去程[さるほど]に過行[すぎゆく]▼月日に関守[せきもり]なくはや▼晦日[みそか]到りければ平太郎指折[ゆびをり]屈[かが]めて其日[そのひ]を数ふるに妖怪に出会[であひ]しより既に一月何時[いつ]まで懸[かか]る難気[なんぎ]に遇[あふ]や熟々[つらつら]思ひ廻[めぐ]らせば皆[みな]自己[おのれ]から招きし不孝遺憾の事を為[し]てけりと一個[ひとり]机[つく]へに寄懸[よりかか]り暫時[しばし]眠[まどろ]む其[その]折柄[おりから]吹来[ふきくる]風の烈[はげし]き音にふっと目覚て四辺[あたり]を見れば灯下の元に人[ひと]来[きた]り悠然として彳[たたず]み居るに稲生目をつけ化物が今宵[こよひ]も我を刧[おびや]かさんと姿を代[かへ]て来[きた]りしならんと熟々[つくづく]見れば身の丈[たけ]七尺余りにて▼人品[じんぴん]骨柄[こつがら]賎[いやし]からず肥[こえ]たる身体[からだ]に上下[かみしも]を付[つけ]殊[こと]に両刀を差飾[さしかざ]りし最[いと]も立派な武士[もののふ]なれば稲生声懸[こえかけ]何用[なによう]ありて▼案内[あない]もなく座敷に通られしや此程[このほど]我に難気[なんぎ]を懸[かか]る狐狸妖魔[こりようくわい]の類[るゐ]ならん▼とくとく退散致すべし若[もし]退[しりぞ]かざる上はめにもの見せんと立上[たちあが]れば暫時[しばし]待[また]れど彼[か]の武士手を差延[さしのば]し留[とど]むれど此方[こなた]は▼耳にも掛[かけ]ずして刀すらりと抜放[ぬきはな]して斬[きっ]て懸[かか]れば彼[か]の武士は莞爾[にっこ]とうち笑[えみ]後[うしろ]の壁に身をよせつ消[きゆ]るが如く壁へ自然と這入[はいり]ける故[ゆゑ]平太郎施[ほどこ]す術[すべ]なきに力抜[ちからぬけ]壁を白眼[にらん]で立[たっ]たる折[をり]壁の中[うち]より以前の武士[ぶし]声を発し我[われ]汝に告[つげ]たきことありて態々[わざわざ]今宵[こよひ]来[きた]りしを我[わが]云ふことを聞[きか]ずして我を斬[きら]んとなすうへは我また汝に災[わざはひ]を与ふべきぞ如何[いか]に汝が強気[ごうき]なるも其[そ]は及[およば]ざることに思ひ刀を納[おさめ]て承[うけた]まはれと云ひければ稲生も是迄[これまで]の事を思ひ迚[とて]も妖魔に▼敵[てき]し難[がた]きを知れる故[ゆゑ]抜放[ぬきはな]せし刀を鞘[さや]に治[をさ]めければ彼[かの]武士[さむらひ]以前の如く壁の中[うち]より顕[あらは]れいで稲生が前に居直りて偖[さて]も汝は気強き者かな今ぞ我名[わがな]を名乗[なのり]聞[きか]せん我は▼賎しき狐狸[こり]の類[るゐ]にあらず此[この]日本[ひのもと]の国中なる▼高山[かうざん]に住家[すみか]を求め人民を誑[たぶら]かすを以[もっ]て業[げふ]とする魔王にして名は山本五郎左衛門[さんもとごらうざゑもん]と云者[いふもの]なり▼我外[わがほか]にまた▼神野悪五郎[しんやあくごらう]と云者[いふもの]あり是[こ]は我が舎弟[をとと]なるが是[これ]も魔王の頭[かしら]たり日本[ひのもと]にて魔王と称[とな]ふるは我と神野[しんや]両魔にて▼余[よ]は皆[みな]配下の者にしあれば我[わが]指揮[さしづ]により随って其用[そのよう]をするものなり然[しか]るに汝▼五月雨の露をおかして大熊山に登り来[きた]りし時[とき]我[われ]汝に行合[ゆきあひ]たれど汝は少[すこし]もしらず其折[そのをり]汝の相を見るに当七月は汝の身に災[わざは]ひ来[きた]るを知[しり]しゆへ我[われ]その難を防[ふせが]んため斯[かく]は異形[いぎゃう]を顕[あらは]せしぞ然[しか]るに汝強気[きつよく]にして少[すこし]も刧[おびゆ]る気色[けしき]なきより永々[ながなが]逗留致せしは最[いと]気の毒なことをしてけりとて病者[びゃうしゃ]を救[すくう]の良術[りょうじゅつ]を平太郎にぞ授[さずけ]ける