備後土産稲生夜話(びんごみやげいのうのよばなし)第一回


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第一回

伝聞[つたへきく]源頼光[みなもとのよりみつ]は異形の怪異に遇て身を苦しめしも之[これ]を退治て蛭蟷[つちぐも]なるを知り大森彦七[おおもりひこしち]鬼女に出会[であひ][これ]を斬るに年経[としふ]けぬる狸にてありしとなん泉州堺浦の石地蔵化[ばけ]て旅人に斬[きら]れ東京牛込の銀杏[いてう]化て往来の者を驚かす抔[など]枚挙[これをあぐる]に暇[いとま]あらずと雖[いへども]も多くは狐狸の類[たぐ]ひの業[わざ]なりかし今茲[いまここ]に解起[ときおこ]す物語[はなし]は猛獣[けもの]の所為[わざ]にあらず真[まこと]の魔王に出会て一[ひとつ]の奇談[ふしぎ]を残せしも実[げ]に珍敷[めづらしき]ことにぞある開[そ]は今を去る百三十有余年寛延年間の事にして備後国三次郡[みよしごほり]上布努村[かみふぬむら]稲生武左衛門[いなふぶざゑもん]と云[いふ]武士[もののふ]あり代々[よよ]国主[くにのつかさ]に使[つか]へて五百石を領し留守居役を勤[つとめ]何不足なく世を送れり然るに夫婦の中に子なきを愁へ或日[あるひ]妻を一間[ひとま]へ招き[わが]最早[もはや]四十路[よそぢ]に余れど未だ一子[こども]を設けざれば富[とみ]て財[たから]を貯[たくは]ふるも譲るべき者なき時は先祖へ対し不幸[ふこう]此上[このうへ]なるべしと語るを聞[きい]て婦[つま]お沢[さは]は気の毒さに暫時[しばし]ことばも涙に呉[くれ]て居[いた]りしが頓[やが]て顔[おもて]を揚[あげ][わらは][とて]も神や仏に誓[ちかい]を込[こめ]何卒[どうぞ]子供を授[さづけ]給へと祈れども出来ぬは女の身の不幸只此上の御願[ねがひ]は世継を設くる其為[そのため]に妾[めかけ]を抱へ賜れと只管[ひたすら][すすめ]て云けれど武左衛門は承引[うけひか]否々[いないな][せふ]など抱[かかへ]なば世間の口色に溺れし抔[など]と言[いは]れんも遺憾[くちをし]ければ僥倖[さいはひ]同家中の中山源七[なかやまげんしち]が次男の新八郎[しんはちろう]を養子に貰ひて養育[そだて]と語るを聞[きき]て妻お沢は初[はじめ]安土[やすき]心持[こころもち]しつつ其後[そののち]中山へ掛合て双方説得しければ終[つひ]に新八郎を引取[ひきとり]我子の如く愛[いつく]しみ蝶よ花よと養ひけるに光陰は矢よりも早く何時[いつしか][すぎ]て星霜[とし][うつ]安永四年と新玉[あらたま]の立春[たつはる]も霞深き三月[やよひ]の頃より妻お沢月の経[めぐ]を見ざるゆへ武左衛門は医師を招き診察[みたて]を請[こひ]しに疑ひなき懐孕[かいたゐ]なりと告[つげ]るにぞ夫婦の歓喜[よろこび]大方ならず是[これ]八百万神[よろづのかみがみ]が授け賜[たまへ]し者ならんと益々身体[みうけ]を大切に月の満るを待[まつ]うちに何時[いつし]か其期[そのき]来りて出生せしは玉の如き男子[なんし]にして殊に母子とも悩[なやみ]なく[いと]健康[すこやか]に肥立[ひだつ]にぞ名を平太郎[へいたろう]と称[よび]なしつ目出[めで][いつ]しみて手の裡[うち]の玉の如くに養育[そだて]けり

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▼源頼光…平安時代の武将。大江山の酒呑童子などを退治したということでひろく知られていました。
▼蛭蟷…葛木山の土ぐも。源頼光を病気にして苦しめたことは『土蜘蛛草紙』などにあるもので、足利時代から能や浄瑠璃、歌舞伎などに描かれているもの。
▼大森彦七…南北朝時代の侍。北朝につき、湊川の合戦で楠木正成を討ち取っています。
▼鬼女…『太平記』に登場している鬼女。大森彦七にまとわりついて苦しめていました。楠木正成の娘の霊と言われています。
▼寛延年間…1748-1751年。
▼上布努村…三次郡布野村。
▼稲生武左衛門…稲生平太郎の父親、先代の武左衛門。主人公よりも前の世代の物語から話がはじまってゆく構成は、江戸時代の講釈にもある構成ですが、この物語の場合、親の行なっていた事が後の展開に因果関係をもたらしてるわけではないので、どちらかといえば、ただの蛇足。
▼国主…とのさま。藩主。
▼承引ず…了承せず。
▼世間の口…みんなのうわさ。
▼安土…安心すること。安堵。
▼光陰は矢よりも早く…月日のたつのは早い。
▼安永四年…1775年。なぜだかこの箇所の年代はいちじるしく不整合。
▼月の経り…つきのもの。生理。
▼八百万神…かみさまたち。「よろずのかみがみ」という傍訓に注意。
▼月の満るを待…十月十日(とつきとおか)を待ちのぞむ。
▼母子とも悩みなく…母子ともに、すこやかな健康状態です。
▼手の裡の玉の如く…子供を大事に大事に育てること。目に入れても痛くない。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい