大通俗一騎夜行(だいつうぞくいっきやぎょう)巻之四

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遊芸を閨の花にする姑獲鳥

嵐がむせびし松が千とせをまたで薪[たきぎ]にくだかれ古き塚はすがれて田となり其[その]形ちだになくなりぬるかなしさよと言[いい]ながら懐より乳呑子[ちのみご]を出して脊中[せなか]に笈[お]ひてをくれの髪を撫[なで]上げながら我も現世[げんぜ]の人の口の葉にかかる産婦[うぶめ]とて雨夜のつれづれに嬰子[みどりご]を抱[いだ]いて其[その]子を抱ひて下されと頼[たのみ]かけて涙交りのくどきごとを言[いい]ながら消へ失せるよし我も是を聞ひて世の人を笑ふ事甚[はなはだ]し跡にて其[その][たのま]れたる人抱ひたる子を見れば石仏[いしぼとけ]の抔[など]を持[もた]せたりと語れども是より近き世に有[ある]化物共我子[わがこ]を人に抱[いだか]せんと工夫する輩[ともがら]多くあるぞかし其家業を芸者と言[いい][また]踊り子と呼[よぶ]必々[かならずかならず][どぜう]の吸物の類に混ずる事なかれまづ花の盛[さかり]には上野[うへの]飛鳥[あすか]の空に知られぬ雪を踏んで女のあるまじき紋付[もんつき]の羽織を着[ちゃく]五枚裏三枚裏の寄せ緒[を]の草履[ぞうり]を履ひて地口を言[いい]ながら多葉[たば]この閉[つまっ]た長ひきせるの雁首[がんくび]を笄[かんざし]で堀りながら行姿[ゆくすがた]男を茶にした身のとり廻し歩行[あるく]拍子に紅[もみ]のぱっちと浅黄縮緬[あさぎちりめん]の下帯[したをび]竹馬の古着売[ふるぎうり]が涼風[すずかぜ]に見世[みせ]を出すやうにひらりひらりと見へ継棹[つぎさほ]の三味線は菊岡が高き価[あた]ひをいとはず撥[ばち]さい尻の紋所[もんどころ]は金泥[きんぷん]の光を増し根尾[ねを]の金物は飾り師の細工細[こま]やか也[なり]糸は座糸をもって最上とし箱の中歌の本と菓子を包んだ紙が混雑をなす夏は楼舟[やかたぶね]の二[ふつ]か酔ひ秋は二夜[ふたよ]の月にかか様[さん]の袷[あわせ]の表[をもて]をねだり出し冬は雪見年忘れにちと身を嗜[たしな]む人の喰[くは]ぬ鰒[ふぐ]を喰[く]ふ姿は女にして心は男也[なり][この]遊芸の始[はじま]りは漢家[かんけ]には虞氏[ぐし]楊貴妃[やうきひ]王昭君[わうせうくん]吾朝[わがてう]には鳥羽帝[とばのみかど]島の千歳[せんざい]若の前より男舞[をとこまい]と言事[いふこと][はじま]りけり後[のち]に水干[すいかん]に袴[はかま][ばか]り着て舞ふ是を女舞[をんなまい]と名付[なづく][その]流れを汲む踊り子は形は女心は男とは先[まづ]親々[をやをや]の気立[きだて]に相違なること有り女は母親の育[そだて]がらといふ諺[ことわざ]の通り幼少の時よりいかに賎[いや]しき生[うま]れなりとも心はなどか賢[かしこき]より賢[かしこき]にもうつさばうつらざらんと言[いふ]本文[ほんもん]の如く手習[てならい]読物[よみもの]針仕事を専一[せんいち]と教[をし]ゆべきをアノ師匠は手がかたくって女のには悪ひそして天神講が高ひと言触[いいふ]らし読物[よみもの]庭訓[ていきん]より外[ほか]に無ひ物と心得[こころゑ]師匠から帰るとヤレ秋の彼岸から中食[ちうじき]に帰らぬからひだるからふとてお袋神が杉の葉を燃[もし]つければ旦那殿が双紙を干しながら女で此[この][くら]い書けば無筆にはならぬと読[よめ]ぬ癖のなまものじりやふやふ茶が出来て飯を喰ふて仕舞ふと一ッ長屋の作次兵衛が娘のおさるが誘ひに来てサァおうたさんあひびなわたしゃァきのふ畳ざんを上げやしたヨアノ合の手は夜鷹[よたか]けころばし船まんぢうと言[いふ]文句に能[よく]合ひやすよと長ひ路次[ろじ]に敷詰[しきつめ]てある板草履下駄[ぞうりげた]と駒下駄[こまげた]の音かしましく出て行[ゆけ]ばしばらく過[す]ると薄ひ黒ひ表紙の本と切り交[まぜ]の撥[ばち]を持[もっ]てしゃがれた声で大きな紋の書ひて有る障子を明けて内へ這入[はいっ]て夫[それ]から親子兄弟並んで居る所で起請誓詞[きせうせいし]をむねに書きすいとすいとの実くらべとかたれば親父は親はないかと誉[ほめ]れば母親は湯を汲替[くみか]へて遣[や]る一寒[ひとかん]通して声を盗むことを覚へて来ると奉公口を聞立[ききたて]て一春奉公[ほうこう][し]て見る所が内に居るやうで無[なけ]れば七月[あき]宿下[やどを]から旦那が六ヶ敷[むつかし]ひの奥様の御夜詰[およづめ]が長ひと色々な難癖を付[つけ]て暇[いとま]を取りふらふら内に居ると屋敷の伯母様の所から月待[つきまち]に呼[よば]れ表[をもて]の地主の恵比寿講[ゑびすこう]で一段語[かたっ]て聞[きか]せれば大勢が物の入[いら]ぬことだからをしひものだから春から座敷を勤[つとめ]たが克[よ]ひと言[いわ]れて両親ながらその気に成り是からが芸者の発端[ほったん]で座敷へ出てをもをもしくどなたも御免なさりましとにじくり出て三味線箱の蓋を明けて袂[たもと]から紅麻[こうあさ]の手拭[てぬぐい]を出して糸をふひて上駒には鼻紙を寄[よっ]て拵[こしら]へ立て調子を合[あはせ]法楽はあら面白の春景色から弾出[ひきだ]して花のあたりはよぎて吹[ふけ]から魚[うを]と水とへ飛越[とびこ]し京鹿子[かのこ]は色を含みし桜花さわらば落[をち]ん風情なりけりと三味線を下に置きめり安を好まれて本調子の一チを少し低くして二上[あが]を弾出[ひきだ]拳酒[けんざけ]に至[いたっ]てめったに人に手をさげず馬鹿らしひ客を見付ては金十郎と名を付て人をさみし少しひけそふな息子にはめりやすを教へて我内[わがうち]へ引き込みお袋に目くばせをすると仕廻[しま]ひ湯へ出て行くどふやらこふやら此[この]息子から仕送りをするやうになると親々[をやをや]の了簡ではどふぞ娘が酢ひものを好むやうに神仏へ祈るぞをかしけれ朝は人に持ち起[をこ]されて飯を喰って浴衣を持[もっ]て湯へ行[いっ]て戻ると髪を結ひ仕舞へば七ッ下[さが]に成る両親は己[を]れがすごすと言[いふ][かほ]が表[をもて]にあらはれやれ油は家橘[かきつ]がゑんがん香でなければ髪がねまる下村[しもむら]が舞台香の替[かわ]りに五十嵐[いがらし]が雪月花[せつげつくわ]も皃[かほ]になづみが克[よ]ひと号し綻[ほころび]壱ッ縫ふことはならず笄[かんざし]茶漬[ちゃづけ]ても喰ふことを仕習ひ猫や鼠を飼ひたがりこはくの帯は塵が付[つく]と見やしみ風通[ふうつう]囲ひ者の様[やう]で克[よ]く無ひの黒繻子[くろじゅす]は〆[しま]りが悪ひとのよまいごと三段めの切[きり]には広袖仕立[ひろそでじたて]の放蕩[どら]ものと転び合[あい][つい]に腹合[はらあは]せの兄[あに]さんの有る芸者と成りその末が天滴[あまだれ]程な流れの身となる是[これ]こそ親々が金の有る人に抱[だか]せたがるより起[をこ]るぞかし始[はじめ]にも言[いふ]通り幼き時より袋のいらぬやうに継[つぎ]ものでもさせるが女の道なるべきを後には悔[くひ]ても益なく親に不孝と呼[よば]るもをかしけれ仏も昔[むか]しは凡夫[ぼんぶ]なり我等[われら]も終[つい]には仏なりと唄ひし祗王[ぎわう]祗女[ぎぢょ]が母親は大相国[ぜうかい]の気にさからはず嵯峨[さが]の奥に常楽我浄[ぜうらくがじゃう]の観を凝[こら]して仏御前[ほとけごぜん]が善知識を招く人の親としては慈に止[とどま]ると書[かか]れしを少しは耳に挟み山庄太夫[さんしゃうだいう]猿島惣太[さるしまそうた]と名を後代に人買[ひとかひ]と残す今は娘に遊芸を習はせて子捨[こすて][やぶ]には山吹の色を増す唐大宗[とうのたいそう]鄭仁基[ていしんき]が女[むすめ]元花殿[げんくわでん]に入[いれ]んと仕給ひしを魏徴[ぎてう]大臣彼女[かのをんな]には他夫[たふ]有りと言[いひ]しかば殿[でん]に入[い]るることを止[とめ]給ひしと聞[きく]ものを襟元[ゑりもと]に付ひて誰にも彼にも面白をかしき言葉付[ことばつき]は芸を売[うる]にあらず情[なさけ]を売[うる]にあらず己[をのれ]が心ざしを市のせりものにする道理ならずや芸が身を助[たすけ]孔明が楼上で琴を調[しらべ]仲達[ちうだつ]を退[しりぞ]張子房[てうしぼう]が笙[せう]の音色の秋風に響[ひびき]しは上[うは]べの芸にあらず心の調べの深きよりと知るべし村上帝の弾[たん]じ給ふ琵琶の音色に廉承武[れんせうぶ]天下りて上玄石象[ぜうげんせきぜう]を伝へしは音色の徳にこそ因[よる]ならん小督[こごう]が有り家[か]を尋ね当りし弾正少弼仲国[だんしぜうせうひつなかくに]もりきんで寮の御馬[をむま]に乗[のっ]て出ては見たが尋ね出さぬと大笑ひになる所をうぬが笛を吹[ふき]御影[をかげ]で想夫恋[そうふれん]の爪音[つまをと]を知った自慢に連[つれ]て来て清閑寺[せいがんじ]で尼に仕た時[とき]今の世の口へらずの女ならば大きに御世話イイ所だねと言ふ所を言[いわ]ぬが古代のをとなしき仕打[しうち]一ッには御父[をんちち]桜町中納言重範[さくらまちちうなごんしげのり]の仕付[しつけ]の宜[よき]ゆへ也[なり]因幡の国の入道の娘とんだ美しひもので有ったが米の飯が嫌ひで栗を喰いけるゆへ嫁入りをさせざるを吉田法師が誉[ほめ]けるぞ有りがたけれ随分女子を育[そだて]るなら我々が如く人に子を抱[だか]せたることなかれ見るも見ざるも産婦々々[うぶめうぶめ]産後の名を穢[けが]摂津守頼光[せっつのかみらいこう]が美濃守[みののかみ]の任なりける時平季武[たいらすへたけ]同国渡りと言所[いふところ]にて逢ひしと宇治亜相[うじあせう]の物語に書[かか]れけるよりして女の罪の深き事を人口[にんこう]に止[とど]む名利[みゃうり]の二字の外[ほか]に疑がひと言[いふ]胸の火を焚付[たきつけ]嫉妬の燃[ほむ]ら盛[さか]んとなるまだ段々咄[はな]して聞[きか]せませふと言[いふ]うち嬰子[みどりご]が泣き出しけるゆへしばらく此子[このこ]を寝せ付[つけ]るうち待[まち]給へ

▼嵐がむせびし松が…『徒然草』にある文句。自然の物も、ひとの在った跡も、やがて消えてしまうということ。
▼をくれの髪…おくれ毛。
▼口の葉にかかる…口端にかかる。噂になる。
▼産婦…お産のときに死んでしまった女がこれになるとも言われているおばけ。抱いている赤ン坊を「だいてやってください」と渡して来ます。
▼近き世にある化物共…このごろの人間社会にいるばけものども。
▼上野飛鳥…上野山と飛鳥山。どちらも江戸の桜の名所。
▼五枚裏三枚裏…うらに何枚も革をつけた重ねぞうり。五枚裏は五枚、三枚裏は三枚、革が重ねてあります。女郎や芸者が好んで履いていました。
▼地口…音の似た言葉をつかった言葉遊び。「鯉の滝のぼり」を「仔犬竹のぼり」と言う具合のもの。江戸ッ児はこれが大好き。
▼雁首…きせるの火皿の部分。
▼竹馬の古着売…古着の行商人。大きな竹馬を横にしたみたいなものに中古の着物をぶら下げて売りに来るところから。
▼菊岡…江戸にあった三味線屋。
▼さい尻…三味線のばちの底。
▼根尾…三味線の絃を止めるための紐。
▼箱の中…三味線箱の中。
▼座糸…座ぐり糸。
▼歌の本…歌の文句を記してある本。当時この手の本の多くは横綴じの体裁でした。
▼二夜の月…八月の十五夜と、九月の十三夜のお月見。
▼漢家…漢土。中国では。
▼吾朝…本朝。日本では。
▼島の千歳若の前…島の千歳・若の前。鳥羽天皇の頃いた白拍子で、俗にこのふたりが白拍子のはじまりと言われています。
▼女は母親の育がら…女児は育てやしつけ次第で玉の輿にも乗れるかも知れぬ、ということ。
▼手がかたくって女のには悪ひ…文字が四角ばっていて、女らしさが足りないということ。
▼天神講…天神さまをまつるもので、寺子屋の師匠などがこれを執り行っていました。ここではその天神講のための集金が高いとう悪口か。
▼庭訓…『女庭訓』など、寺子屋で使われていた女の子用の往来物の本。
▼中食…おひるごはん。
▼ひだるからふ…お腹が空いて切ない。
▼杉の葉…かまどの簡単な焚きつけ。
▼無筆…文字が書けない。江戸の職人衆にはこれが多くて、「なまじ文字が書けるやつぁ仕事が出来ねぇ」と言ってました。
▼なまものじり…しったかぶり。
▼一ッ長屋の作次兵衛…浅草で売られていた「とんだりはねたり」というおもちゃの売り口上に出て来る人の名前。「一ッ長屋の作次兵衛どの四国をまわりて猿になる」とあるところから、娘の名前を「おさる」としています。
▼合の手…歌と歌の間に入る三味線の音だけの箇所。おさるちゃんは三味線のお稽古で習った曲の話をしているようです。
▼長ひ路次に敷詰てある板…どぶ板。
▼草履下駄と駒下駄…草履下駄は、草履の下に下駄をつけた形の下駄。駒下駄は背の低い日和下駄の一ッ。
▼大きな紋の書ひて有る障子…三味線の師匠の家。歌の流派の紋が書いてあります。
▼すいとすいとの実くらべ…粹と粹との実競。おしゃれ合戦。
▼宿下り…奉公先のお休み。やぶいり。
▼月待…お月見などを目的にした講。
▼恵比寿講…商家などで行なわれるお祭り。
▼発端…ふりだし。
▼法楽はあら面白の春景色…道成寺ものと思われますが、どの正本によっているかは未詳。 ▼めり安…めりやす。三味線の曲の一ッ。
▼本調子…三味線の調律の一ッ。
▼二上り…三味線の調律の一ッ。
▼拳酒…狐拳や唐人拳などをして負けるとお酒を飲む遊び。
▼金十郎…金づかいのお荒いバカなお客。
▼酢ひものを好むやうに…つわりが起こること。子供を宿しますように。
▼七ッ下り…午後の5時ごろ。
▼家橘…歌舞伎俳優。十代目市村羽左衛門か。「ゑんがん香」は家橘が名をつけて販売していた鬢つけ油。
▼ねまる…髪の毛がべったり寝てしまう。
▼下村…下村山城掾。日本橋の本両替町にあった白粉問屋。芳町にあった芝居小屋からの帰りに寄るお客さんも多かったそうな。(柳多留「切り幕のころ下村も茶をわかし」)
▼五十嵐…五十嵐兵庫。両国広小路にあった白粉や髪油の店。枸杞油などが有名でした。
▼茶漬ても…お茶漬けを食べても。江戸ッ児のつかっていた「茶漬ける」という動詞の活用例。
▼猫や鼠…鼠は飼育用に育てられた白い「はつかねずみ」など。当時いろいろな毛白のこれを飼ったり造ったりするのが流行していました。
▼こはく…琥珀織りの帯。本物の琥珀が塵や埃を吸い付けるちからがあると言われてたことを引いたもの。
▼風通…風通織りの帯。
▼囲ひ者…おめかけさん。
▼三段めの切…場面の切り替えどころ。
▼広袖仕立…袖口が全部あいている着物。丹前。この手の着物をしめこんだごろつき野郎。
▼祗王祗女…源平時代の白拍子の姉妹。平清盛の寵愛を受けていましたが後ちに出家して尼となりました。
▼大相国…平清盛。相国は太政大臣の唐名。浄海は清盛の出家名。
▼仏御前…源平時代の白拍子。祗王祗女の次に平清盛の寵愛を受けましたがこの娘も尼になりました。
▼山庄太夫…山椒太夫。丹後国由良湊にいた強欲な長者。ここでは人買いの代名詞としての登場。
▼猿島惣太…隅田川ものの登場人物。梅若丸という男の子をさらっていった人買い。
▼唐大宗…唐の太宗。
▼鄭仁基…鄭仁基の娘は美人であるという噂をきいた太宗が、これを召し出させようとしたところ、大臣の魏徴が「彼女すでに他夫に約せり」と告げて止めさせたという話を引いたもの。
▼元花殿…元観殿。後宮の御殿の名前。この鄭仁基の娘の話は『源平盛衰記』などにも引かれていた話。
▼孔明…蜀に仕えた軍師。魏の軍に取り囲まれた時に悠々と琴を弾じて、その音色を聴いた仲達は孔明の策を察して軍を退かせたという「空城計」の話を引いたもの。
▼仲達…司馬懿。魏の武将。
▼張子房…張良。漢の軍師。笙を吹いて楚の国の兵士たちを沈滞させた、「四面楚歌」の話を引いたもの。
▼村上帝…村上天皇。
▼廉承武…唐の国の琵琶博士。村上天皇の琵琶の音色に感じてこの廉承武の霊が現われ、琵琶の秘曲「上玄」と「石象」を教えてくれたという『平家物語』などにある話を引いたもの。
▼小督…小督局。高倉天皇の寵愛を受けましたが、これを邪魔と目した平清盛によって出家させられてしまいました。琴の名手としてその名が知られていました。
▼弾正少弼仲国…源仲国。馬に乗って小督局を探しに出たとき、小督の弾く想夫恋の曲を耳に聴きつけて、それに対して笛の音で声をかけてその居所を知ったという話を引いたもの。
▼桜町中納言重範…藤原成範。小督局の父。
▼因幡の国の入道の娘…因幡国にいたある出家の娘は美女だったが米を食べずに栗だけを好んで食べていたので、「異様のもの」と思われて嫁の貰い手がなかった、という『徒然草』に記されている話。
▼吉田法師…吉田兼好。『徒然草』の筆者。
▼摂津守頼光…源頼光。
▼平季武…卜部季武。源頼光の家臣で四天王のひとり。『今昔物語集』などには季武がうぶめの正体を明かそうと夜に出かけて行った話が収められています。
▼宇治亜相の物語…宇治大納言(源隆国)がまとめたとされる『宇治大納言物語』のこと。『今昔物語集』と同じように天竺・大唐・日本の色々な話を集めたという内容の本だったとされますが完全な原本は伝わっていません。
▼人口…ひとびとの語る話の中。
▼胸の火…嫉妬心の炎。

十露盤の桁をはづるる皿屋敷

[かの]姑獲鳥[うぶめ]片膝[かたひざ][たて]て懐に入れし乳呑子[ちのみご]ねんねんころころ翌日[あす]はとふから御[を]ひんなれ小豆[あか]の飯[まんま]にとと添[そへ]と寄合[よりやい]辻番[つじばん]椽鼻[ゑんばな]に乳母[うば]の集[あつま]りて言[いふ]やうな声根[こわね]にてゆすり上々[あげあげ]幼子[をさなご]を寝せつけて言[いひ]けるは右にも言[いふ]ごとく女の罪ほどをそろしきものはなし皆々よくよく聞[きき]給ひて後の世の物語にし給へとて咄[はな]しけるは今は昔の事なるが播州[ばんしう]須磨の入道と言へる武士[もののふ]雑掌[ざつせう]に一二三与五六左衛門[ひふみよごろくざゑもん]とてふ[こつ]剛勢[ごうせい]の人にしてかりにもにやけた事を好まず明暮[あけくれ]反魂丹[はんごんたん]の受太刀[うけだち]の如く武術の稽古[けいこ]専一[せんいち]とこころざしけり此[この]与五六左衛門の家に主人の御先祖より伝はりたる皿十枚有り名付[なづけ]宇治の皿と呼ぶその故[ゆへ]巨勢金岡[こせのかなをか]が下絵にて源氏物語宇治十帖を画[ゑが]き大唐[だいとう]須金銭国[すきんせんこく]へ渡して嚊衆[かかしゅ]の焼餅と一所に焼上たる皿也[なり]殿の大客[たいきゃく]又は在国の振舞[ふるまひ]其外[そのほか]にあらざれば宝蔵を出[いで]ず然[しかる]に近年は与五六左衛門剣術を好み例の道具味噌から毎日々々遣[つか]ひければ煤掃[すすはき]の田作膾[ごまめなます]まで是[こ]れへ盛りける間[あいだ]さのみ下々[しもじも]は宝ものとも思はずやりばなしに遣[つか]ひちらかしけるに今年[こんねん]古須磨農入道[こすまのにうどう]隠居となられ子息[しそく]明石之助[あかしのすけ]へ家督相続有りければ例年の儀式にて件[くだん]の皿を召[めさ]れける侭[まま]与五六左衛門勝手働きおきくと言[いふ]女を呼んで皿箱を渡し宇治の皿を揃へよと言付[いいつけ]しが日頃彼女[かのをんな]麁相[そそう][なる][むま]れ付[つき]ゆへ少し欠[かけ]た位[ぐら]ひは早継ぎ石漆[いしうるし]にて間に合[あは]せて見たれども二ッ三ッにくだけ或[あるひ]は底を抜[ぬき][など][し]ければ其侭[そのまま]に流しの下へ投込んで置[をき]けるが今日皿を揃へよと言はれて段々尋ねしにさし引[ひき]残る[わ]れざる皿一枚より外[ほか]なかりければ与五六左衛門大きに怒り今度[こんど]殿の御跡目[をんあとめ]御相続の御祝儀に差出[さしいだ]饗応[きゃうをう]膳具[ぜんぐ]損じたる不届[ふとどき]我家[わがいへ]へ疵[きず]を付[つく]るのみならず再[ふたたび]千金を積んでも買事[かうこと]を得ざると言事[いふこと]は兼而[かねて]聞及[ききをよば]御家[おいへ]の御家風[ごかふう]相背[あいそむか]せ申間敷候[まうしまじくそうろう][と]請人人主から牡丹餅[ぼたもち]程な印形[いんぎゃう]を取[とっ]て置けば我[わが]勝手なりとて高手小手[たかてこて]に縛り上げ台所の大黒柱に縊[くく]し付[つけ]家来に言付[いいつけ]番をさせ我は公用繁[しげ]明日罪に行[をこな]ふべしとて殿の御殿へ上[あが]りければおきくはただ泣[なく]より外[ほか]の事ぞなく胸の中[うち]では日頃信ずる大師様観音様腰より下の病[やま]ひでなければ淡島様[あはしまさま]も祈られず縛られた事なればと千手観音を再拝し口のうちにて祈りけるは我[われ]勿体[もったい]なくも下着の襦袢[じゅばん]に煮湯[にゑゆ]を懸[かけ]るとき多葉粉[たばこ]の茎と一ッにして千手観音を皆殺しにいたしましておまへの御名を穢[けが]しましたまっぴら御めんくださりまし何卒[なにとぞ][この]縄目[なわめ]を御解[をと]きなされて下さりましと祈りければ若侍[わかざむらい]ども番に草臥[くたびれ]酒に喰酔[くらいよひ]て神鳴[かみなり]が落[をち]ても知らぬ高鼾[たかいびき]仕済[すま]したりと荒縄[あらなわ]を喰切りそろりそろりと門[か]どの戸を明けて逃出[にげだ]せば夜はしののめ明近[あけちか]き頃[ころ]表門[をもてもん]貫の木をそっと明けて雲を霞と逃[にげ]たりけるを門番扉の明く音を聞付[ききつけ]おきくが前垂[まへだれ]を落[をと]して有りしを逃[にげ]たるに疑ひなしと訴[うったへ]しまま若侍ども鑓[やり]よ棒よとひしめき追懸[おっかけ]けるがおきくが姿も見へずいかがせんと言[いふ]うちにアレ向[むか]ふの松原通りに後ろ姿が見ゆるとひしめけばおきくは暫[しばら]く松原の地蔵堂に腰を懸[かけ]てゆるゆると仕度[したく]を仕て逃出[にげだ]しければ斎藤別当[さいとうべっとう]富士川にてをどろきたる水鳥の立[たつ]が如くに追懸[をっかけ]ければおきくは詮方[せんかた]なく村はづれの桶屋に井戸がわの拵[こしらへ]て表[をもて]に出して有りければ天の与へと悦[よろこ]び彼中[かのうち]へ隠れければ追手[をって]の侍そこよここよと尋[たづぬ]れど未[ま]だ夜のほのぼの明[あけ]にて薄霜[うすしも]に足跡の有[ある]を知[しる]べに此[この]井戸がわの中[うち]こそ心元なしとて手鑓[てやり]を突込[つきこ]みければむざんなやおきくが胸骨[むなぼね]をさし通しただ一鑓[ひとやり]にて仕留[しとめ]ければアット言[いふ]声にをどろき井戸がわを引きくり返し半死半生なる骸[からだ]を手鑓[てやり]五六本一ッにして逆様[さかさま]に釣[つる]し上[あげ]差荷[さしにな]ひに屋敷へかつぎ込みければアァ残念や我[われ][この]思ひ晴[はら]さで置[をく]べきかと言[いふ]此世[このよ]の暇乞[いとまごい]にて事切れければ与五六左衛門も詮方[せんかた]なく受人[うけにん]え死骸を渡して野辺のけぶりとなしけるが[さかん]なる時はせいしおとろふる時はせいせられるとやら薩摩守[さつまのかみ]の一言の如く与五六左衛門春の末よりぶらぶら病気付[づき]ければ医薬専[もっぱら]に匕[さじ]を加減すれどもはかどらざりけり折[をり]から桜も散[ちり]卯の花くだし降りつづき折知[をりし]り皃[がほ]郭公[ほととぎす]夜を寝ぬ鳥も有[ある]ものと短か夜[よ]と言へど病[やま]ひの床[とこ]の起臥[をきふし]まじりまじりと夜の明[あけ]るを与五六左衛門待侘[まちわび]て居たりけるに花橘[はなたちばな]の袖の香[か][むか]しの人の目[ま]のあたり勝手の方[かた]にておきくが声のほの聞[きこ]へければ与五六左衛門不思議に思ひ耳をそばだて聞取[ききと]れば何やら瀬戸物の砕ける音して細く哀れに物凄く軒に伝ふる天滴[あまだれ]の音に交[まじ]りし物越[ものごし]は一枚二枚三枚四枚五枚六枚七枚八枚九枚かぞへ終りて我[わが][くだき]し皿の都合九枚と言[いい]ながらまた元へくり返し九枚八枚七枚六枚五枚四枚三枚二枚一枚と跡から読んでも九枚の数[かず]初而[しょて]からかぞへても九枚の皿はれ残念や我は地獄の浮責[うきぜめ]によもや九枚は砕きはせじと焔王[ゑんわう]の御前にて争ひしを見る目嗅ぐ鼻あらけなく汝九枚損ぜしに違ひなしと言[いは]れしを女心の浅はかに魂中途[ちうう]に迷ひ出て砕[くだき]し皿を改むるやっぱり同じ土くれの宝を損ぜし咎[とがめ]とて恐ろしき剣[つるぎ]の責[せめ][をの]れ与五六左衛門思ひ知らさで置[をく]べきかとアット泣[なく]耳に入[い]り空[そら]物凄き恨[うらみ]の一言[いちごん]日頃の勇気も出[いで]ばこそ震[ふる]ひ震[ふる]ひ念仏申[もうし]て居たりしが夜も明方[あけがた]に勝手の方[かた]を詮議すれどもさしたる変ることもなし雨の夜の人静[ひとしづか]なる折柄[をりから]は毎度如此[かくのごとく]なりければ主[あるじ]の病気日々[ひび]に重く見へければ親類縁者寄集[よりあつまり]祈祷の護摩のささばたきとののめきければ日頃与五六左衛門方へ百万扁[ひゃくまんべん]の音頭に来る元[もと][みやこ]深草[ふかくさ]に住[すみ]ける錦手和尚[にしきでをせう]入来[いりきた]り例のおきくが物語を聞ひて幸[さいわい]今宵[こよい]雨も降[ふれ]ば我[われ]其亡魂[そのなきたま]と問答して死霊をなだめんとて宵より檀[だん]を構[かま]孔明が東南の風を祈[いのっ][やう]な身振りで大般若転読[だいはんにゃてんどく]を初[はじめ]ける已[すで]に其[その]夜も丑満[うしみつ]大般若五百巻転読して跡[あと]百巻に懸[かか]らんとなす時無常の風をまぼろしのあだしのの露[つゆ]鳥部山[とりべやま]の煙[けぶり]たちさらで住[すみ]はつる生死流転[せうじるてん]の世のためし更に終りなく初めなきためしなれど人を殺さばましかばわずか宝にもせよ皿を破[わ]りしに我[わが]命を取[とら]れたるこそ恨めしけれとて例の通[とをり]九枚迄数へければ錦手和尚仕済[しすま]したりと合掌し引き入[い]る様な声根[こはね]にて定者必衰[せうじゃひっすい]会者定離[ゑしゃぜうり]とは仏の金言[きんげん][をのれ]女ながらも能[よ]く聞け形[かた]ち有[ある]物は必亡[かならずほろぶ]との譬[たとへ][なり]前世の約束なれば何[なん]ぞ歎[なげ]くにたらん常々三世相[さんぜそう]を見ざるや天帝[てんてい]より汝には米二合五勺二度の御仕着施[をしきせ]なること明白たり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と十念を九念さづければ烏[からす]の啼渡[なきわた]るに連[つれ]てお菊が姿も消失[きへうせ]ければ錦手和尚檀上より下[を]りて今晩よりは白雨[ゆうだち]の晴れたる如くならん昔[むか]弘法守敏[こうぼうしゅびん]はいざ知らず今時[いまどき][わが]如き法力者あらんや其昔[そのむかし]恵亮[ゑりゃう]砕脳[のふをくだき]維仁[これひと]御位につき給ひ尊意[そんい]振剣[つるぎをふるふて]承平将門[まさかど][ほろ]ぶ哀れ某[それがし]其時[そのとき][うま]れ合[あい]なば抔[など]か彼に負[まけ]んやと広言[こうげん][はい][もうし]けるは大般若五百巻転読に当る時[とき]彼が亡魂[ぼうこん]の出[いで]けるも誠に奈落に一段落[をち]ると言へども五百生が間[あいだ]皿を破[わり]し咎[とが]にて手なき者に生[うま]るること疑ひなし又十念さづけしも一念他生[たせう]無量劫[むりゃうごう]仏の誓ひ有[あり]がたやと前[まい]へ出[で]ぬ後ろ面[めん]と言[いふ]経文の心也[こころなり]としかつがましく咄[はな]して今宵の様子を伺[うかが]ひけるも日も西山に落[をち]寂滅為楽[じゃくめついらく]の鐘の音[ね]もすみ渡り初夜[しょや]も過[すぎ]後夜[ごや]に移[うつら]んとする時[とき]雨の足[あし][しづか]にして又前夜の通りに皿の数を改む錦手和尚手持無沙汰[てもちぶさた]の大しくじり与五六左衛門大きに腹を立て憎き鳰入坊主[ずくにうぼうず]夜も明けなば扣[たた]き出せと言[いい]つけけり東雲[しののめ]の頃[ころ]裏門より扣[たた]き放[はな]しにお定[さだま]りの割竹[わりだけ]其時[そのとき]錦手和尚手拭[てぬぐい]一ト筋[すじ]盗人[ぬすびと]に追銭[をいせん]と思ふてくれ給へせめて皃[かほ]をば隠したしと言[いひ]ければ下[しも]べ古き蒲鉾[かまぼこ]でん中[ちう]の菅笠[すげがさ]を遣[や]りければ誠に大般若五百巻読んで百巻残せし御ふ施に笠一蓋[かさいっかい]に有[あり]付けるゆへ末の世までも百巻の形[かた]に笠一蓋と申[もうす]なり夫[それ]より諸[しょ]親類相談して今宵は安居院[あくい]の法印を請[せう]じて[いとなみ]をなしける其夜[そのよ]例の刻限にお菊が声として皿の数を取る時に法印きくに言[いっ]て曰[いわく][なんじ][さき]知識来て引導[いんどう]す再[ふたたび]来ること如何[いかん]と言へばおきく答[こたへ]て言[いう]は前[さき]の和尚大般若も読果[よみはた]さず其上[そのう]へ十念を一念残されしは礼奉公の様[やう]で気に懸[かか]る侭[まま]又今宵受状[うけでう]の心で出[いで]たると言へば法印何やら口のうちで唱へ汝が破[わり]し皿の数は九枚なれば九品[くほん]の台[うてな]の数に合[あ]ひ模様は源氏十帖にして小乗乳酢[にうそ]の法を兼[かね]一枚破[わ]れ残りしは一仏一体の道理有[あり]一念礼奉公と思はば中年[なかとし]八年出入十念にして中年[なかとし]の八年は八軸法花[ほっけ]の女人成仏を得んこと疑ひなし南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱へられて両方の手を出して子供の暇乞[いとまごい]をする様[やう]なことをせられしかばお菊は両方の手を出し親指一本折[をっ]て暇乞[いとまごい]の体[てい]をなす時に法印[かぶ]りを振り又暇乞[いとまごい]をせられければアラ嬉[うれ]しやと言[いっ]てかきけす如く消[きへ]けり与五六左衛門法印に向[むか]ひ仕廻[しま]ひに暇乞[いとまごい]をされしは何[なん]の法と聞[きけ]ば両方の手を出[だ]し陰陽合体し又去[さっ]て十枚の数調[ととの]ひしといつわりし法弁[ほうべん][なり]おきく女の疑はしき心から親指を折[をっ]て九本指を出[だ]せしは九枚破[わ]りましたと言[いふ]事なり夫[それ]でも十枚の数合[あい]たりと某[それがし]が暇乞[いとまごい]をせしはをさらばさらばと言[いふ]もやっぱり皿の縁[ゑん]ぞかしと言[いは]れて一座の面々感心しけり断[ことはり]や此[この]法印は紫式部が五十余帖を書きにし源氏供養の導師なれば宇治十帖の皿を破[わ]りしに安居院[あくい]の法印に成仏させしは道理なることなりけり爰[ここ]に以[もって]女の罪の深き事を考へて慎み給ふべしと[くだん]の本の中[なか]へ消失[きへうせ]けり

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▼ねんねんころころ…子守唄。
▼椽鼻…のきさき。
▼播州…播磨の国。姫路を舞台にした浄瑠璃『播州皿屋敷』を引いたもの。
▼須磨の入道…須磨は播磨の地名の一ッ。『源氏物語』の中にに出て来る「明石の入道」の名前から引いて来たものか。
▼雑掌…屋敷に仕えて雑事を執り行う役職。
▼骨…気性。気骨。
▼反魂丹の受太刀…反魂丹を売っていた松井屋源右衛門が大道で大きな刀で居合切りをしていた事を引いたもの。
▼宇治の皿…『播州皿屋敷』の皿とは別もの。
▼巨勢金岡…平安時代の仏画の名手。俗に日本画の祖と言われています。『播州皿屋敷』では蘇東坡が模様を描いたとされています。
▼源氏物語宇治十帖…『源氏物語』の「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖の総称。
▼須金銭国…「好きんせん」という吉原ことばを外国の名前めかしたもの。
▼嚊衆…おかみさんたち。
▼大客…高貴なお客様。
▼在国…参勤交代で、お国もとに戻られた時。
▼例の道具…家宝のお皿。
▼煤掃の田作膾…すすはらいの日に食べられていた、ごまめと豆腐と野菜を煮た料理。
▼勝手働き…台所などに勤めている下女。
▼おきく…主人の大切にしていた家宝の皿を割ってしまったかどで手討ちにあい、幽霊となったあと皿を数えつづけていたというもので、浄瑠璃の『播州皿屋敷』のほか、河竹黙阿弥の『皿屋舗化粧姿視』(1861)や岡本綺堂の『番町皿屋敷』(1916)など、多くの皿屋敷ものにその名前が使われ続けています。
▼早継ぎ石漆…割れた瀬戸物などの接着剤として使われていたもの。精製してないうるし。
▼破れざる皿一枚より外なかりければ…この話では、大事なお皿のうちの一枚が割れてしまった、という展開では無く、十枚ぞろいのうちの九枚が既にくだけちっていて一枚しか残っていません、という状況が発生しています。「十露盤(そろばん)の桁(けた)をはづるる皿屋敷」という題は、割れてるお皿の数の多さから。
▼饗応…おもてなし。
▼膳具…お膳やお椀。ここではお皿。
▼御家の御家風相背せ申間敷候…お屋敷奉公をする時に交わされる契約書によく書かれていた文言。「お屋敷のしきたりに背くことはござりません」といった意味。
▼牡丹餅程な印形…おおきな印判。
▼高手小手…ひとをしめあげる時の形容詞。
▼公用繁し…公務が山のようにあるのじゃ。
▼淡島様…淡島大明神。女性の病気のまもりがみとして親しまれていました。
▼千手観音…観世音菩薩の姿の一ッ。ただし、ここでは「しらみ」の別名としての「千手観音」が登場しています。
▼襦袢…肌着。普通の着物の下に着る着物。
▼多葉粉の茎…着物についたしらみを落とすとき、熱湯にタバコをまぜて洗濯をした事を引いたもの。しらみさんごめんなさい。
▼仕済したり…こいつはしめたぞ。
▼貫の木…閂。門を閉め切っておくためにつける横木。
▼前垂…仕事をする時などに腰に巻く布。
▼松原…松の木が多く並んでいる場所。
▼ひしめけば…騒ぎたてれば。
▼斎藤別当…斎藤実盛。富士川の合戦のおりに源家の軍勢に一矢を放つことも出来ず敗走してしまった事を死ぬまで悔いていました。
▼富士川…富士川の合戦のおり、水鳥が一斉にとびたつ音を源家の軍勢が攻めて来たと勘違いして平家が大騒ぎした事を引いたもの。
▼井戸がわ…井戸皮。井戸のふちを囲うために作る桶状の囲い。
▼天の与へ…天のたすけ。
▼手鑓…普通の槍よりも短い槍。長さは九尺(180cm)ほど。
▼此世の暇乞…さいごのことば。
▼受人…請人。お屋敷奉公に出るひとたちの身元保証人。奉公人が罪を起こしたりした時などはこのひとが対処をしなければいけません。
▼野辺のけぶり…野辺の煙。お弔いを出す。
▼盛なる時はせいし…浄瑠璃の『一谷嫩軍記』に出て来る「盛んなる時は制し衰ふる時は制せらるる」という平忠盛のせりふを引いたもの。勢いのよいときは何でも良い方向にいくけど、逆になると弱り目に祟り目だよという言葉。
▼薩摩守…平忠度。
▼卯の花くだし…梅雨どきの雨。五月雨。
▼郭公…「夜わ寝ぬ」という文句は、ほととぎすが夜中にも鳴くところから。この習性から、ほととぎすは縁起の悪い鳥の声とも。
▼まじりまじり…眠ることが出来ずに時間が過ぎてゆく様子。
▼花橘の袖の香に…『古今和歌集』の「さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」という詠み人しらずの和歌を引いたもの。浮かび出て来るのは「おきく」さんなのに花橘の香りとはコレイカニ。
▼物越…壁や戸障子の向こうにいるひと。
▼はれ残念や…まぁなんと残念じゃ。
▼地獄の浮責…地獄の憂責。地獄で亡者たちが受ける獄卒たちによる苦しい責め。
▼焔王…閻魔王。亡者たちの生前におこなった善悪の行いを問いただして、来世の行き先を決める地獄の裁判官。
▼見る目嗅ぐ鼻…俗に閻魔王の脇にひかえていると言われていた目玉と鼻で、亡者が生前にした善悪を測定すると言います。
▼あらけなく…荒々しく。
▼中途…中有。この世とあの世の境。
▼アット泣声…お皿を数えた後に泣くのはおきくさんの型の一ッ。(播州皿屋敷「八ッ九ッハァ悲しやと泣声を」)
▼祈祷の護摩のささばたきと…祈祷やら護摩焚きやら笹ばたきやら。幽霊を払うための色々なお祈り。笹ばたきは、大釜などでぐらぐら煮たお湯を笹でバチャバチャまき散らすもの。
▼ののめきければ…騒ぎ立てれば。
▼百万扁…百万遍。たくさんの人が車座になって大きな数珠をくりながら念仏を唱えるというもの。百万遍の音頭というのは、数珠の真ん中などで鉦を叩いてみんなの念仏をととのえる役。
▼錦手和尚…焼き物の「錦手」からの命名。『播州皿屋敷』に登場している家宝のお皿は繧繝彩(うんげんよう)の錦照皿(にしきでざら)という大唐からの渡来品。
▼孔明が東南の風…孔明が赤壁で火攻めをする時に檀を設けて祈りをささげて東南向きの風を呼んだという事を引いたもの。
▼大般若転読…大般若波羅蜜多と唱えながら経典を一巻ずつべらべらひらいてゆくお祈り。大般若経は全部で600巻あります。
▼丑満頃…午前2時ごろ。幽霊さんたちの運行する時刻。
▼無常の風…あの世から吹いてくる風。
▼あだしのの露鳥部山の煙…化野の露と鳥部山の煙。化野も鳥部山も平安京のまわりにあった野辺送りの地名で、どちらも葬送のこと。この対語は『徒然草』に書かれているもの。
▼定者必衰…盛者必衰。どんなに栄えたものでもいずれは落ちぶれてしまうという教え。
▼会者定離…一度会った人とはいずれ必ず離れる時が来るという教え。
▼三世相…現世と来世と前世。
▼天帝…天のかみさま。
▼弘法守敏…弘法大師と守敏僧都。ともに名僧の代名詞。
▼恵亮砕脳…平安時代の僧侶。惟仁親王と惟喬親王が皇位を諍ったとき、惟仁親王のために祈祷を行なったという『保元物語』や『平家物語』などに記されている話を引いたもの。
▼維仁…惟仁親王。のちの清和天皇。
▼尊意振剣…平安時代の僧侶。東国で平将門が乱を起こしたとき、祈祷を行なったという『保元物語』などに記されている話を引いたもの。
▼承平…931-938年。承平天慶の乱のころ。
▼将門…平将門。天慶のころに親族との争いから転じて下総国の相馬に御所を建て、大和朝廷に矢を向けた武官。
▼広言吐て…おおぶろしきを広げて。
▼初夜…午後8時ごろ。
▼後夜…午前4時ごろ。
▼雨の足…浄瑠璃の『播州皿屋敷』では雨が降り出してから、おきくさんの霊が現われます。(播州皿屋敷「どろどろどろ家鳴震動空かき曇りにはかに降りくる雨の足」)
▼皿の数を改む…祈祷の結果むなしく、またおきくさんが皿を数えに出て来た。
▼鳰入坊主…梟入坊主。ふくろうみたいな入道野郎。坊さまに対する悪口の一ッ。
▼割竹…竹の先をこまかく割ってあるもの。屋敷のしもべ達が拷問や人を攻め立てる時に使う定番のえもの。
▼手拭一ト筋…てぬぐい一本。
▼盗人に追銭…だめの上塗り。一回損をしたんだから、あとちょっぴり損をしても同じようなものでしょうといった意味。
▼蒲鉾でん中…蒲鉾殿中。真ん中がまるくもり上がってる形のすげ笠。
▼御ふ施…御布施。
▼末の世までも…のちのちの世にまで。
▼百巻の形に笠一蓋…ものごとの価値に差がありすぎるといった意味の「百貫の形に笠一蓋」ということばのもじり。大般若経の転読は、このしゃれを言うための伏線。
▼安居院の法印…能の『源氏供養』に出て来る僧侶。
▼営をなしける…祈祷をさせる。
▼皿の数を取る…お皿を数える。
▼知識…徳と学の高い僧侶。ここでは先ほど失敗をした錦手和尚。
▼礼奉公…あらかじめ決められている奉公の期間が終わったあとも、一定の期間その勤め先で働くこと。商家や職人の間でこの風習は長く行なわれていました。
▼受状…請状。奉公をされる側が確かに引き受けましたとしてしたためる文書。
▼九品の台…極楽浄土に到達した者たちが座るという蓮。はちすのうてな。
▼小乗乳酢…乳酥。華厳経のこと。
▼一仏一体…たくさんいる仏もすべては一ッであるというおしえ。
▼中年…その間の年。
▼八軸法花…法華八軸。法華経のこと。「女人成仏」というのは法華経の中で説かれているおしえの一ッ。
▼子供の暇乞をする様なこと…さようなら。
▼冠りを振り…くびを横に振る。お断りします。
▼皿の縁…「おさらば」と「皿」のしゃれ。
▼紫式部…平安時代の女官。『源氏物語』の作者として知られています。二千札の肖像。
▼源氏供養…『源氏物語』を書いたことで、死後に妄語の罪に問われて大焦熱地獄におとされてしまった紫式部の霊が、安居院の法印の前に現われて回向を頼むというのが話の大筋。
▼件の本…『画図百鬼夜行』(1776)。ただし、皿屋敷を題材にとった画(皿数え)が描かれているのは『今昔画図続百鬼』(1779)
▼宇治十帖の皿…この話に出て来る家宝のお皿。『源氏物語』で末摘花が父のかたみとして秘色の唐物の皿を大事にしていたことを浄瑠璃の『播州皿屋敷』ではせりふに引いているので、そのあたりからの連想で、ここでは皿屋敷に『源氏物語』を趣向に採り入れたようです。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい