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津田浦大決戦(つだうらだいけっせん)第三回

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第三回

さて今日[こんにち]此処に集りました者は、何[いづ]れも主狸[あるじ]の顔を眺めて居りました、其のうち田の浦の太左衛門は金長の容子[ようす]を眺めまして 太左是れは是れは、金長どの、御身の今日のお帰りは実に目出度い事である、尤[もっと]も御身の下僕[しもべ]の注進に依って、今朝[こんてう]より何[いず]れも部下の眷属を集め、御身の帰館を待受けに及んだる者数多あり申すまでもなく定めて授官を致されたのであらう、併[しか]し夫[そ]れは正一位に相違あるまい、マァ何は然[し]かれ誠に万歳[ばんざい]なことである」 と、大きに太左衛門は悦ぶ、一同の者は金長を祝し、銘々その処に集まり、双手を挙げて万歳を三度[みたび]呼ばはりながら「金長どの万歳」全然[まるで]凱旋の兵隊さんをお迎へ致したやうな塩梅[あんばい]でございます、現今[いま]なら狸も[ひら]けて居りますから然うでもあらうと云ふ是れは伯龍[わたくし]の想像であります、ところが何んとなく金長の容子が変でございますから、何[いづ]れも不思議に思うて居ります、此時[このとき]藤の樹寺の小鷹[こたか]は何んとなく虫が知らすのか、気に懸[かか]ってなりません 小鷹アイヤ、金長公に申上げます、此度[このたび]のお帰りはお目出度い事でありますが、我が父の鷹[たか]は居りませぬが、父は如何[いかが]いたしました事でございます、其辺[そのへん]のところを伺ひ奉[たてまつ]ります」と、金長の語[ことば]を待たずして、第一番に小鷹が其事[そのこと]を尋ねました此時まで太息[といき]を吐[つ]いて居りました金長は、鷹の兄弟に対[むか]ひまして、今は何んと云うて可[よ]いものかと、思はずホッと溜息を吐[つ]きまして 

▼主狸…「主人」ではなく「主狸」という用字に注意。
▼田の浦の太左衛門…田の浦の太左衛門。なまえは田左衛門、嘉左衛門とも。剣術に長けていたとも言われていて、小松島のあたりでは権威のあるおたぬきさまとして登場しています。
▼授官…正一位の位を授かること。狸や狐の世界では重要な社会的資格官位。
▼何は然かれ…なにはともあれ。
▼双手…もろ手。両方の手。ばんざーい。
▼開けて…文明開化してる。明治になると確かに陸蒸気やこうもり傘や警官や馬車などあたらしいものに化ける狸がキチンと世間にも出ています。

金長さてさて御一同の方々、今日拙者[それがし]の帰りに就[つい]て、態々[わざわざ]此処にお集まり下され、我れを祝し下さる段は実に何んともお礼の申しやうもござらぬ、併[しか]し拙者[それがし]出立[しゅったつ]の節[せつ]申上げた通り首尾好く授官をして帰館となれば、此上[このうへ]もなき大慶[たいけい]なれども、誠に以[もっ]て各々方[おのおのがた]に申上げるも面目なき次第なれども、此の金長は此度大いに失敗を仕[つかまつ]りました、実に思へば残念の至りでございまする」 と、落涙いたす容子でありますから、田の浦の太左衛門は之[こ]れを聞き咎[とが]めまして、一統の者の語[ことば]も待たず、太左是れは奇怪なる其の一言、既に一ヶ年あまり修行を致され、穴観音に居されしにはあらずや然[しか]るに貴殿にも似合はず失敗とは如何なる事であるか、サァ其の仔細を物語られよ、何事でござるか」  と詰め寄った、何[いづ]れも金長の返答如何[いかん]と席を進みました、茲[ここ]に至って金長、何時[いつ]までも隠し居ると云ふ訳にもなれませんからそこで 「[か]の穴観音に至りまして一ヶ年あまり其身[そのみ]は修行を致して居りました、ところが彼[か]の六右衛門の気質より、また娘の小芝姫[こしばひめ]の懸想[けそう]の一条、此度六右衛門我れを見方に引入れんが為[た]め長く穴観音に足を留めさせようと致し、娘の養子となって此地に留[とど]まれとある、我れ一旦日開野[ひがいの]の大和屋茂右衛門どのに受けた恩あれば、長らく此地に留まる事は成り兼ねる、願はくば大和屋を守護の為め立帰[たちかへ]りたいと、其事を六右衛門に述べたるところ、六右衛門日頃の悪心[あくしん][たちま]ち起り、我れに官位を授け帰す時は、却[かへ]って其身が四国の総大将の権威を奪はれんかと、彼れ疑ひの心より、一旦我れに授官の事を申しながらも六右衛門は無法にも我が旅宿へ夜撃ちを掛けたる次第は、是れ是れ、斯[か]やう斯やうの訳合[わけあひ]、我れを撃たんと計[はか]ったが、津田山の鹿の子[かのこ]と云へる者の注進に依って、我れは鷹と共に先[ま]づ之[こ]れを防ぎ、敵を一時は悩ませしと云へども多勢に無勢、遂に不便[ふびん]にも鷹は其場[そのば]に於て討死をなしたる次第は、斯やう斯やう残念ながら此の金長は鷹の死骸を持ち帰る訳にはならず、漸[やうや]う傍[かたはら]に仮埋葬を致して目標[しるし]の石を建てて我れは一方の血路を開いて、残念ながら帰館を致した事である、此度の失敗は御免下さい、此の通り」と肌押脱ぎて見せましたる時は、身体は数ヶ所の負傷[てきず]でございます、

▼大慶…とてもよろこばしいこと。
▼穴観音…津田山にある六右衛門狸のおしろ。
▼小芝姫…六右衛門の娘。津田山のたぬきのお姫様。金長に好意を寄せるが、騒動になってしまい結果、自決してしまいました。
▼日開野…金長たちの住んでいる地。
▼此地…六右衛門の居城である津田山。
▼押脱ぎ…脱いで。

此の容子を見ました何[いづ]れも一統の銘々、ハッと呆れ果てまして、互[たがひ]に顔を見合せて、誰一疋と致して語[ことば]を発する者もなく、少時[しばし]其場[そのば]は鎮[しず]まり返り居りましたが、金長は此時再び一同に対[むか]ひ 金長実に拙者[それがし]の此度の大難は、鷹の働きに依って一命を全[まった]ういたして引上げるとも、我が股肱[ここう]の臣[しん]たる鷹を撃たれ、何[なに]面目あって各々方に[おもて]を合はされませうや、なれども此度[このたび]誓ひし大和屋の主人に暇乞[いとまご]ひ旁々[かたがた]帰ると其侭[そのまま]大和屋に至り、漸[やうや]う是れへ引上げましたやうな次第、依って此上は部下の眷属を従へ、穴観音へ逆寄せを致し、六右衛門を撃取[うちと]り、鷹の吊合戦[とむらひがっせん]を致さんと思ひ無念ながらも引上げて帰りしは此の次第、さて改めて申すまでもなく将来[あとあと]のところをお願ひ申しますが、田の浦太左衛門どの殊に我が受けたる恩義を報[むく]はんが為、縦[たと]ひ拙者[それがし]討死をするとも必らず我が眷属を以て当家を守護仕[つかまつ]る、後のところを宜しく願ふと、大和屋さまに申し措[お]いて立帰りました、サァ斯[か]く決心を致す上からは、我れと思はん者は我れに従ひ、何[ど]うか出陣の御用意下さるよう、併[しか]し心の進まぬ者は無理にとは申さぬ、如何でござる」 と一統の顔を眺めた時、何[いず]れもホッと太息[といき]を吐[つ]いた未[いま]だ其の語[ことば]の終らざるうちに、小鷹、熊鷹の兄弟は、此度我が父の討死と聞きまして、実に残念と歯切[はがみ]をなし先刻[さっき]から身を慄[ふる]はして居りましたが 小鷹アイヤ、御大将、此上からは我々兄弟若年ながら、父を撃たれまして其の子と致して、何んぞ安閑として居られませうや、[とも]に天を戴かざる父の敵[かたき]、汝[おの]れ六右衛門奴[め]、他の者に首級[くび]を渡してなるべきか、何卒[なにとぞ]金長公、我々を先陣と致してお供を許し下さいまするやう、偏[ひとへ]に願ひ奉[たてまつ]」 と思ひ入[い]って、述べましたる事でございます、其の勇気は人間も及ばざるところの有様でございます、依って此の席に列[つらな]る何[いづ]れもの銘々、兄弟の心を察し、実[げ]に有理[もっとも]と思はれました事であります、

▼一統…一族郎党。家臣たぬきたち。
▼股肱の臣…忠義なる家臣。
▼面を合はされませうや…顔を合わせられましょうか。
▼逆寄せ…逆襲。
▼吊合戦…「吊」の字で「とむらう」と読むのは、この時代の用字。
▼倶に天を戴かざる…とても憎い。不倶戴天。

金長は之[こ]れを聞いて大きに悦び 金長其儀[そのぎ]は素[もと]より拙者[それがし]の望むところである、然らば先陣の役は御身等[おんみら]兄弟に申付ける、さて他の方々の御所存は如何である」 と云はれたる時、何[いづ]れも一統の者は 是れは大将の言はっしゃるのも無理はない、汝[おの]れ六右衛門奴[め]、此上からは我々お供を願ひたい、 拙者もお供を願ひたい ×身共[みども] 我が輩も 僕も」 其様[そん]な事も言ひますまいが、何条此場に及んで一座の銘々躊躇[ちうちょ]いたしませうや、皆々共に出陣を仕ようと云ふ意気込みでございます、すると此の末座の中[うち]より一頭[ぴき]が進み出[い]でました、是れは松の木のお山[おやま]狸と云ふのでございます お山アノ金長さまに申上げます、妾[わらは]女の身を以て差出[さしで]がましい事でございまするが、思ひまする事を申上げませんも如何と心得まする、先[ま]づ妾[わたくし]が一言[いちごん]いたしまするが金長さま、此度の御失敗は実に貴方の御心中をお察し申上げます、併しながら相手は六右衛門でございます、是れは申上げるまでもなく、当四国に於ては総大将と云ふ権式を有[も]って居るのでございます、されば其の眷属も余程数多[あまた]あるであらうと心得まする、夫等[それら]の手輩[てあひ]が皆味方をする時には、マァ数千にも及ぶであらうと思ひまする、定めて此度貴方を逃がしたと云ふので何[いづ]れ逆寄せを致すに違ひないと、穴観音に於きましては、十分その用意を致して待って居るであらうと思ひます、左様なところへ乗込みまするのは、余程此方が手堅[てがた]う致して置きませんと却[かへ]って打出しまして味方が敗走するやうな事では宜[よ]くないと思ひますから、先[ま]づ妾[わたくし]の考へでは、十分に茲[ここ]で手許[てもと]を堅[かた]めて置きまして、領分の出口々々には伏勢[ふせぜい]を搆[かま]へ、貴方は此処[ここ]で沈[じっ]と篭城[ろうじゃう]あそばしては如何でございます、さすれば敵方に於きましては、却って苛[いら]って此地へ逆寄せをするであらうと思ひます、彼[か]れを十分手許[てもと]へ引寄せまして、思ひ掛けなく伏勢[ふせぜい]が起[おこ]って、俄[にはか]に彼れを取巻いて鏖殺[みなごろ]しに致しますると、地の理は十分勝手を覚えて居る者ばかりでありますから、却って其方[そのほう]が勝利のやうに思ひまする、皆さま如何でございませう」 と自分[おの]が所存を述べました、

▼兄弟…小鷹と熊鷹。いずれも藤の木寺の鷹の息子たぬき。
▼総大将…六右衛門は阿波伊予讃岐土佐の四国のたぬきの総大将として君臨していたという設定。
▼権式…権威。
▼領分…領地。なわばり。
▼伏勢…伏兵。
▼敵方…六右衛門たちの軍勢。津田方。
▼地の理…地理、地勢。

すると此時、金の鶏[きんのにはとり]と云へる奴は、中々[なかなか]気性の優れた狸でありますから、金鶏アイヤ、お山どの待たっしゃい、其の計略[はかりごと]は甚[はなは]だ宜しくない、縦[たと]ひ六右衛門の方に如何やうの手配りがあるにもせよ、何条何程の事やあらん、他の者は卒[い]ざ知らず拙者[それがし]などは、穴観音に進んで参って、敵方の奴等[やつら]を片端[かたっぱし]から噛[くひ]殺して呉れようと相[あひ]心得る、卒[い]ざ金長公、速[すみや]かに御出陣の御用意を願ひたい、我れも共々鷹兄弟と同様進みまする事であります、何んと何[いづれ]もの方々御異存はなりますまい」 と小鷹は大きに勇み立ちまして 小鷹如何[いか]さま鶏どのの言はるる通り、拙者[それがし]とても其の通りであります、敵の奴輩[やつばら]が如何やうに手段[てだて]を施[ほどこ]さうとも、我々兄弟の歯節[はぶし]に掛け、片端から噛殺[くひころ]して呉れん、六右衛門を引摺り出[いだ]して我々の牙に掛けいで置くべきか、サァ御大将御出陣の御用意あって然るべし」 中々[なかなか]勢ひは盛んでございます、此時高須の隠元[たかすのいんげん]は、隠元先づ暫時[しばらく]お控[ひか]へを願ひたい、成程[なるほど]各々方[おのおのがた]の申さるるところも一理あり、また松の木のお山の言はれるのも是れ無理ならざる次第、敵には十分此度は其の準備を致して相待[あひま]つであらう、依って我々は是れから同勢を繰出[くりいだ]し、穴観音へは[よ]の払[ひき]暁方[あけがた]に進み行き、そこで先づチョッと其の近傍に屯[たむろ]を致し、敵の容子[ようす]を確かに探索をするのである、敵の準備の油断のところを見澄[みすま]して打入[うちい]らば、必らず敵は狼狽[うろたへ]散乱せん、其の虚[きょ]に乗じて大将六右衛門を撃取[うちと]らんこと、我が方寸のうちにあり、今一時に押寄せる時は先方[むかふ]も十分気が立って居るから、大将を撃ち漏らしては甚だ不都合である、依って縦[たと]ひ出陣をするとも、先方[むかふ]の気の退縮[ひるむ]を待って押寄せては如何でありませう」 遉[さすが]は高須の隠元と云へる者は、中々[なかなか]古狸だけあって、チョッと考へがあるものと見えます、之[こ]れを聞くと大将金長は横手を打って大いに感心をし 金長如何にも、今より直[すぐ]に押寄せるよりは夜の払[ひき]暁方[あけがた]を待って、敵の気の退縮[ひるむ]ところへ乗込むとは是れは宜[よ]い思付[おもひつ]きである、ソレ何[いづ]れも出陣の用意をなさい、 隠元心得ましてございまする」 と、今にも乗出[のりいだ]さんと云ふ勢ひでありますから、太左衛門は之れを打眺[うちなが]

▼計略…作戦。
▼歯節に掛け…がぶがぶ噛み殺す。
▼高洲の隠元…大入道の姿に化けてひとを化かしてたという話が残されています。
▼夜の払…払暁。夜明け。
▼其の虚…そのすき。
▼横手を打って…ポン。

太左如何に金長、御身[おんみ][そ]れでは何[ど]うしても進むと言はれるか 金長左様、縦[たと]ひ一命は終りませうとも、私[わたくし]は鷹に対して相済[あひす]まざる次第でありますから 太左ムウ、有理[もっとも]だ、我れとても、四国の総大将六右衛門の日頃の圧制を甚だ憎み居った事である、依って義を見てせざるは勇[いさみ]なし、然らば田の浦の太左衛門も御身に一臂[いっぴ]の力を添へよう 金長何んと仰[おっ]しゃる、さては御貴殿までが御助勢下し置かれまするか 太左されば 金長フフ有難き仕合[しあは]せでございます、貴方の御助勢のありまする時は、実に私は百万の味方を得ましたよりも有難く心得ます、田の浦太左衛門公の御助勢があれば、南方[みなみがた]の者一統は誓って我れに味方をして呉れませう 太左[そ]れは申すまでもない、我々が口を出す時は、総じて南方[みなみがた]の者は日頃恨み居るところの、彼[か]の六右衛門を滅[ほろぼ]す時節来[きた]れりと悦び、定めて此方[このほう]に味方をするであらう、依って一統の者に通知を致すが宜[よか]らう」 茲[ここ]に於て金長は早速回章を認[したた]める事になりましたが

▼進む…進軍する。出陣する。
▼義を見てせざるは勇なし…義を見てせざるは勇なきなり。
▼御助勢…援軍、すけだち。
▼回章…回状。

此度穴観音の総大将六右衛門征伐に就[つい]て、彼[か]の田の浦太左衛門どのも金長に一臂[いっぴ]の力を添へて乗出[のりいだ]される、我れと思はん者は来[きた]って此の同勢に加はるべし

と云ふ回章を認[したた]め、手分けを致して廻しました、何しろ斯うなりますると、愈々[いよいよ]この界隈に棲息[すまゐ]を仕まする多くの狸連中は、皆金長の方に味方をするのでございます、サァ乗出[のりいだ]さうと云ふ其の勢[いきほ]ひ、盛んに準備を致して居りますところへ、遽[あわただ]しく乗込んで参りましたる一頭[いっぴき]の小狸 小狸恐れながら御大将金長公に申上げます 金長何んぢゃ小狸只今表の方へ一頭[いっぴき]の牝狸[めだぬき]でございまするが、金長公にお目通りを願ひたいと申して参りました 金長ナニッ、牝狸が一頭[いっぴき]参った、夫[そ]れは怪[け]しからぬ事である、何者であるか 小狸左様でございます、全く穴観音の方から参りましたさうでございます、名前を聞きましたら小鹿の子[こがのこ]と申して居ります 金長ムゥ、さては小鹿の子が参って呉れたか、彼れは鹿の子の妻に致して、殊に小芝姫の素[もと]乳母役[めのとやく]を勤めて居った者である、何用あって参ったるか何は兎[と]もあれ、早々是れへ通すが宜[よ] 小狸心得ましてございます」 と下[さが]って了[しま]ひまする、

▼この界隈…日開野のあたり。
▼サァ乗出さう…サァ出陣をするぞ。
▼乳母役…うば。

少時[しばらく]経って案内[あない]に伴[つ]れられ小鹿の子は此の席へ来[きた]りましたが、余程気相[きっさう]を変へて居りまする容子 金長オオ是れは是れは小鹿の子どの、御身大胆にも只一頭[いっぴき]、何用あって是れへ来[き]さしゃった、定めて是れは容子があらう、其の仔細は如何でござる 小鹿金長さま、お懐かしうございます」中々[なかなか]気は立って居りまするものの、其処は何を申すも牝狸[めす]の事でございますから、金長の顔を見ると云ふと、ワッと其の場へ泣き倒れました 金長是れはしたり、泣いて居ては容子が分らぬ、全体如何[いか]なる次第であるか理由[わけ]を言はっしゃい」 漸[やうや]うの事に小鹿の子は顔を上げまして、涙を払ひ 小鷹金長さま、実に残念な事を致しましてございまする」 と茲[ここ]に於て鹿の子の最後の次第を物語りました、其上[そのうへ]は父を諌[いさ]めて全く穴観音に於て自害を致しました、六右衛門は娘の異見を用ゐず、殊に夫[おっと]鹿の子が貴方さまよりの書面を彼れに渡しましたるところ、六右衛門は之れを見て非常に怒り、近傍の味方の者を集め、既に貴方を征伐いたさんと云ふのでを飜[ひるが]へし、此の日開野の森へ対して押寄せんとて、其の同勢は全く津田浦の浜辺に於て勢揃ひを致して居りました、妾[わたくし]は混雑に紛れまして漸う此処まで先廻りをして参りましたが、今に程なく津田方は是れへ押寄せて参るでございませう、只々願[ねがは]くば妾の夫の敵[かたき]六右衛門を切[せ]めて一太刀[ひとたち]なりとも恨みたいと心得まする、お願ひ申します、金長さま、女でこそあれ何卒[なにとぞ]貴方の同勢のうちへお加へ遊ばして下さいまするよう之れを御覧下さいまし」 と、懐中より一包[ひとつ]の黒髪を取出[とりいだ]して差出しました 小鹿是れは妾[わたくし]が穴観音の館[やかた]を抜け出[いだ]しまする時、小芝さまは御生害[ごしゃうがい]、最早相果てましたる後のことと切[せ]めて髪なりともお形見にと思ひまして、妾が斬って参りました、是れぞ姫の黒髪でございます、何うぞ一言のお暇乞[いとまご]ひを遊ばして下さいまするよう」 と涙に昏[く]れて差出した、大将金長は之れを受取り大いに驚いて歯を咬聚[くひしば]

▼姫…小芝姫。
▼旗…軍旗。
▼懐中…ふところ。

金長さては小鹿の子、鹿の子どのには左様な次第で最後を遂げられしか、我れ此度[このたび]鹿の子どのの通知[しらせ]あらざりせば、いかで一命の助かるべき、我が為には大恩人、殊に小芝姫の自害、アァ敵の娘ながらも天晴れなる志[こころざし]、金長決して忘れはせぬ、必らず未来では我が妻なり、冥途[めいど]に於て相待ち呉れよ、蓮の台[うてな]の侘住居[わびずまひ]、此世[このよ]の縁は薄くとも、彼土[かのど]で長く夫婦とならん、半座を分けて待って居よ」 と、黒髪取って顔に押し当て、少時[しばし]涙に昏[く]れました、此時小鷹は金長に対[むか]ひ、小鷹恐れながら申上げます、只今小鹿の子とやらの注進では、最早穴観音の奴輩[やつばら]は津田の浜辺で勢揃ひを致し居るとのこと、夫[そ]れこそ設計[もっけ]の幸[さいは]ひ、敵が態々[わざわざ]押寄せるに此侭[このまま]待つべき理由もなく、卒[い]ざ我々兄弟先陣の役目を致して繰出しまする事でござる、金長公は後詰[ごづめ]として後よりお繰出しの程を願ひまする 金長ムゥ、併し余り早まった事を致さるるな、敵の容子を見澄まして、其上戦ふ時には必らず此方[このほう]と打合[うちあは]せられよ、我れも追付[おっつ]け出陣いたさう」 此時田の浦太左衛門は 太左兄弟、早々出陣あれ」 此の語[ことば]の終るを待って、小鷹熊鷹は勢ひ込んで突立[つった]ち上[あが]り、其侭[そのまま]此処を飛び出しました 小鷹ヤァヤァ誰[たれ]かある、藤の樹寺の小鷹熊鷹手の者、是れへ来[きた]り早々出陣の容易を致せッ」 と、僅か五六十の眷属共を従[した]がへまして、一[ひとつ]は父上の吊合戦[とむらひがっせん]、汝[おの]れ六右衛門、彼奴[きゃつ]の首を引抜[ひきぬ]かいで措[お]くべきやと、茲[ここ]で藤の樹寺の鷹の兄弟が先陣として乗出すと云ふ、是れより狸合戦の端緒[いとぐち]を引出[ひきいだ]すお話でございますが、チョッと一息[ひといき]いたしまして、

▼未来…次の世。来世。
▼蓮の台の侘住居…この世で正式に結ばれなかった好き同士が、あの世で結ばれたあとの住家。
▼彼土…あの世。
校註●莱莉垣桜文(2014) こっとんきゃんでい