此時[このとき]三の井は隣屋敷の騒動[さわがし]きに不図[ふっと]目を覚[さま]して容子[ようす]を伺[うかが]ふと平太郎の詈[ののし]る声に驚き何事やらんと起上[おきあが]り寝衣[ねまき]の侭[まま]にて表へ出[いで]稲生の屋敷に入[い]らんとせし折[おり]何[いづ]れよりか来[きた]りけん十一二歳の▼女[め]の童[わらは]権八郎に行違ひさま突然[いきなり]飛懸[とびかか]り咽喉[のど]を押[おさ]へて放さねば権八怒[いかり]て化物の両手を掴み大路へ投付んと為[した]れども身体[からだ]痺[しびれ]身動きさへ出来ざれば▼歯切[はがみ]をなして呆れたりしが思はず後に倒れ暫時[しばし]気絶なしをり頓[やが]て蘇生[われにかへ]りて四辺[あたり]を見れば妖怪の姿は失[うせ]て▼東雲[しののめ]告[つぐ]る鶏の声に夢の覚[さめ]たる如く起立[おきあが]り心付て▼稲生の門[かど]を打叩き声を懸れど答へなき故[ゆへ]裏門[せど]の方より入らんと庭の▼枝折戸[しほりど]引明[ひきあけ]て椽側[ゑんがは]から登[あが]りたるに平太郎之[これ]を見て亦[また]妖怪[ばけもの]の来[きた]りしか只[ただ]一太刀[ひとたち]に斬捨[きりすて]んと刀を抜[ぬい]て振上れば権八驚き声を懸[かけ]三の井なるぞ稲生氏[うぢ]と云[いは]れて熟々[つくづく]その顔見れば紛[まが]ふ方なき権八故[ゆへ]平太郎力を得て能[よく]ぞ来[きた]られたりし三の井氏[うぢ]とて座に即[つか]せて後[のち]怪物[ばけもの]の容子[ようす]を不残[のこらず]語りければ大胆不敵の権八も妖魔の所為[わざ]に恐れをなしたりしが権八もまた先刻[せんこく]此方[こなた]へ来[きた]る折[をり]女[め]の童[わらは]に出会[いであひ]気絶なせし況[さま]より▼身体[みうち]へ熱気を生ぜし事を物語りそれより平太郎と倶々[ともども]に▼畳[たたみ]抔[など]引直[ひきなほし]て手つだひしが▼気分あしく成[なり]りしとて立帰り其[その]翌日より枕に就[つ]き次第に病[やま]い重りしとぞ