恁[かく]て三の井権八は或日[あるひ]稲生の屋舗[やしき]に到り頃日[このごろ]続く五月雨[さみだれ]に▼最[い]と徒然[つれづれ]なれば何ぞ終日[ひねもす]語[かたら]はんと互[たがひ]に▼猛[たけ]き談話[はなし]をなせしが頓[やが]て権八稲生に向[むか]ひ我[おのれ]幼きより人の話に妖怪変化[ようかいへんげ]に誑[たぶらか]され苦悩[くるしみ]を受[うけ]し抔[など]語るを聞[きき]て自己[おのれ]が遇[あひ]たることなければ一度にても出会[いであひ]て其[その]正体を見顕[みあらは]し生捕[いけどり]にして見んものをと思ひをりしに幸[さいは]ひに頃日[このごろ]村の噂に▼大熊山[おほくまやま]に怪物[ばけもの]いづると聞[きき]ければ今宵[こよひ]彼行[かしこ]に行[ゆき]て見ん君は如何[いかが]と問けるに稲生点頭[うなづき]是[こ]は面白[おもしろ]しとて忽地[たちまち]同意賛成為[な]しければ権八郎は重[かさね]て云[いふ]やう然[され]ば後刻[のちほど]鬮引[くじびき]なし当りし者が行[ゆく]と定めん一先[ひとまづ]拙者は帰宅して其[その]用意を致[いたす]べければ君は宅[うち]の用事を済[すま]せ▼後刻[ごこく]▼手前へ御出[おんいで]あれと言葉を残して立帰[たちかへ]れり跡[あと]に稲生は用事を済[すま]せ家来を呼び▼委細[いさい]を托[たく]し屋敷を出[いで]て隣家[となり]なる権八方へ到りけるに予[かね]て待居[まちゐ]し三の井は大に歓喜[よろこび]茶抔[ちゃなど]を入[いれ]種々▼奇談に時刻[じこく]を遷[うつ]し頓[やが]て▼二更[にかう]を告ぐる鐘[かね]陰々[いんいん]と響きて物琳[ものさび]しく此時[このとき]雨は益々[ますます]降りたれば▼時刻[とき]こそ宜[よ]けれと鬮取[くじとり]せしに平太郎その鬮[くじ]に当りしかば卒[いざ]趣[おもむ]かんと立上[たちあが]り▼袴[はかま]の股立[ももだち]取上[とりあげ]て蓑[みの]を着[ちゃく]し笠[かさ]を冠[かむ]り権八方を立出[たちいで]て▼黒闇[あやめ]の別[わか]ぬ▼烏羽玉[うばたま]の闇路[やみぢ]も搆[かま]はず大熊山の麓[ふもと]の方[かた]へと趣[おもむ]きけり
記者曰[きしゃいはく]大熊山[おほくまやま]は三次郡[みよしこほり]の西方[にしのかた]に聳[そび]へ▼峨々[がが]たる巌[いはほ]生[おひ]谷間[たに]あれども深谷[しんこく]にして水遠く樹木茂りて晴[はれ]たることなければ登山する人[ひと]甚稀[はなはだまれ]にして▼最[いと]嶮岨[けんそ]の岩石みち凡[およそ]五十町斗[ばかり]登[のぼ]りし処[ところ]に千畳敷[せんでうじき]と称[とな]へ▼三次若狭守[みよしわかさのかみ]の館[やかた]の跡あり夫[それ]より亦[また]二十丁過[すぎ]て三次殿の塚あり其[その]墳墓[つか]の彼方[かなた]に▼幾千[いくちとせ]を経[ふ]るとも知れぬ杉の大木あり此[これ]を名付て俗に天狗杉と云[いふ]幅員[はば]八尋[やひろ]にして枝は地にたれ墓を覆ひ茅[かや]多く生じ梢[こずへ]は雲に隠れ物凄きこと限りなく里人[さとびと]噂して此[この]杉に手を付る者は忽[たちま]ち祟[たた]りありと言伝[いひつた]へて近寄[ちかより]て見ることなしと云[いふ]