斯[かく]て平太郎は翌朝八月一日伯父▼茂右衛門[もゑもん]初[はじめ]親族中へ魔王退去の由[よし]を知らしければ一家[いっけ]親類打寄[うちより]て歓喜[よろこび]の酒宴を開[ひらき]祝[いはひ]けるそれに引返[ひきかへ]▼新八は五郎左衛門の云[いひ]し如く九月十一日に墓[はか]なく草葉の露と消[きえ]しかば実父[おや]▼中山源七始[はじめ]平太郎倶々[ともども]最[いと]ど悲しさますらをか涙を袖に隠しとめ跡[あと]▼懇[ねんごろ]にぞ吊[とむ]らいける其後[そのご]三の井権八郎は再び▼紀州の抱[かか]へとなり名も和歌ノ浦力蔵[わかのうらりきざう]と改め其頃[そのころ]名を轟かし夥[あまた]の弟子を求[もとめ]平太郎と▼兄弟[けいてい]の約を結び妻を迎へて暮[くらし]ける平太郎は山本が伝[つたへ]し術を施[ほどこ]し多くの病者[びゃうしゃ]を救[すくひ]しより益々[ますます]人に尊敬[うやまわ]れ早くも▼両三年の年を送り父が名を続[つぎ]武左衛門と改名[あらため]たるに▼国主[こくしゅ]も稲生の技量を聞給[ききたま]ひて元高[もとだか]五百石を送りければ稲生深く喜悦[よろこび]▼忠勤を励[はげみ]けるにより▼家中の者も平太郎の品行と▼出精[しゅっせい]を感じ同家中なる福井貢[ふくゐみつぎ]の娘に幸[かう]と云者[いふもの]年十七にて近隣に評判の▼美婦[びふ]なれば稲生の妻には似合しからんとて家中の人の媒介[なかだち]にい稲生の妻と為[な]ししが夫婦中[ふうふなか]睦間敷[むつまじく]幾程[いくほど]なく一子[いっし]を貰[もう]けまた二百石の加増ありて何不足なく其日[そのひ]を送りけるは最[いと]も不思議な物語とて其頃[そのころ]江戸▼霞ヶ関[かすみがせき]の上屋敷[かみやしき]へ彼[か]の平太郎来[きた]りしことありて人々伝へ聞[きき]しがまま拙[つたな]き筆に書[かく]は物しつ▼若子達[わこたち]の御伽草紙[おとぎざうし]に記[しる]し畢[おわん]ぬ
編者曰[いはく]稲生の奇説の如きは今[いま]開明の御代[みよ]に書伝[かきつとふ]るとも空[むなし]く人の嘲笑[あざけり]を招くが如き業[わざ]なれども此[この]物語は幽霊の類[るゐ]にあらず已[すで]に幽霊の如きは心経[しんけい]の煩[わづら]ひなりと言[いへ]ば今に於[おい]ては信じ難[がた]し然[さ]れども魔説の如きは西洋各国にても猶[なほ]この事を▼言ひはやせり既に十有余年前迄[まで]は往来[わうらい]にて▼突然[いきなり]髪の毛を斬[きら]れし抔[など]往々[わうわう]あり亦[また]▼平田篤胤[ひらたあつたね]先生の筆記せし▼遷境異聞[せんきゃういぶん]の如き奇説もあり或[ある]ひは▼山崎美成[やまざきびせい]翁の▼高山虎吉[こうざんとらきち]の物語等の同じ話[はな]しにして虎吉は終[つひ]に▼高山志津魔[こうざんしづま]となのりて天狗に使[つかひ]し例[ためし]もあれば敢[あへ]て▼妄説[もうせつ]と見るなからんを乞[こふ]
▼明治十七年一月廿九日出版御届(定価十八銭)
編集兼出版人 東京府平民 ▼加藤正七
日本橋区檜物[ひもの]町八番地
発兌大売捌 旭昇堂
同 所