偖[さて]も稲生の養子▼新八郎は此[この]二三日少し気分[きぶん]快[こころよ]く病[やまい]の床を離れしゆへ久振[ひさしぶ]りにて平太郎に面会せんと思[おもひ]たち▼実父に告[つげ]て里を出[いで]遊歩[ゆうほ]なから▼養家へ来[きた]り平太郎を訪[とひ]ければ此方[こなた]は兄の来[きた]りしを大[おほい]に喜び相互[あいたがひ]に囲碁など出[いだ]して手合[てあひ]なし▼鷺[さぎ]と鴉[からす]のあらそひに日を暮せば平太郎兄に向い今宵は泊って行給[ゆきたま]へと進むれば新八其意[そのい]に任せて泊らんと約する折柄[おりから]俄[にはか]に雨を催せば新八郎僥倖[さいはひ]と下男八蔵を呼[よび]床を敷[しか]せて横になり平太郎と談話[はなし]抔[など]して有[あり]けるうち雨烈[はげ]しく降来[ふりきた]りければ最早[もはや]今夜は音信[おとづれ]る人もあるまじとて平太郎も倶[とも]に床を敷[しき]枕に就[つか]んとする折柄[おりから]▼鴨居[かもゐ]の上の穴よりして何[なに]ともしれぬ物飛出し二個[ふたり]が寝[いね]し▼蚊帳[かや]の上をくるくる廻[めぐ]る容子[ようす]ゆへ新八郎は何ならんと▼瞳をすへて熟々[つくづく]見れば今日しも自己[おのれ]が履来[はききた]りし下駄にてあれば大[おほひ]に駭[おどろ]き是[これ]何ごとと稲生に問[とへ]ば平太郎答[こたへ]て云[いふ]やう是[これ]ぞ妖魔[ようま]の所為[なすわざ]なれど怖[をそ]るることあらざる故[ゆへ]捨置[すておき]給へ気支[きつかへ]なしと雖[いへど]も新八大[おほい]いに怖[おそ]れ眠れもせで稍[やや]暫時[しばし]見つめて居る其[その]うちに何処[いづれ]へ行[ゆき]しや消失[きへうせ]ければ漸[ようや]く新八安堵[あんど]なし再び枕に就[つか]んとすると傍[かたはら]の▼掛竿[かけさを]に投掛置[なげかけおき]し帷子[かたびら]の袖[そで]の中[うち]より一[ひとつ]の生首出ると等しく新八郎へ飛付[とびつく]況[さま]に見へたれば弥々[いよいよ]増々[ますます]驚怖[きゃうふ]なし▼生[いけ]たる心地あらずして蒲団を冠[かぶり]夜明[よあけ]を遅々[おそし]と待兼[まちかね]けるうち早[はや]▼東雲[しののめ]の鶏の声告渡[つげわた]るに心嬉しく起出[おきいで]つ稲生に送られ実家なる中山方へ帰りしが此後[こののち]病[やまい]再び重り煩[わづら]いけるこそいたいたしけり平太郎は兄を送り我[わが]屋敷へ帰り来[きたれ]ば近所の若者五六人来合[きあはせ]今宵は皆々▼伽[とぎ]致すと云[いふ]に稲生心に可笑[おかし]く此[この]人々も武内や横井森川なぞと同一[おなじ]にて皆[みな]逃帰るべしと思へど▼言[ことば]を飾[かざり]それは千万[せんばん]忝[かた]じけなし何分[なにぶん]依頼[たのむ]と云[いふ]うちに山寺の鐘の早くも▼初更[しょや]を告渡[つげわた]れば稲生は一個[ひとり]眠りに就[つき]しが後[あと]に大勢寄合[よりあひ]て▼四方山[よもやま]の話をなし何卒[なにとぞ]怪物[かいぶつ]を生捕て手柄なさんと争ふうち何時[いつしか]月は山の端[は]に隠れて最々[いといと]物淋しく風まで颯々[さつさつ]と吹来[ふききた]る人々何[な]にとなく▼物凄くなりぞっと身の毛さかだち寒[さむさ]を覚[おぼ]ゆれば火鉢の辺[そば]へ膝をよせ互[たがい]に顔を見合[みあは]しつ薄気味悪くしり込[ごみ]する折[をり]火鉢の中[うち]より忽然[こつぜん]と炎燃上[もへあが]り毬[まり]のごとき玉となりしに伽[とぎ]の人々▼胆を消[けし]一度に飛退[とびのき]逃げんとする座の中へ▼堂[どう]と落[おち]たるが其[その]音のすさまじくして恰[あたか]も落雷せし況[さま]なるに各々[みなみな]顔色[がんしょく]青ざめ周章[あはてて]庭へ飛下[とびくだ]り命からがら逃帰れば稲生は余りさわがしさに起出[おきいで]たれど別に変[かは]りし様子なけれど伽[とぎ]の人々がをらざるゆへ彼らも又怪事に罹[かか]り逃帰りし者ならんと心付[こころづき]四辺[あたり]を窺[うか]がへば畳[たたみ]刎返[はねかへ]して有[ある]ゆゑ敷直し見るに床[とこ]の間の前なる畳の真中[まなか]二尺四方ほど真黒[まっくろ]に焼[やけ]こげてありしかばこのことならんと思ひすて其侭[そのまま]寝[いね]つ翌朝見れば焼[やけ]たる処[ところ]少しもなく元の如くにてありしといふ
記者曰[いはく]稲生平太郎怪事に罹りしは凡[およそ]三十日間にして七月[ふみづき]一日より▼晦日[みそか]までのことなり此中[このうち]同一奇話[をなじはなし]あるも少[すくな]からず其[そ]は▼看客[みなさん]の退屈あらんと恐るれば省[はぶ]きて言[いは]ず只[ただ]日毎[ひごと]変[かは]りし話[はなし]計[ばか]りを集めて綴[つづ]れば一日より二日三日と順次を追[おは]ず記せしゆへ巻中▼日合[ひあい]の合[あは]ざる処[ところ]は同一奇話[をなじはなし]と見なし咎[とが]め給ふこと勿[なか]らんを乞ふ