖[あっぱ]れ一箇[いっこ]の勇士とは成りたりけり。

▼木太刀…木刀。
▼精心…用字が「精神」でないところに注意。
▼舎那王…源義経。山の中での剣術の稽古を義経が鞍馬山で剣の修行をしていたことに比したもの。
▼古語に所謂…むかしのひとは言いました。

第四齣

[ここ]に横島軍藤六[よこしまぐんとうろく]は。同じく讃州支度[しど]の浦に棲[すみか]を求め。道見[だうけん]と心を合せて商人[あきびと]の形に分扮[いでたち]。実は海賊として。密[ひそか]に徒党を企[くはだ]てけり。はた夫婦は両様の人に非ずと聞[きこ]えたる譬[たと]へのごとく。是が妻なる野風[のかぜ]と云へるは。邪智深く。最[いと]かたくななる本性なるが。常に奸計[かんけい]を廻[めぐら]し。余多[あまた]の人を害することはなはだしく。世に類[たぐひ]なき賊婦[ぞくふ]にてぞありける。其子[そのこ]拾弐才をかしらとして四人の兄弟をぞもたりけり。始[はじめ]の二人は女子[にょし]にていと美[うる]はしく。心ざまもすくよかにぞ生長[おひたち]ぬ。扨[さて]野風は此[この]ごろ。風の心地に打臥[うちふ]して。或[あるひ]は悪寒[さむけだち]。或[あるひ]は発熱[ねついだし]。夜昼となくくるしみに。堪[たえ]かねたる様態[やうだい]なるが。数日[すじつ]を歴[へ]て。なほ病[やま]ひ愈[い]へざりければ。軍藤六もさすがに看[み]るに忍びねば。二里行[ゆき]て薬をもとめ。三里あゆみて。医家を尋[たづ]ね。種々に治療[ぢりゃう]をつくすといへども。病[やまひ]は次第[しだいに][おも]りつつ。惣身尽[ことごと]く腫渡[はれわたり]て。幾所[いくところ]となく血を灑[そそ]ぎたる如きもの出来[いでき]にけり。是[これ]咲花[さくはな]が怨霊の為[な]す所と露ばかり知らざりければ。只かかる奇病を治[ぢ]かべき。良医は何方[いづく]に有[ある]やふすを。あんじ煩[わづら]ふ軍藤六が心の内[うち][おろか]にも又浅ましけれ。

▼夫婦は両様の人に非ず…夫婦は大抵似てるもの。悪人・横島軍藤六の妻もやっぱり悪人。
▼奸計…わるだくみ。
▼拾弐才…12歳。
▼すくよか…すこやか。
▼風の心地…風邪ぎみ。「かぜ」の用字が「風邪」でないところに注意。この用字は明治の頃までよく使われていたもの。
▼治療…よみが「ぢりょう」な点に注意。
▼咲花…米吉の母。

おりしも軍藤六が手下に仕[つか]ふる。鰐蔵[わにぞう]なるもの訪来[とひき]たりて云ひけるは。[この]ごろ淡路に名医出[いで]て。克[よ]く万病を救ふと聞きぬ。名を池見雲斎[いけみうんさい]といふなるが。今[いま][よ][こぞ]りて生薬師[いきやくし]と尊敬[そんけう]せり。速[すみやか]に呼びむかへて。阿姉[あねご]の病[やま]ひを治[ぢ]せしめんは如何[いか]に。我[われ][か]の名医の奇験[きげん]を聞くに。[やまいだれ+亞][おし]を愈[いや]して弁舌を爽[さはや]かにし。聾[つんぼ]を治[ぢ]して忽[たちまち]耳竅[じけう]を通ぜしむ。はた河内の国にてある剛家[がうか]の主人[あるじ]身まかりたるに。親族尽[ことごと]く打寄り。形見[かたみ]を分[わか]ち取[とら]んとて。此[この]黄金[こがね]をば我にと遺[のこ]し置[おき]玉へり。あのしろかねはこなたへといひ玉ひつ抔[など]。口々に云[いひ]あへりて。誰も多きを分[わか]たんと競へるままに。口論を引出[ひきいだ]し。已[すで]に訴訟に及ぶべき趣[おもむ]きなるを。或人[あるひと][きき]て。今さら死人に口なければ。いかに争ひ玉ふとも無益[むやく]なるべし。唯[ただ]淡路の名医何某[なにがし]をたのみやりて。一度[ひとたび]亡者を生[いか]さんには如[しく]べからずと制しければ。みなみな実[げ]にもとよろこびつつ。頓[やが]て淡路へ人を馳[はせ]て。彼[か]の名医を迎へ来たり。然々[しかじか]の由[よし]を告[つぐ]れば。さすがに名医は。心安しと[うけが]ひて。たちまち亡者の新塚[しんてう]を堀[ほら]せ。棺[ひつぎ]と共に亡者を取出[とりいだ]し。診脈[ちんみゃく]して。これに一貼[いってう]の薬を与へ試みれば。もとのごとくに生[いき]かへりて。辱[かたじけな]しと一礼を述べけるよし。かかる神医[しんゐ]の世にあることを知りながら。等閑[なをざり]にして。看[み]る看[み]る阿姉[あねご]を殺さん事。情[なさけ]なきに似たるべし。疾[と]く疾[と]く名医をたのみねと。唯[ただ]一向[ひたすら]に勧むれば。[げ]にさることも有[あり]けめと。此[この]物語に惑はされて。頓[やが]て鰐蔵に留主[るす]を預け。其身[そのみ]は旅の用意を為[な]し。淡路の方へ[おもむき]ける[それ]悪漢[わるもの]は。なへて世の話を出[いだ]すに。確[かたき]を以[もっ]てすることなし。故[ゆへ]にかかる虚説[きょせつ] を信じて。人を惑はし誘[すかしいる]るの過[あやま]ちあり。人[ひと][じつ]に慎[つつし]まずんば有[ある]べからず。されば古語にも邪[よこしま]を信ずることなかれ。信ずれば則[すなはち][たが]ふと聞[きこ]えはべり。

▼生薬師…生きた薬師如来さまじゃ。
▼奇験…信じられないほどのスゴイききめ。
▼耳竅…みみのあな。
▼剛家…おかねもち。長者どん。
▼身まかりたる…死んじゃった。
▼しろかね…銀。銀貨。
▼亡者を生かさん…死んじゃった長者どんを生き返らせてききただそう!という大計画。
▼肯ひて…承知して。
▼新塚…できたばかりのお墓。
▼診脈…お脈を拝見。
▼趣ける…向かった。「趣」と「赴」の字は特に分けて使われてはいませんでした。
▼世の話を出すに。確を以てすることなし…それがホントのことなのか別に確かめずに話すものじゃ。
▼虚説…まっかなうそ。

[それ]は扨置[さてお]き。軍藤六は。日あらずして淡路の国なる池見雲斎が許[もと]に至り。先[まづ][いへ]の様子を見るに。尽[ことごと]破壊[はゑ]して。四壁[しへき]だになき窓の下[もと]に。彼[か]の名医と覚[おぼ]しく。唯ひとり寓然[ぐうぜん]と坐し居たり。門[かど]には[ぢ]を乞者[こふもの]もなく。かく浅ましき有様なれば軍藤六も大に不審[いぶ]かり。こは正[まさ]しく門違[かどたがひ]をやせしなめりと。傍[あたり]の家にて委[くは]しく問へど。是[これ]雲斎が棲[すみか]に紛[まぎれ]あらざれば。心ならずも頓[やが]て茲[ここ]に案内[あない]を乞[こ]ひ。つと入[い]りて。雲斎と面謁[めんゑつ]し。しかじかの由[よし]を語れば。雲斎速[すみやか][いらへ]いへらく。[あまね]く海内[かいだい]に病めるもの。何如[いか]なる難治[なんぢ]の証[せう]といへども。我[われ]一度[ひとたび]治療[ぢりゃう]して。更生せずといふことなし。今や汝[なんじ]遠路を侵[おか]して。茲[ここ]に来たれば。我[われ]汝を憐れんで往[ゆき]て病者[べうじゃ]を救ふべし。さるにても。汝まづ国に帰れ。我は明朝[めうてう]発足[ほっそく]に及ぶべしと。重々しく約諾[やくだく]しければ。軍藤六も此[この]広言[こうげん]にや恐れけん。偏[ひとへ]に三拝九礼[さんはいきうれい]し。扨[さて]讃州の宿所[しゅくしょ]を告[つげ]て。其侭[そのまま][ここ]を立出[たちいで]けり。

▼破壊して…ぶっこわれていて。
▼治を乞者…患者さん。
▼門違…いえをまちがった。
▼しかじかの由…妻の野風がヨクワカラナイ奇妙な病気になってしまったこと。
▼唯て…こたえて。
▼難治の証…治すことの困難な病気。
▼更生…かいふくしない。
▼発足…たびだつ。出発する。
▼宿所…住所。軍藤六の家のあり場所。

[この]賊医[ぞくゐ]。固[もと]より一人[いちにん][ぼく]だになく。唯[ただ]妻とのみ匹[なら]び居れるが。猶[なほ][この]賊医甚[はなはだ]しく嫉妬深き本性なれば。妻をばつねに押入りの中[うち]に蔵[かく]して。なへての人の応対をだにゆるさざりけり。 はた妻をのこして。他[た]にゆくことの煩[わづら]はしければ。今度の留主[るす]をもいかにせんと。死ぬばかり心を労し居たりしが。[ふ]思ひ寄りぬるは。さいわひ僕[ぼく]も愛[ほし]きところなれば。則[すなはち][かれ]を僕に仕立[したて]て連[つれ]ゆくべしと。この事かの事妻にもささやき。已[すで]に翌日[あくるひ]の朝にもなれば。甲斐々々敷[かひがひしく]旅よそひし。妻をば忽[たちまち]奴僕[ぬぼく]にこしらへ。深々[ふかぶか]と。笠[かさ]打着[うちき]せ。薬の箱を脊[せ]に負[おは]せて。讃岐の国へぞ赴きける」

▼僕…しもべ。下男。助手。
▼押入り…押入れ。
▼風と…フッと。用字に注意。
▼渠…妻。どうしても妻女をそばにおいておきたい池見雲斎の導いた結論は、妻をしもべに仕立て連れてゆくことでした。
▼旅よそひ…旅行のしたく。
▼奴僕にこしらへ…しもべらしい格好をさせて。
▼薬の箱…処方する薬の材料となる生薬などがたくさん入っている箱。

軍藤六は先だちて我が家に帰り。先[まづ]野風が様態[やうだい]を尋ぬるに。鰐蔵をはじめとして。兄弟の子供らも。唯[ただ][まち]に待[まち]かねたる気色[けしき]にて。口々に告[つげ]ていへらく。[やまひ][こと]にむづかしく。其上[そのうへ]気性猛[もう]になりて。傍[あたり]の調度を揚散[あげちら]し。夜[よ]るは猶[なを]顔色[がんしょく]鬼のごとくに変じて。我が子[こ]恋しと泣喚[なきさけ]びぬ。斯[か]くさけぶことの度重[たびかさ]なれば。やがて我がはからひにて。末の子ひとりを与へたるに。是を見て最[いと]嬉しげに懐[だ]き抱[かか]へ。いとしの我が子なつかしの我が子やといふかと見れば忽[たちまち]に。小児[せうに]の頭[かしら]をがしがしと噛砕[かみくだ]きぬ。あなやと云[い]ひて引分[ひきわけ]とせしか共[ども]。已[すで]に小児は一声[ひとこゑ]さけびて死[しし]ければ。いかにともせんかたなく。身の毛も疎[よだつ]心地して。しばし傍[かたへ]を見居[みゐ]たるに。尽[ことごと]く食[くら]ひつくして。莞爾[からから]と笑へる有様[ありさま]恐ろしなんども愚[おろか]なり。其後[そののち]病者[べうじゃ]はすやすやと寝入[ねいり]たるが。今に起[おき]たるけしきも見得ねば。外[ほか]に子細[しさい]もさふらはずと語れるにぞ。軍藤六も聞くに肌身のさうさうと物冷[ものすご]いかなる難病にやあるらんと。且[かつ]驚き且[かつ][あやし]んで。潜然[さんぜん]と患[うれ]ひ居たり。扨[さて]淡路の始末をものがたり。兎角[とかく]して日も暮[くる]れば行灯[あんどん]の火を灯[かか]げて病者の床[ゆか]を窺[うかが]ふに。彼[か]の小児を食[くらふ]にければ。口の囲[まはり]手足の端[つま]まで尽[ことごと][あけ]になりて。鬼の臥したるごとくなりかかる不祥[ふしゃう]を見るだにあるを。此夜[このよ]より折々[おりおり]家の鳴事[なること]ありて。くらき隅々[すみずみ]には女の泣喚[なきわめ]く声などすなり。なを夜更[よふく]るままに。兄弟の子供等[こどもら]を寝さすれば。いかなる物にやおそはれけん。[(寤-吾)+言][おびゆ]る事の甚しく。また[かはや]の中[うち]には生首を見る事あり。其外[そのほか]妖怪[ようくわい][いづ]ること頻[しき]りなれば。流石[さすが]の軍藤六も何とやらん気味悪く。此夜[このよ]を明[あか]しかねたれば。鰐蔵を茲[ここ]にとどめ。其身[そのみ]は漸[やうや]一遍の念仏してぞ居たりける

▼引分ん…引き離そうと。
▼物冷く…用字が「物凄」でない点に注意。
▼淡路の始末…あとから池見雲斎が往診に来てくれるということ。
▼行灯…照明器具のひとつ。油を入れた皿を中に入れて火をともしたまわりを紙などで覆ったもの。
▼赤になりて…血みどろになって。
▼家の鳴事…なにもないのに家がギシギシガタガタ音をたてること。妖怪や幽霊が出て来たりする時に起こったりするもの。家鳴(やなり)震動(しんどう)。
▼厠…おべんじょ。
▼一遍の念仏してぞ居たりける…なむあみだぶなむあみだぶ。

時に妖しや。側[かたは]らに臥したる小児の。一度に手足を動めかし。あれよあれよと声立[たつ]れば。院の子院の子など云[いひ]て。[ふすま]の上より撫摩[なでさす]れど。いよいよ悶[もだ]へ苦しみて。野風の方に後髪[うしろがみ]を引寄せらるれば。病者も忽[たちまち]むっくと起き。色青ざめたる手をさしのべ。一人の男子[なんし]を捕[とら]ふと見えしが。又肩先より喰裂[くひさき]て。皮肉[ひにく]を左右へふりみだしぬ。かくと見るより軍藤六は大に怒[いか]り。病者を取[とっ]て押へんと。腕まくりして飛かかれば。口より焔[ほのを]を吐[はき]かけて。更にあたりへ寄せ付けず。唯[ただ]汝見よ見よと[勹+言][ののしり]つつ。血に染[そ]む口の耳まで裂[さけ]て歯本[はもと]を露[あら]はす其[その]顔色[がんしょく]悪鬼羅刹[あっきらせつ]を欺[あざむ]くばかり是に面[おもて]を向[むけ]つべき様[やう]ぞなき。されば鰐蔵も大に懼[おそ]れて。さらに生[いき]たる心地だになく。両の袂[たもと]を頭[かしら]に覆[おほ]ひ。軍藤六が跡にそひつつ。身を揮[ふる]はして打臥[うちふ]しけり。扨又[さてまた]病者は彼[か]の引裂[ひきさき]たる小児をも。のこりなく喰ひつくして。其侭[そのまま]どうと倒れにけり。

▼院の子院の子…いんのこいんのこ。子供がこわいものを見たときにとなえるおまじない。用字には「犬の子」なども存在します。
▼衾…眠るときに体の上にかける夜具。着物みたいに袖のついてるもの。
▼皮肉…皮と肉。骨以外の食べられるぶぶんということ。

程なく此夜[このよ]も明[あけ]わたれば。軍藤六ほと溜息つき。茫然として居たりしが。かかる妻の難病にて。日に月に多くの金銭を費[ついや]せば。今は其日[そのひ]の烟[けぶり]さへ立[たて]かねて。忌[いま]はしさ謂[いは]んかたなく。いとど貧苦に逼[せま]りければ。また兄弟の娘をも。喰はれぬ先に売らんこそましならめと。やがて。彼[か]勘太が許[もと]に二人を連行[つれゆ]き。よきほどのあたへをとりて家にかへり。猶[なを]さるべき人の財宝を盗みえん時節もがなと。例の悪念[あくねん][きざ]しつつ。闇[あん]に工夫を廻[めぐら]す所に。外[と]のかたより音なふて。池見雲斎が来[きた]れるよしを云入[いひいる]れば。軍藤六周章[あはて]て出迎ひ。いざこれへと伴なふにぞ。雲斎なをも重々しく八助そなたにひかへよと。妻のおもてをながし目に見やりつつ。やがて坐敷へ打通[うちとを]りぬ。扨[さて]軍藤六は此度[このたび]の労を謝し。酒肴[しゅこう]を設けて是を饗[もてな]し。兎角[とかく]して病人を見せしむるに。彼[か]の小児を喰ひたるままなれば惣身尽[ことごと]く血に染[そみ]しを。いかなる故[ゆへ]とも知らずして。十分に診脈[ちんみゃく]し。熟[つくづく]と面[おもて]を看[み]。退[しりぞ]いて云ひたるやう。[これ]実に奇病なり。毛竅節次[もうけうせつじ]より血を出[いだ]す。若[もし][かく]のごとく血出ざる時は。皮[かは]脹膨[てうほう]と皷[つづみ]の如くなるべけんこれを名づけて脈溢病[みゃくいつべう]と云[いふ]。是[これ]実に奇病なり奇病なり。然[しか]りといへども。予[よ]が一度[ひとたび]良薬を調剤せば。速[すみや]かに皆愈[かいゆ]せんこと疑ひなし。汝[なんじ]謹んで薬を服さしむる事を肯[うけが]へ。而[しかうし]て後に。費[ついへ]を惜[おし]むことなかれ。命[めい]と財といづれか重き必[かならず]ここを弁[わきま]へよ。やよやよと示しつつ。薬の箱をとり寄せけり。軍藤六は先より平蜘[ひらぐも]のごとくに伏して此言[このこと]を聞[きく]といへど。傍[かたへ]通辞[つうじ]だにあらざれば。如何なる由[よし]を語るとも弁[わきま]へがたく。只[ただ][いらへ]に唯[いらへ]をのみぞしたりけり。雲斎は恭[うやうや]しく箱を披[ひら]きて。中[うち]より生姜[せうきゃう]の入りたる袋を取り出し匕[さじ]もて底をはたくまでもったるを。紙に捻[ひね]りて与へければ。謹[つつしん]で是を受[うけ]。鰐蔵をして速[すみやか]に煎じせしむ。

▼ほと…ほっとして。
▼其日の烟…ごはんを煮炊きするけむり。
▼喰はれぬ前に…野風に喰べられちゃう前に。
▼勘太…毒虫の勘太。人買い。
▼よきほどのあたへ…いいお値段。
▼音なふて…訪うて。
▼そなた…そっち。
▼酒肴…おさけとさかな。
▼毛竅節次…毛穴やふしぶし。からだのそこいらじゅう。
▼脹膨…ぷっくりふくれる。
▼平蜘…ひらべったいくも。
▼通辞…通弁、通訳。軍藤六にはむづかしい医学の漢語はちんぷんかんぷん。
▼生姜…しょうが。

はた軍藤六が雲斎にいふ。とても斯[か]く遠路を厭[いと]はず。来[きた]り玉はる程なれば。五三日とまり玉ひて。療治[りゃうぢ]を施し玉はんや。さあらば我が幸[さいわひ]これに過[すぎ]たることあらじと。真実[しんじつ]に頼みければ雲斎も疾[と]く肯[うけが]ひ。しばしは爰[ここ]に逗留とぞ定めてけり。されば軍藤六も大に歓[よろこ]び。[まづ][つれ]玉へる僕[やっこ]どのを休息させんと。次なる一間[ひとま]に招き入るれば鰐蔵も是をいたはり。なを茶[ちゃ][くだもの]など与へにけり。されば雲斎は例の嫉妬の心起り。密に考へ思ふやう。[か]く知らぬ方に来て妻を彼方[かなた]に置事[おくこと]の気遣[きづか]はしさよ。さりとて今更に。我が妻と明[あか]さんは。いか程か面目なかるべし。よし速[すみやか]に帰[かへら]んにはしかじとて。頓[やが]て軍藤六に告[つげ]ていへらく。[われ]今日は国許[くにもと]にて。急病人のあることを忘れたり。今より直[すぐ]にかへらでは叶[かな]ふまじ。いざいざ[ぼく]にも帰る用意をさせてよと。あはただしく堰立[せきたつ]れば。軍藤六も又あはてて。こは何事をかの玉ふぞ。今より発足し玉ふて如何なる急病をか救ひ玉ふ。かへり玉はば。はや仏事を行[おこな]ふ所へぞ著[つき]玉はん。えこそはかへしまいらせじ。其上[そのうへ]今夜は僕[やっこ]どのさへ大に艸臥[くたびれ]たる様態[やうだい]なれば。はや次の間に寝かしたり。かく見苦しくはさふらへ共[ども]。曲[まげ]てとどまり玉へよと。とめて微塵[みじん]も動かさねば雲斎もせんかたなく。只[ただ]黙然と坐し居たり。軍藤六又鰐蔵に対していふ。[なんじ]昨夜の看病疲[かんべうづかれ]も出[いで]ぬべし。今宵は名医のおはしませば。我もをのづから心強きぞ。疾々[とくとく]汝は一間[ひとま]に入りて。僕[やっこ]どのの打著[うちき]たる蒲団[ふとん]のはしにやすむべし。さはいへ若[もし]用事あらば起出[おきいで]と。心を添[そへ]て寝さすれば。鰐蔵もそこそこに暇乞[いとまごひ]して一間[ひとま]に入りぬ。

▼五三日…半月ばかり。
▼次なる一間…となりのへや。
▼いたはり…ていねいにあつかう。
▼僕…しもべ。
▼仏事…おとむらい。いま出発したって淡路につく頃にはもう急病人は死んじまってやすぜ。

時に病者[べうじゃ]は一滴も薬を服せず。剰[あまつさ]へ盛[もり]たる器[うつは]を粉[こ]のごとくに打砕き。憤然として怒[いか]りを為[な]せば。すはや又起[おこ]りたるはと軍藤六も懼[おのの]き恐れて。一心に念仏をのみ唱へ居たり。然[しか]るに又もや不思議成[ふしぎなる]事なり。野風が面[おもて][か]の血を洒[そそ]ぎたるばかりに見えて。癰疽[やうそ]のごとく腫[はれ]たる所の。いつの程にか裂[さけ]たりけん。別に一[ひとつ]の口を生じて牙歯[げし][ことごと]く備はりたり。其口[そのくち]より腥[なまぐ]さき息を吐[はく]こと頻[しき]りにして。最[いと]哀れなる声を放ち。我が子恋しと喚出[さけびいで]ぬ。なを見る内に面部へ口を生ずる事。四つ五つばかりなるが腹にも脊[せ]にも手足にも。同じくあまたの口を生じて。已[すで]に九十九口[くじうくこう]とぞ成りたりける。皆口々より我が子恋しと喚[さけ]び出[いづ]れば。宛[あたか]も雷[いかづち]の落[おち]くるごとく。其声[そのこゑ]実におびただしく。他[た]の村里まで聞[きこ]えにけり。しばらくありて病者が睡[ねむ]れば数口[すこう]も共に黙してしづまりぬ。

▼病者…野風。
▼癰疽…おおきな腫れもの。
▼牙歯…うえの歯したの歯前歯奥歯。

されば軍藤六は空のみ見とれて。身を[ふる]までおののきけり。其中[そのなか]に雲斎は。唯[ただ]が臥したりける一間[ひとま]の裡[うち]のみ嫉[ねた]ましく。怒りを包むに忍びねば。或[あるひ]は立[たち][あるひ]は坐して。狂気の如く見えたる所に。彼[か]の暗き方にては。女の泣居[なきゐ]る声すなり。はたまた家鳴震動[やなりしんどう]さへ。唯[ただ]ごとならずど覚[おぼ]えつつ。あまりの事に気上[きあが]して其侭[そのまま]どうと倒れにけり。次の間よりは鰐蔵が。片息[かたいき]にて欠出[かけいだ]し。あな恐ろしやと転[まろ]び臥す。夫[それ]と見るより。軍藤六大に周章[あはてふため]き鰐蔵が枕[まくら]のもとに近くより。事の子細[しさい]を尋ぬれば。鰐蔵は歯の根も合[あは]が。漸々[やうやう]に語りて云[いへ]らく。かなたに臥したる雲斎老の奴僕[ぬぼく]こそ。正[まさ]しく化生[けせう]のものなるべし。暗[くら]まぎれにて克[よく]見れば。首は忽[たちまち]女と変じて。躰[たい]は則[すなはち][やっこ]なり。うまく寝入[ねいり]て起[おき]ざれば。からめ取りて打擲[てうちゃく]し。正体を見顕[みあら]はすこそよかるべし。疾々[とくとく][かれ]をいましねと。堰[せき]をせいて告[つげ]たりければ。軍藤六も身搆へし。壁にかけたる縄をもて。一間[ひとま]の裡[うち]にかけ入りしが。臥したる女を引起[ひきおこ]して。高手小手[たかてこて]にぞいましめける。斯[かく]て鰐蔵は。始[はじめ]人心地[ひとごこち]つきたれば。いでいで変化[へんげ]を見あらはさんと無二無三[むにむざん]に女を捕へて。握り拳[こぶし]を打当々々[うちあてうちあて]。命の限[かぎり][せめ]たりける。女はさらに思[おもひ]もうけぬことなれば。半[なかば]は生[いき]。半[なかば]は死[しし]て。夢とも現[うつつ][とも][わきま]へず。小婦[わらは]に何の咎[とが]ありて。かかる憂目[うきめ]を見せ玉ふぞ。我が夫[つま]は何方[いづく]に在[おは]すや。はやくわらはを助[たすけ]てたべと。くるしき声をはり上[あげ]て。呼べど喚[さけ]べど情[なさけ]なや。雲斎は先に悶絶してありければ。外[ほか]に聞人[きくひと]なかりけり。

▼揮ふ…震う。ぶるぶるふるえる。
▼妻…しもべの格好に化けさせて連れて来た妻。心配で心配でしょうがない雲斎。
▼家鳴震動…なにもないのに家がギシギシガタガタ音をたてること。妖怪や幽霊が出て来たりする時に起こったりするもの。やなり。
▼気上り…気が動転して。
▼歯の根も合ぬ…がたがた震えてちゃんとしゃべれない。
▼化生のもの…おばけ。
▼いましめ…縛る。
▼人心地つき…ホッと落ち着く。

軍藤六は雲斎が正体なきを怪しみて。先々[まづまづ]是をたすけんと。あたりに薬を求[もとむ]れど。いかなるものを用ゆべき病[やまひ]とも弁[わきま]へざれば。自[をのづか]十方[とほう]に暮[くれ]居たりしが。良[やや]ありて風[ふ]と思ひ出[いで]めるは。先に渠[かれ]が盛[もり]たる薬は生姜[せうが]ばかりを煎湯[せんとう]にして与[あたへ]たり。是は病[やまひ]も異なれば。彼[か]の生姜をば。蕃椒[とうがらし]に換[かへ]。湯をば則[すなはち]水に換へて用ゆべし。此法[このほう]実に鶏などの気絶せしに。屡[しばしば]用ひて即功[そくこう]あれば。いみじき良薬なるべしと。やがて蕃椒水[とうがらしみづ]を調[ととの]へ。扨[さて]雲斎を押動かし。先[まづ]指をもて脈を引[ひき]。腹抔[など][なで]て。件[くだん]の水を面[おもて]より口の中[うち]に洒[そそぎ]かくれば。雲斎忽[たちまち]夢の覚[さめ]たる心地にて。眼[まなこ]を見開き息出[いきいで]たり。軍藤六は横手[よこで]を打[うっ]感悦[かんえつ]し。我はこれ耆婆[きば]扁鵲[へんじゃく]の再来なるべし。かかる希代の医案を廻[めぐ]らし。人の命を助けし程にて。莫大の謝礼を受[うけ]ぬことやはあると。やがて雲斎を足下[そくか]に見下[みくだ]し。[なんじ]庸医[やぶいしゃ][われ]をあなづりて広言を吐[はき]しかど。病者を治[ぢ]かべき手段もなく。剰[あまつさ]へ汝[なんじ]死病を引出[ひきいだ]して。此[かく]のごとく我に救はる。汝[なんじ]此恩[このおん]を知らば。財を惜[おし]まで我に謝礼を厚うすべし。命と財といづれが重き。只[ただ]此言[このこと]を弁[わきま]へて。やよやよと示しつつ。白眼[にらみ]つけて坐しければ雲斎流石[さすが]に言葉なく。誠に御蔭[おんかげ]にて。かく命を助かれば。何如[いか]なる謝礼にても致すべき所なれど。ここには少しの金銭をだに貯へねば。国にかへりて速[すみやか]に贈るべし。必[かならず]麁忽[そこつ]に存ぜしと。天窓[あたま]を掻[かき]てひれ臥せば。軍藤六はかぶりをふりていひけるやう。又もや我を欺[あざむか]んと謀[はか]れるよな。今[いま]金銭に乏しくば。汝が衣服薬箱の類[たぐ]ひまで。皆[みな][ことごと]く我に得させよ。さらずば速[すみやか]に殺すべきぞと。傍[かたへ]に有合[ありあ]ふ刀をぬきて。雲斎が吭[のどもと]に突[つき]かくれば。こなたは忽[たちまち]手を合せ。いかにも仰[おほせ]に任すべし。命ばかりは再[ふたたび]助けて玉はれと。ひた歎[なげ]きに歎[なげ]きつ。のこりなく衣服を脱[ぬぎ]て与へにけり。

▼正体なき…意識をうしなってる。
▼十方に暮て…「途方」の用字が「十方」な点に注意。
▼脈を引…脈をみて。
▼感悦…おおよろこび。
▼耆婆扁鵲の再来…ものすごい腕前のお医者じゃなかろうか。耆婆と扁鵲は大昔の名医。
▼希代の医案…すばらしい処方。ここでは軍藤六がほどこした「とうがらし水をのませると気絶したひとが起きる」というもの。
▼かぶりをふりて…あたまをよこに振って。

おなじく彼方[かなた]の一間[ひとま]にて。なを正体を見顕はさんと。擲[たたき]つ責[せめ]つ鰐蔵が。女の衣服を剥取[はぎとり]て。なさけなくも裸[あかはだか]に為[な]し。庭上[ていじゃう]に投出すを。雲斎見るより走り寄り。こは何事[なにごと]といたはるも。労[いたは]らるるも裸[あかはだか]にて。皃[かほ]見合せし有様は。とりも直さず埜狐[のぎつね]たぶらかされし如くなり。かかる所へ鬼塚道見公御入[おんいり]なりと呼[よば]はりて。おもひ寄らずも道見が。あまたの手下を引倶[ひきぐ]して。しづしづと入来[いりき]たり。おしげもなく上座[ぜうざ]に直れば。軍藤六を始[はじめ]として。鰐蔵も平伏[へいふく]し。いと慇懃[いんぎん]にぞ応[もてな]しける。時に道見[だうけん]軍藤六に対して。云[いは]く。[われ]今は茲[ここ]にきたり彼[かし]こに行[ゆき]てかくのごとく庶幾[そこばく]の味方を設けぬなを大に軍勢をかり集めて。速かに足利家を攻亡[せめほろ]ぼし。木曽川[きそがは]畠山[はたけやま]の両管領[くはんりゃう]誅戮[ちうりく]せんとおもへども。只[ただ]軍用に備ふべき米銭[べいせん]の乏しきことを如何にせん。之[これ]によって。今[いま]味方の手配りして。在々所々に押下[おしくだ]し。往還[わうかん]を刧[おびや]かして。あまたの財宝を奪ふべき旨[むね]命ぜしかど。さばかりの手段にて。十分の利を得ん事[こと]覚束[おぼつか]なければ又別に汝と謀[はかり]て。近国[きんごく]を掠取[かすめと]り。目覚しきまで数の宝を貯へんと思ふなり。汝が心いかにといへば。横島忽[たちまち]点頭[うなづき]つつ。是に対[こた]へて云[いひ]けるやう。[それ]にこそよき方便のさふらへ。此年[このとし]支度寺[しどじ]観世音[くはんぜおん]開帳す沙汰ありけるが。来月[きたるつき]の上旬[さしいり]より。いよいよ六十[むそじ]の日を限りて。其[その]ことを[行[とりおこ]なふに定[さだま]りたれば。遠近[えんきん]の諸人[しょにん]老若となく貴賎となく。蜂の如くに集るべし。時に東西の道を妨[さまた]げ。尽[ことごと]く金銀衣類を奪はん事。[しん]におひて難[かた]しとせじ。又茲[ここ]に幸[さいわ]ひなるは。臣が妻[つま]頃日[このごろ]奇病を受[うけ]て。身に九十九[くじうく]の口を生ぜり。是を彼[か]道場に持出[もちいだ]して普[あまね]く普[あまね]く参詣の人に見せば。とみに千万貫[せんまんがん]の施物[せもつ]を得んこと必定せり。先[まづ]我が智謀かくのごとくにさふらひぬと。したり皃[がほ]に物がたれば。道見聞くより。実に是を奇なりとし。扨[さて]前栽[せんざい] の傍[かたへ]を見れば。怪しき法師が女と共に裸[あかはだか]にて泣居たるを。如何なるものぞと尋[たづぬ]るに。

▼埜狐…野狐。
▼たぶらかされ…化かされた。
▼引倶して…ひきつれて。
▼足利家…足利幕府。
▼誅戮…討ち殺す。
▼米銭…軍資金と兵糧。先立つ物がなければいくさは出来ぬ。
▼観世音…観世音菩薩。かんのんさま。
▼支度寺…しどでら。讃岐の国の志度寺。本文中「支」と「志」の字の混用がありますが、そのままにしてあります。
▼開帳…寺社などで普段は秘め置いてる仏像などを日を決めて公開すること。参詣人がいっぱい来ます。
▼六十の日…60日間
▼遠近の諸人…遠い土地に住んでるひとも、近所のひとも。
▼蜂の如く…うじゃうじゃぞろぞろ。群れをなして来る様をいうことば。
▼臣…軍藤六。
▼道場…寺。支度寺。
▼前栽…庭のうえこみ。

鰐蔵答へて。箇様々々[かやうかやう]の者なるよしを述[のべ]ければ。道見忽[たちまち]驚きて。さては先より我が密計を聞[きく]ぬらん。速[すみやか]に切り殺せと。鰐蔵に命じつつ。二人をこなたに引出さしむれば。夫婦はあなやと立騒[たちさは]ぎ。生[いき]たる心地も有[あら]ざりしが。雲斎頻[しき]りに軍藤六を仰ぎ見て。噫[わなな]きながら告[つげ]ていはく。[いま]我が命を三度[みたび]助けて玉はらば。其[その]御味方[おんみかた]に加はりて。庶幾[そこばく]の軍用金を捧ぐべし。そは如何にして。捧ぐるならば。我々夫婦も彼[か]の開帳の場[には]に出て。千万貫の施物をとり得ん手段[てだて]なり。先[まづ][その]仕かたを御覧ぜと。雲斎は疾[とく]妻が手を携[たづさ]へ出[いでて]。向ひ居[お]りつつ声はり上げ。[そもそも]相撲[すまゐ]の濫觴[はじまり]は。天照神[あまてるかみ]の御代[みよ]よりも。神の伝へし道とかや。扨[さて]朝庭[てうてい]にいたりては。垂仁帝[すいにんてい]の御時[おんとき]相撲[すまふ]の節会[せちゑ][おこな]はれ。其後[そののち]聖武天皇[せうむてんわう]の。南良[なら]の都に在[ましま]して。行司の式を立[たて]玉ひぬ。夫[それ]より遥[はるか]に世下[よくだ]りて。坐頭[ざとう]の角觝[すもふ]といふ事を。普[あまね]く人の将[もて]はやせり。其[その]法式は格別にて。かたやは盲人[もうじん]かたやには。則[すなはち]婦人と立合[たちあは]せ。四十八手の手を尽して。大に勝負を争ふなり。其[その]あらそひはおのづから。君子の興に入[いり]ぬべし。そとまなふで見せ申さんとと。夫婦もろとも立上り。曳声[ゑいごゑ][いだ]して押合[おしあひ]しが。程なく妻を傍[かたはら]に投出し。雲斎独[ひとり]ぞ勇々[ゆゆ]しげに立[たっ]たりけり。されば道見を始[はじめ]として。軍藤六も鰐蔵も。大にこれを賞嘆し。喝采々々[やんややんや]と誉立[ほめたつ]れば。手下のやからも打興[うちけう]じて。しばしがほどはどよみにけり。軍藤六はかたへより。先に剥[はぎ]たる衣服を持出[もちいで]褒美を呉[くれ]と投出せば。夫婦は伏して恩を謝し。是より直[ただち]に道見が手下にこそは属しける。

▼天照神…天照大御神。
▼朝庭…朝廷。大和朝廷。
▼垂仁帝…垂仁天皇。
▼相撲の節会…垂仁天皇の7年(-23)の七夕に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たえまのけはや)がおこなったもの。
▼南良の都…奈良の都。平城京。
▼手下のやから…鬼塚道見の手下たち。

第五齣

[さて]も其後[そののち]。支度寺[しどでら]の観世音菩薩。当寺に於[おい]て開帳の聞[きこ]えあれば。貴賎老若連綿と歩みを運びて往来[ゆきき][しばら]くも絶[たえ]ざりしが。此[この]ころ道路に切取剛盗[きりどりがうどう]を働く者[もの][おびただ]しく出来[いできた]りて。多くの人を害するよし遠近[えんきん]に沙汰ありければ。申[さる]の刻を限りにて。人みな皈路[きろ]を急ぎてけり。時に鬼塚道見[おにづかだうけん]は。手下の賊徒を四方[よも]に分[わけ]て参詣人[さんけいびと]の財物[ざいもつ]を奪はしめ。其身[そのみ]は爰[ここ]に支度寺の程近き。松原に徘徊して。青野ヶ原[あをのがはら]のむかしを思ひ。かの熊坂[くまさか]にも劣らじと。老[おい]たる松の根もとに添[そひ]つつ。往還うかがふ所に。田舎大尽[いなかだいじん]と覚[おぼ]しく。余多[あまた]奴僕[ぬぼく] を左右に引倶[ひきぐ]し。静々[しづしづ]と此所[このところ]に歩来[あゆみきた]るを。道見見るより。つと出[いで]て。先[まづ]奴僕等[ぬぼくら]を切倒せば。大尽あはてて迯出[にげいづ]るを。襟髪[えりがみ]掴んで引[ひき]もどし。無二無三[むにむざん]に衣服を剥取[はぎとり]。なを庶幾[そこばく][こがね]と覚[おぼ]しき胴巻[どうまき]を奪ひとり。裸[あかはだす]なる大尽をば。情[なさけ]なくも十間[じっけん]ばかり突飛[つきとば]して。其侭[そのまま]もとの松蔭[まつかげ]にて隠ろひぬ。

▼連綿と歩みを運びて…ずらずらとことこ大量にやって来て。
▼皈路…帰路。かえりみち。
▼熊坂…熊坂長範(くまさかちょうはん)。源平のころの盗賊のかしら。俗にいうところの日本のどろぼーのはじまり。
▼田舎大尽…田舎のおかねもち。
▼奴僕…めしつかい。
▼金…おかね。
▼胴巻…おかねや貴重品などを入れておなかに巻きつけておくもの。

日も夕陽[せきよう]の空なるに。又此[この]ところに来かかるは。やごとなき方に仕ふる士[し]と覚しく五三人連[つれ]たるが。大小[はかま]立派を尽して。いづれもよき衣[きぬ][き]たけれけば。道見密[ひそか]に思へらく。此者共[このものども]を残[のこり]なく剥取[はぎと]らば。十分の獲[えもの]ならめと。疾[とく]遣過[やりすご]して討[うた]んとせしが。さるにても彼[か]の田舎大尽抔[など]を剥取るごとく容易[たやす]くは手に入[いる]まじと。さすがにも臆[おく]する心出来[いでき]にければ。まづ甲斐々々[かひがひ]しく身を堅め。最前に奪ひたる。衣服[既+土][および]うちがへの金[こがね]をば。松の洞[ほら]に深く入置[いれおき]。やがて連[つれ]だちたる士[さぶらひ]の跡に添[そひ]つつ抜足[ぬきあし]してぞ歩[あゆみ]にけり。士[さぶらひ]どもは斯[かく]とも知らず。只[ただ]口々に開帳場[かいちゃうば]の趣き抔[など]を語りあひて行くなる。扨[さて]一人が云ふ。足下[そくか][か]女戯馬[おんなきょくば]といふものを見玉へるや。起立[たていっさん]に倒[手へん+(施-方)][さがりふぢ]横載[よこのり]狭駆[わきぞひ]粧馬尾[かんぬきがへし]。それぞれの曲をなして。果[はて]には妹背山[いもせやま]の四の口とかいふ所の浄瑠璃狂言をいとおもしろく脚色[しくみ]したるが。皆馬を自由自在に乗廻[のりまは]したり。其[その]奇なる事。実に言語[げんご]に述[のべ]がたけれど。只[ただ]我は是を見て。切に悲みを催[もよほ]す事よ。夫[それ]如何[いかに]ぞならば。馬は固[もと]より武の備へに於て最第一のものなるべく。或[あるひ]は民家に農を扶[たす]け。重きを荷[にな]に徳なるを。かかる雑劇[ざつげき]の用に倶[ぐ]して。末[たちやく][おんながた]の足どりさへ。違[たが]へぬやうに躍[ふま]すること馬の心いかばかりか苦しかるらん。それも活計[よすぎ]の為なれば。止事[やむこと]を得ぬところとしもいふべけれど。彼[か]の武器を穢[けが]せる罪の。甚[はなは]だしさをいかにせん。是[これ]我が切[せつ]に悲しむ事にて侍[はべ]るなりと。張肘[はりひぢ]してものがたれば。皆々笑ひて。又足下[そくか]例の偏屈[へんくつ]なることをばしいひ玉ふよ。神の教へし夫婦の道だに。[あき]ものにする色商人[いろあきうど]も有者[あるもの]と。いよいよわらひを催せば。又云[またいふ]いないなすべて世の中に。心得ぬ業[わざ]を為[な]して世を渡れる罪人[つみうど]あり。先に見玉はばや。ベイビル。ズウフラ。ゾンガラス[など]いへる。蛮物[ばんぶつ]の最奇[いとあや]しきを人にみせて銭とる男の。口まめやかに謂[いは]れを演[のべ]て立居たるが。右にはうすき檜[ひ]の木の板をもち左には天眼[てんがん]をもて日輪にさしかざせば天火[てんぴ][たちまち]くだんの板の上にうつりてちりちりと燃[もえ]たるを人みな奇なりとて群[むれ]つつ見る。いかに活計[よわたり]なればとて。かく日輪を弄[もてあそ]べる事[こと][おそれ]ありといひつべし。など神明[しんめい]の是を罰し玉はぬにやといきまき云へば。又みなみなうちわらひて。さな心得玉ひぞ。夫[それ]も家業を精出すべき基手[もとで]ならば。さこそ日輪のわづかの火をかし玉ふとて。敢[あへ]て惜しとは覚し玉はじ。唯[ただ]此程[このほど]所々に聞[きこ]ふるごとく。往還に人を害し。財宝を奪ひとれる曲者[くせもの]こそ。たとへ日の目を忍ぶとも。天網[てんもう][なん]ぞ泄[もら]し玉はん。かかる暴悪をだに行[おこな]はずば。彼[か]の路[みち]の傍[かたはら]に。仏菩薩[ぶつぼさつ]を荘厳[せうごん]して。本堂建立[ほんどうこんりう]の幟[のぼり]を押立て。実[まこと]売僧[まいす]の口を養なふ為にすとも。又は痩枯[やせがれ]たる浪人の編笠[あみがさ]ふかぶかと打[うち]かぶり。貧苦に逼[せま]りて老母をやしなふ便[たつき]だになきよしを紙に記して銭を乞ひ。其[その]本心は酒呑代[さけのみしろ]をもとむるも。敢[あへ]て神明の罰し玉へる所にはあらずかし。[など]かたりあひて急げるままに。道見も諸共[もろとも]に。半道[はんみち]ばかりかなたへ行[ゆき]ぬ。

▼やごとんき方…やんごとなきおかた。
▼大小…大刀と脇差。おさむらいの腰のもの。りゃんこ。
▼抜足…ぬき足さし足しのび足。
▼開帳場…ご開帳でにぎわってる会場。ここでは支度寺の境内。
▼足下…そなた。あなた。
▼女戯馬…女曲馬。馬に乗りながら若い娘が様々な曲芸を披露する興行。起立や狭駆などは曲馬の技の列挙。
▼妹背山…浄瑠璃の『妹背山女庭訓』のこと。「四の口」というのはこの四段目のはじめの部分。求女とお三輪と橘姫がそれぞれに糸をくっつけて相手の行き先をたどるおはなしのあたり。
▼言語に述がたけれど…筆舌につくせない。
▼活計…生計。生きてくためのおしごと。
▼商もの…商品。商売物。
▼ベイビル。ズウフラ。ゾンガラス…ズウフラ(ズウフル)は、銅などで出来たラッパ管で遠くまで声を拡声させるもので、ルーフルのこと。ゾンガラスは太陽を直接見ることが出来るように煤などをつけた黒いガラスで、サングラスのこと。
▼蛮物…南蛮渡来のグッズ。
▼天眼…天眼鏡。レンズ。むしめがねの親分。
▼日輪…お日様。レンズをつかって焦点の実験を見せていたという見世物をここでは述べています。
▼神明…かみさま。
▼天網…悪いことをしているものをのがさない天のあみ。「天網恢恢疎にして漏らさず」を引いた文句。
▼売僧…おかねもうけに余念のない僧侶。
▼便…方法。

[さて]又もとの松原には。行客[こうかく]の跡絶えて。晩景[ばんけい][おのづから]寂寞[せきばく]たり。時に赤松春時[はるとき]が一子[いっし]米吉[よねきち]は。年頃支度寺の観世音に祈誓[きせい]をかけて。彼[か]の剣法を学べるに。度々[たびたび]奇瑞[きずい]多かりければ。いよいよ信じ奉ること怠[おこた]りなく。猶[なを]此度[このたび]は日毎に詣[もうで]奉りしかど。其身[そのみ]はいまだ毒虫の勘太[どくむしのかんた]に仕へて。日に五拾把[ぱ]の薪[たきぎ]を樵[こ]れば。白昼に行くこと能[あた]はず。自然に日暮を待[まち]得つつ。かくのごとく詣[もうで]にけり。

▼晩景…夕暮れ。

されば路[みち]の程をもとつかは走るに。ふと草鞋[わらんじ]の紐[ひも][とけ]たれば。傍[かたへ]の松の根もとに休[やすら]ひ。堅々[かたがた]と〆直し。やがて又行[ゆか]んとせしが。何心なく此[この]松の洞[ほら]を見るに。裡[うち]には人の屈み居たるけしきなり。米吉忽[たちまち]心付き。[さて]は聞及びたる此[この]往還の盗賊なめりと。不敵にも手をさしのべ。むづと掴んで引出[ひきいだ]せば。こは如何に人にはあらで。三かさね程の衣服なり。取上[とりあげ]見れば下より金[こがね]の弐十両ばかり入りしと覚しき胴巻[うちがへ]も出[いで]たりける。かくと見るより米吉は。くだんの衣服をもとの洞[ほら]に押入[おしいれ]。へしいれ。うちがへばかり手にとりて押戴[おしいただ]き。こや観音の授け玉はるものならじ。我[われ]今は十五才ともはやなれど。君父[くんぷ]の仇を報ずべき手段[てだて]もなく。母のありか姫君の御行方[おんゆくゑ]をも尋ね奉らず。空しく月日を過[すぎ]ぬること。曽[かつ]て我が本懐にはあらざれど。一[ひと]たび賊の為に誑[たぶら]かされて。勘太がもとに身を売らるれば。我が身を我が身のままならず。奴[やっこ]となりて仕へしも。斯[かく]身の代の金だにあるうへは。忽地[たちまち]かなたの暇[いとま]を乞ひて。疾[と]く人々をたづぬべし。あら有[あり]がたや有[あり]がたやと。天に仰ぎ地に臥して。観音菩薩を礼拝[らいはい]し。さるにても賊の奪へる金にてあるべければ。いづれの人の身の上にか。庶幾[そこばく]の難儀なくては叶ふまじ。よしいづれの人か此金[このこがね]を暫[しば]しは我に貸[かし]たまへ。我[われ]本懐を達せしうへは。いかにもして廻[めぐ]り合ひ。此時の恩を謝して返すべし。いざさらば観音堂へいそがんと。道たどたどしき宵闇[よひやみ]に。志度寺さして歩みゆく。

▼かなた…毒虫の勘太。

むかふよりは鬼塚道見。彼[か]の士[さぶらひ]を尽[ことごと]く剥取[はぎとり]しと覚しく。あまたの衣服を肩にかけ。五腰[こし]の大小を脇ばさんで。しづしづと帰り来ぬるが。米吉を透[すか]し見て。亦もやひとつの獲[えもの]はあなりと心のうちにほとほと歓び。やがて道路を妨[さまたげ]つつ。何心なき米吉が右[みぎ]りに遅れば右[みぎり]に寄り左りに除[よけ]ればひだりに添[そふ]て。掴み殺さんおももちなり。然[しか]るに米吉は。腰に一ッの短剱[たんけん]をだに帯ざりければ。いかに兵法[へうほう]を得手たりとも。聊[いささか]是に敵対がたく。唯[ただ][よく]るには如[しか]じと思ひて。かなたこなたに身をひらけば。思はずもと来[き]し道に押[おし]もどされぬ。やがて道見高らかに呼[よば]はりいふ。[なんじ]小童[こわっぱ]身に纏[まと]える衣服をば。皆[みな][ことごと]く脱[ぎ]て得させ。さらばは命を失ふべきぞと。先に奪へる刀をぬきて。米吉が咽[のどもと]に突[つき]かくれば。米吉さすがにこらえかね。からからと打[うち]わらひて。汝われを尋常[よのつね]の小童[こわっぱ]と見るや衣服はおろか。草鞋[わらじ]にても脱ては与へじ。はやそこ除[のき]て通せばよし。若[もし][さまたげ]なば目に物見せんと。拳[こぶし]を握りて立[たっ]たりしは。いと健気[けなげ]にもここ地よし。さはいへ眼前[がんぜん][かたき]とも知らずして。斯[か]く猛勇なる道見に。一刀をも持[もた]ずして向[むか]へる事。実に風前の灯[ともしび]よりも危[あやう]からん。されば道見は大に怒[いか]り。この大胆成[だいたんなる]小丁児[こでっち]よ。息の音[ね][とめ]と太刀ふり上げ。真甲微塵[まっこうみぢん]と切付けたり。米吉はかいくぐりて。道見が脇はさみたる太刀引ぬき。いざ鉄壁[てっぺき]も通れよと。勢[いきほひ]込んで。突付[つきつく]るにを。道見見るよりあはてふためき。[げ]に尋常[じんじゃう]の小童[こわっぱ]にてはあらざるよな。よし羽客[てんぐ]にてもあれ。速[すみやか]に手なみを見せんと。又切りつくればはっしと受[うけ]。うけては返しかへしては。追[おひ]つ捲[まくり]つ戦ふうちに。米吉が懐中より。以前の胴巻[うちがへ]ざくと落[おつ]れば。道見忽[たちまち]心づき。[さて]は多くの金銀を所持なせしか。うましうましとうなづきつつ。はやく小童[こわっぱ]を殺さでは叶ふまじと。弓手[ゆんで]馬手[めて]に切りたて切りたて。火花を散[ちら]して挑み合[あい]ぬ。

▼敵対がたく…敵対するのが難しい。武器なくこまる米吉。
▼尋常…そこらにごろごろ転がってるような。
▼羽客…天狗。「羽客」の熟語は本来は「仙人」を意味してるもの。
▼弓手馬手…左右の手。

かかる所に深谷雲斎[みたにうんさい]。今は道見が手下に属して。盗賊の形に打扮[いでたち]。後[しりへ]に妻女[つま]を引倶[ひきぐ]して。各[おのおの]刀を振立[ふりたて]つつ。二三人の旅人[たびうど]を追来[おひきた]れり。雲斎が云[いは]く。いでいで衣服荷物迄[まで]残りなく渡すべし。違背[ゐはい]せば 頭[かうべ]を切らんと。居丈高[いたけだか]に[勹+言][ののし]れば。旅人等[だびうどら]大に怒[いか]りて。汝いかなる者なれば。斯[か]く道路を妨[さまたぐ]るぞ。もし此侭[このまま]立去らずば。汝等[なんじら]をこそ殺すべし。覚悟せよと。立上れば。雲斎猶[なを]も声あららげ。汝知らずや我は朱武[しゅぶ]といふものなり。是なる女は孫次郎[そんじろう]とて。万夫不当[まんぷふとう]の豪傑なるぞ。侮[あなど]りて後悔すなと。やがて刀を取直せば。心得たりと旅人は。雲斎が刀もつ手をしかと捕へ。女をも傍[かたへ]にはたと蹴[け]かへして。汝名もなき悪星[あくせい]ども。魯達[ろだつ]めきたる手なみを見よと。拳[こぶし]をもって打擲[うちたた]けば。雲斎さすがにたまりかね。大地にどうと倒れにけり。なを旅人等[だびうどら]の怒[いか]りをなして。かかる賊を[てう]さんには先[まづ]衣服より剥取るべしと。無二無三[むにむざん]に雲斎夫婦を。裸[あかはだか]にぞなしたりける。其時[そのとき]雲斎歎[なげき]て云[いは]く。我らはいかなる因縁にや。かう度々[たびたび][あかはだか]になれる事のかなしさよ。実[げ]に此所[このところ]の物騒なる往還と知りながら。斯[か]く出たるが誤りなれ。さるにても命ばかりは助けてよと。夫婦は例の手を合せ。旅人[りょじん]の前に平伏す。かくと見るより鰐蔵[わにぞう]が。うしろのかたよりいっさんに飛来[とびきた]り。物をも云[いは]ず旅人をかなたこなたに投出[なげいだ]せば。すは曲者[くせもの]と一同に。あとをも見ずして迯去[にげさり]ぬ。

▼深谷雲斎…さきほどまでの名医・池見雲斎。
▼違背…いうことをきかぬ。
▼懲さん…こらしめてやる。

時に鬼塚道見は。先より米吉と戦ひ居て。身体[しんたい]大に疲れたる所なれば。此者共[このものども]の来[きた]れるを歓びて。我先より手ごはき小童[こわっぱ]を合手[あいて]として戦ひいまだ真最中[まっさへちう]なり。出会[いであへ]やと呼[よば]はるにぞ。得たりやあふと。鰐蔵が。身搆へして刀をぬきもち。米吉をめがけて横あひより突[つき]かくれば。さしもの米吉あしらひかね。思はずも十間[けん]ばかり飛去[とびさっ]たり。[この]ひまに道見は。雲斎に下知[げち]を伝へて。此傍[このあたり]に金財布[かねざいふ]の落[おち]たるべし。汝ら捜し求めよと呼[よば]はりつつ。又鰐蔵に力を添[そへ]んと。戦い半[なかば]へ切[きっ]て入[い]れば。不思議や米吉は消[きゆる]が如く失[うせ]たりける。道見又いふ。よしかの小童[わらは]の迯[にぐ]るとも。落[おと]せし金[こがね]だに拾得[ひろえ]ば。十分の利なるべし。克々[よくよく]さがし求めよと。雲斎夫婦に立交[たちまじ]。鰐蔵もろともかなたこなたを探り廻[まは]れど。闇夜[あんや]にて所を分[わか]ねばまづ松明[たいまつ]をともすべしとて。鰐蔵が懐中より摺火打[すりびうち]をとりいだし。火を打[うち]つくる折[おり]しもあれ。虚空より尖[するど]き剣[つるぎ]刃向[はむき]になして降らせしが。下には一声[ひとこへ]あと喚[さけ]ぶ声聞[きこ]えぬ。こは何事ぞと松を灯[とも]し。あたりを見れば雲斎が。[かうべ]より亀の尾まで突貫[つきつら]ぬきて息絶[いきたえ]たり。かくと見るより道見等[だうけんら]は大に驚き。何もののしはざなるぞと。なを松明をふり立[たて]て虚空を見れば遥[はるか]に松の梢[こずえ]より。しなしたり賊主をこそ殺すべきにと。彼[か]の米吉が声すれば。道見を始[はじめ] として鰐蔵も歯噛[はがみ]をなし。いでいで小童[こわっぱ]を切りさいなみ。此[この]鬱憤をはらさんと。やがて二人は刀を抜連[ぬきつ]れ松明をふりたてふりたて。此[この]松が枝[え]にぞのぼりにける。米吉は折[おり]よしと松が枝より飛下[とびくだ]り。あたりに落[おち]たる刀を取れば。彼[か]の雲斎が死したる[かばね]の傍[かたはら]より。妻なる女も刀をもって。 米吉を目がけて。夫のかたきと切りつくるを。はや物々[ものもの]と一刀の下[もと]に切[きっ]て捨[すて]。くだんの松を一陶[ひとゆり]ゆれば[じく]せし葉のこぼるるごとく。道見も鰐蔵も真逆[まっさかさま]にぞ落[おち]たりけり。されば米吉は手ばやく立寄り。めくら打[うち]にきりつけしが。さすがにも道見は。太刀を払って飛上り又鰐蔵と[きっさき]をそろへつつ。必死になれて揉合[もみおふ]たり。されど米吉や勝りけん。亦は二人が謀計[ばうけい]なりけん。小腕孤[こうでひとつ]の太刀風[たちかぜ]に。追[おい]たてられて引退[ひきしりぞ]く。

つぎへ

▼此ひまに…そんなあいだに。
▼立交り…いっしょにまじって。
▼所を分ねば…どこにあるんだかわからない。
▼刃向になして…刃を下にして。
▼頭より亀の尾まで…あたまのてっぺんから、おけつまで。
▼尸…しかばね。死骸。
▼ゆれば…揺さぶれば。
▼熟せし葉…枯れ葉。
▼鋒…刀のさきっぽ。

校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい