当下[そのとき]両個[ふたり]は川辺に到り塵[ちり]打払[うちはらつ]て大石に腰[こし]打掛[うちかけ]納涼[すずみ]けるに大熊山の方[かた]に当り小さき黒雲[くろくも]出[いづ]ると等しく晴渡[はれわた]りたる夕月も何時[いつしか]雲間[くもま]に隠されて忽[たちまち]ち暗夜[やみよ]に変[かはり]最[いと]物凄く偖[さて]も▼勝地[せうち]の二筋川なれど▼寂寞[せきばく]として見へけるうち電光ひらめき雷[いかづち]の音烈[はげし]く鳴渡り俄[にはか]に降来[ふりくる]秋雨[あきさめ]に二個[ふたり]は呟[つぶや]き濡[ぬれ]しまま足を早めて立戻り各々[おのおの]我家に帰り平太郎は▼六助に寝衣[ねまき]を出させ濡衣[ぬれぎぬ]を脱替[ぬぎかへ]▼蚊屋[かや]に入[いり]てぞ休みける六助主人が濡[ぬら]せし帷子[かたびら]を掛竿[かけざほ]に干[ほし]つ自己[おのれ]も部屋に退[しりぞ]き枕に就[つい]て寝たるに暫時[しばらく]ありて六助が頻[しき]りと苦しむ容子[ようす]故[ゆへ]平太郎声を懸[かけ]呼起[よびおこ]して子細[しさい]を問[とへ]ば六助は面色[めんしょく]青ざめ物をも云ひ得ざる故[ゆへ]平太郎猶[なほ]も言葉世話敷[せわしく]問[とへ]かければ六助額[ひたい]の冷汗ぬぐひ主人に向ひて言[いひ]けるは唯今[ただいま]しがた枕に就[つ] き眠ると間もなく突然に何処[いづこ]より来[きた]るか▼大入道飛入[とびい]り私[わたくし]の上に跨[またが]り掴[つか]んで呑[のま]ん勢[いきほ]ひに驚き恐れて思はず声を出せし其折[そのをり]旦那様[あなた]のおこゑに目を覚[さま]せど猶[なほ]未[いま]だに夢の如くに思はれ升[ます]ると語るを聞[きき]て平太郎其[そ]は其方[そのほう]が臆病ゆへ左様な夢を見る者ならん気を鎮めて▼得[とく]寝[いね]よと叱りつくれば是非なくも部屋のすみずみ虚労々[きょろきょろ]と見廻[みまはし]ながら再[ふた]たび横に寝[いね]たれど眠られもせで蒲団を冠[かむ]り夜の明るを▼千年[ちとせ]待間[まつま]の心持[ここち]しつ驚き震[ふる]へて居たりけり平太郎は今[いま]一寝入[ひとねいり]せんとせし折柄[おりから]吹来[ふきくる]風に行灯の灯火[ともしび]消て▼真[しん]の暗[やみ]▼一双[いっそう]寝[ねる]には増[まし]ならんと其侭[そのまま]枕に就[つき]たる折[おり]椽側[ゑんがは]の障子に写る焔[ほのふ]に驚き▼出火なりと思ひ蚊帳[かや]を巻上[まく]り起出[おきいで]て障子に手を懸[かけ]明[あけ]んとして▼引[ひけ]ども動かぬ大磐石[だいばんじゃく]に気を燥立[いらだち]障子を蹴倒すに骨は砕けて明[あき]たれば燃上りし火は消[きへ]忽[たちま]ち元の真[しん]の暗[やみ]平太郎不審[いぶかし]み須臾[しばし]彳[たたず]み居たるうち身体[からだ]自由に動かぬ様に成[なり]ければ弥々[いよいよ]奇[ふしぎ]の思[おもい]をなし一個[ひとり]考へをるうち以前の如く明るくなる故[ゆへ]瞳を定めて向[むこう]を見るに庭の彼方[かなた]に暗黒[まっくろ]き▼大坊主立塞[たちふさ]がり眼[まなこ]を怒らす其[その]光りは▼明鏡[めいけう]の旭[あさひ]に輝く如くなりしが丸太の如き手を伸[のば]し平太郎の襟[ゑり]を攫[つか]み表の方へ引出[ひきいだ]さんづ勢いなれば了得[さすが]の稲生も大[おほい]に驚き六助刀を持参[もちまゐ]れと呼[よべ]ど六助気を失[うしな]ひしか返事も絶[たへ]てあらざれば力を極[きわ]め妖怪[ばけもの]の手を払はんとする機[はづみ]後に▼堂[どう]と倒れしが▼枕刀[まくらがたな]を取上[とりあげ]さま妖魔[ようま]を目懸[めがけ]斬付[きりつけ]しに物怪[もののけ]早く椽下[ゑんした]に入[いり]ければ稲生益々[ますます]勇気を奮[ふる]い庭へ飛下[とびをり]椽下[ゑんした]へ続[つづい]て入らんとせしかども椽[ゑん]低くして入事[いること]かなわづ残念なりと思ひけん座敷に来[きた]り畳越[たたみごし]に突通[つきとを]さんと手探りに探れど畳あらざるゆへ▼手燭[てしょく]を尋[たづね]て火を灯[とも]し四辺[あたり]を見れば畳は片隅に残らず積[つん]でありしかば益々[ますます]呆[あきれ]て茫然[ぼうぜん]たり