津田浦大決戦(つだうらだいけっせん)第八回

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第八回

さて庚申の新八は準備も整ひまして、いよいよ今宵は首尾克[よ]く敵地へ乗り込んで事を挙げようとする間際に至って、又々大将金長に面会いたし 新八さて金長殿、私[わたくし]は是れよりお暇[いとま]をいたして敵地へ乗り込むことに決心いたしましたが、昨夜図らず小鹿子[こがのこ]殿に就いて城内の状態[さま]奥向の容子[ようす]までも詳しく承りました、ところがこの津田山の裏手に流れる一つの小川は、穴観音の後門[からめて]より出[い]づる水に致して、尤[もっと]も穴観音の城内より流れ出づるその水源[みなかみ]は奥向の泉水[せんすい]と云ふことであります、それで末は津田浦の海に流れ入るのであります、此のことは絵図面を以[もっ]て小鹿子どのより手に取る如く承りました、そこで私熟々[つくづく]考へまするに、表面[うはべ]は飽くまでも新参者、此辺[このへん]の籔狸[やぶだぬき]と相成りまして、六右衛門に申込んで奉公いたし、縦令[たとひ]身は下郎に零落[おちぶれ]ませうとも当分は彼[か]の城内に入り込むのでございます、そこで城内の容子[ようす]、又は大将六右衛門の要害の程、その城内の秘密、是等[これら]のことを第一番に聞き出しまして、彼[か]の城内より流れ出づる水は二の丸の濠端[ほりばた]に続くと云ふことでありますから、私は一々細[こまか]く認[したた]めまして暗号を以て城内の容子[ようす]を逐一お知らせ申さう、依って認[したた]めて流れへ投[はあ]り込みましたのがこの津田山の裏手に流れ落ちるのでありますから、貴殿は絶えずこの小川の容子[ようす]に目を注[つ]けさせて、流れ参るものあらば、それを拾ひ取って一々お調べに相成る時は、城内の秘密は詳しく相分[あいわか]るのでございます、就てはその暗号もお打合せをいたして置きたいと思ひます 金長成る程それは何[ど]うも至極結構 新八それでは私は大将六右衛門の秘密[ひぞう]に及ぶ魍魎の一巻を首尾克[よ]く盗み出し、若[も]し事の発覚[あらは]れる時は用意の爆裂を以て一命を棄てる代りには、城内の奴等[やつら]は残らず煙に堪[たま]らず城外に迯げ出す、その時はこの新八の最後と思召[おぼしめ]して各々方[おのおのがた]もお乗り込みを願ひたい、城内の容子[ようす]は聞き取り次第認[したた]めて木の葉を流すことに致しますからお[りっしん偏+空][ぬか]りなきやうに 」 と茲[ここ]で委しく打合せをいたしました、側[そば]で聞いてゐた田の浦の太左衛門も 「成る程これは妙計である併[しか]し庚申の新八、御身は実に大胆なお方だ、何[ど]うか何分敵に悟られぬやう頼みます 新八如何にも承知いたしました、それでは何卒[どうぞ]この新八の便りをお待ち下さるやうに」 と云ふので、万事相談の上新八はガラリ姿を変へまして敵地へ乗込むと云ふことに成りました、

▼泉水…お庭の池など。
▼奉公いたし…家来としてまぎれこむという作戦。
▼下郎…しもべ。身分の低い家来。
▼魍魎の一巻…さまざまな化け術の極意がしたためられているへんげたちの秘伝のまきもの。
▼爆裂…ばくれつ玉。ばくだん。
▼妙計…よい作戦。
▼姿を変へ…下郎奉公するような籔狸にみえるようにへんげ。

ところが何を云ふにも穴観音と云ふのは要害堅固でございまして、縦[たと]へ敵が幾万押寄せ来ようとも、大手搦手を厳重に固めをいたして当城内へ立篭[たてこも]る時は、却々[なかなか]容易に破れません、素[もと]より休戦のことでありますから城内の手合は、マァマァ斯う云ふ時に十分睾丸[きんたま]の皺のばしを仕ようと云ふのでありますが、何[いづ]れも味方に這入[はい]った者は、日々に酒宴を催して自然[おのづ]と怠り勝ちに相成って居ります、けれども大将六右衛門は大手搦手の番と云ふものは厳重に申付けまして、縦令[たとひ]城内の者と云へども、又四天王の内らの者でも、かねて印鑑と云ふものを渡してありまして、この鑑札のない時は決して城内へ出入はさせません、中々厳重に張番[はりばん]を付けてありますけれども、今は城内にても四天王の川島作右衛門、八島の八兵衛、多度津の役右衛門は過日の戦争[たたかひ]に皆々討死をいたしました、只残るは川島九右衛門のみ、それも数ヶ所の手傷を蒙[かうむ]りまして、以前の九右衛門の勢ひはございません、だが六右衛門はこれを城内に於て軍師と定めまして、十分彼に養生の手当をさせて居ります、そのうちに自分は倅[せがれ]の千住太郎と云ふ者の許[もと]へ至急の飛脚を以て、兎にも角にも穴観音へ立帰るやうと云ふので使ひを立てました、この千住太郎と云ふのは曩[さき]に最後を遂げました小芝姫の舎弟[おとをと]でございまして、縦令[たとひ]四国の総大将の倅と云へども皆それぞれ修行と云ふものが要ります、依って変化の術の修行中は他の手に掛ける方が宜からうと云ふので、今は彼は態々[わざわざ]八島の禿狸[はげだぬき]の許[もと]へ参りまして変化の術を修行いたして居ります、最中でございます、これを呼び戻して当城の総大将に仕ようと云ふ六右衛門の考へでございますけれども、今のところでは急に間に合ひません、旁々[かたがた]以て六右衛門も考へました、迚[とて]も他から援軍の来さうなことはない、依ってこれは寧[いっ]そのこと淡州[たんしう]千山[せんざん]の芝右衛門[しばゑもん]を味方に頼むより仕方がないと思ひました、尤[もっと]もこの千山の芝右衛門と云ふ者は中々狸党[りたう]のうちでは格別[よほど]勢力のある奴でございまして、淡州一円を預かって居りまして、この芝右衛門の妹と云ふものが六右衛門の後妻[のちぞひ]となり今穴観音へ参って居ります、縁者の間柄[あひだがら]でもあり、そこで腹臣の者を呼んで 六右其方[そのほう]只今より千山の芝右衛門の許[もと]へ参り、密[ひそか]に此度の戦争[たたかひ]の容子[ようす]を物語り、一日も早く彼に加勢に来て呉れるやうに、六右衛門が頼んで居ったと申して、此の書面をもって参れ」 と家来の飛田[とんだ]の八蔵と云ふ小狸にこの事を申付けました、此奴[こやつ]は道をドンドン飛び歩くのは中々妙を得て居りまして 八蔵宜敷うございます、御大将それでは私は是れより参りまして、明日[みゃうにち]は必らず立帰って参りますことでございます」 と其の侭八蔵は穴観音の搦手より飛び出しましたるこさでごさいます、

▼固め…厳重な警戒。
▼印鑑…鑑札、通行手形。
▼飛脚…手紙を運ばせること。
▼他の手な掛ける…自分の家で修行をするのではなく、他の狸の穴のめしをたべて修行をさせるということ。
▼八島の禿狸…讃岐にいる名高いお狸。屋島の禿。
▼淡州…淡路の国。あわじしま。
▼千山の芝右衛門…淡路にいる名高いお狸。
▼狸党…狸たち。

斯くて飛田の八蔵は一散に飛ぶが如くに千山の芝右衛門の許[もと]への使者でございます、淡州にて眷属の四五百疋[ぴき]もあらうと云ふ中々芝右衛門と云ふ奴は大層威張って居ります、やうやうのことに津田の浜辺へ遣[や]って参りましたが、何程[なんぼ]此奴[こやつ]は足が健脚[たっしゃ]な奴でも、海上は便船を求めんければならないのです、それですから彼奴[きゃつ]は浜辺に在って待って居りますと、好い塩梅[あんばい]に淡州の方へ出帆[うけ]る商船が一艘ありました、そこで人間の眼[まなこ]を眩[くら]ましヒョイッと船へ飛び乗りましたが、左様なことは誰も知らない、己[おの]れは隅所[すみっこ]の荷物の間に蹲踞[しゃがん]で居りますうちに、その日のうちに船は無事に淡路[あはぢ]の洲本[すもと]へ到着いたしました、すると飛田の八蔵早速陸上[おか]へ飛上った、其侭[そのまま]ドシド駈け出しましたが、何しろ一日に五十里位[くら]ゐは大丈夫歩[ある]かうと云ふ奴です、その日のうちに千山と云ふところへ遣って参りました、

▼五十里…約200キロメートル。

するとこの山に一つの穴がございまして、穴の入口には芝右衛門の家来、番人と見えまして小狸がその処に五六疋[ぴき]にて護って居ります、折しもドシドシ駈け着けましたる飛田の八蔵 「これは各々方[おのおのがた]にはお役目御苦労にございます ヤイヤイ貴様は何者[なん]だ、馴々[なれなれ]しく何国[どこ]の奴だ、一向見馴れぬ奴だが 八蔵ヘイ実は当千山の芝右衛門様にお目通りを願ひたく罷越[まかりこ]しました 黙れ、甚[はなは]だ汝[おの]れ馴々しいところの言[くち]を発[き]く奴である、各々御油断あるな、此奴[こやつ]を召捕[めしと]って取調べたら相分るであらう」 と皆々棒をもって飛び掛って参りますから、八蔵も驚きました 八蔵これは怪[け]しからぬことであります、徳島から用事があって私は参ったのでございます、でやァ何んでございますか、貴下方[あなたがた]は私を怪しい者と思召かのですか 黙れッ、貴様のやうな奴は見たことはないから怪しいと申して居るのだ、通れ通れ 八蔵アァ左様でございますか、ヤッ委細承知いたしました コリャコリャ何んだ、何んで門内[うちら]へ這入[はい] 八蔵それでも貴方通れと仰しゃいますから ヤァ甚だ怪しい奴だ、徳島から全体何用あって参った 八蔵ハイ御不審は御尤[ごもっと]もですが、私は穴観音の城主六右衛門の家臣でございまして、大将六右衛門公から当芝右衛門様への密書[みっしょ]を持って参りましたもので、決して怪しい者ではございません ナニ六右衛門公から密書を持って参った、ムムゥそれは容易ならぬことである、そんなら御身は穴観音の六右衛門公の家来で在らしゃっるか 八蔵左様でございます 割符[わりふ]を持たっしゃるか、 八蔵ハイ」 中々この千山の芝右衛門と云ふ奴も如才はない、この己[おの]れの棲所[すまゐ]へ入れようと云ふには割符と云ふものがございますから、予[かね]てこれを穴観音の六右衛門にも渡してございますものと見え、これを飛田の八蔵が出して示しましたところから、 [しか]らば通らっしゃい

▼割符…通行証、通行手形。半分にわったものを双方が持っていて、それをぴったりあわせておたがいの証明にしたりします。

前後[あとさき]に二疋[ひき]の小狸が付従[つきしたが]ひまして、さて玄関前へ参りますると、此事を門番から申入れた、玄関番は早くも奥へ参りまして、此のことを芝右衛門に申入れました、芝右衛門はこれを承りますると 芝右ナニ穴観音の六右衛門からの使者[つかひ]、ムムゥ……如何なる用向きであるか、何は兎[と]もあれ其者[そのもの]を此処[これ]へ通せ」 そこで案内[あない]に伴[つ]れられまして飛田の八蔵通って見ると、正面一段高い所に[しとね]を敷き其の上に、乃公[おれ]こそは淡州洲本千山の主[あるじ]であると言はんばかりで座って居る、側[そば]には数多[あまた]の眷属が控へて居ります、飛田の八蔵は 「これは御大将、御目通[おめどほり]仰付けられ有難き仕合[しあはせ]に存じ奉[たてまつ]ります、私ことは穴観音六右衛門の家来飛田の八蔵と申す者にございます 芝右してその八蔵と云へる者が、何用あって罷越[まかりこ]した 八蔵エー恐れながら主人六右衛門より火急の御用でございます、委細はこれなる書状に、何卒[なにとぞ]御披見の上御返事を給[たまは]り度[た]く願ひ奉る」 と彼[か]の六右衛門よりの密書を差出し、遥[はるか]に退[すさ]って頭[かしら]を低[さ]げました、取次の小狸これを芝右衛門の側へ持って参った、芝右衛門は押披[おしひら]いて少時[しばらく]の間この密書を打眺めて居りましたが 芝右ムムゥ是れはどうも怪しからぬことである」 と芝右衛門ね驚きましたがその文面には

『這回[このたび]日開野[ひがいの]金長と云へる奴謀叛の旗揚[はたあげ]を為[な]し、我を滅[ほろぼ]さんと計り、己[おの]れ大胆にも四国の総大将となって国の政治を自由にせんとす、之[こ]れに田の浦太左衛門を首[はじ]め彼の言葉に欺[あざむ]かれ南方[みなみがた]の狸族[りぞく]は皆金長に味方を為[な]し、此程[このほど]津田浦へ押出し一戦に及びし処、我が片腕と恃[たの]む川島作右衛門、八島の八兵衛、多度津の役右衛門を首[はじ]めとして何[いづ]れも戦死に及び、今は腹臣の川島九右衛門一頭[ぴき]のみ、是れとても身体数ヶ所の手傷を蒙[かうむ]り養生中なり、我れは穴観音の城内に今は篭城[ろうじゃう]いたし居る次第、何卒[なにとぞ]芝右衛門殿には此際一臂[いっぴ]の力を添へ呉らるる様、若[も]し幸[さいはひ]御承引ならば此[この]使ひ飛田の八蔵に対して直々[ぢきぢき]に御伝言下され度[た]く、願はくば御地の同勢を以て目下津田山に砦[とりで]を築いて立篭る金長の陣中へ夜撃[ようち]を御掛け下されたく左[さ]ある時には我々城内より撃って出で双方より挟撃ちに致さば金長を生捕ること、袋の裡[うち]の物を探るより易[やす]し、希[こひねがは]くば加勢の儀御承諾下され度[たく]、此段[このだん]御願申上候、尚又戦争[いくさ]の次第は当使ひの者より直々に御聴[おきき]取り下されたく、余は拝願の上委細申入れべく候、 
                             千山芝右衛門殿、
                                穴観音六右衛門』

と認[したた]めてございます、芝右衛門は之[こ]れを見て大きに驚きましたが 芝右ムムゥ、実に容易ならざる騒動、ヤッ六右衛門殿の御胸中察し入[い]る、加勢の儀は如何にも承知いたした、日開野金長と云へる奴は不埒[ふらち]極まるところの奴である、多寡の知れたる無官の藪狸[やぶだぬき]、己[おの]れが身の程も知らずいたして、四国の総大将たる六右衛門殿に抵抗すると云ふのは実に身の程を知らざる所の小狸奴[め]、コリャ八蔵とやら 八蔵ハッ 芝右汝立帰らば六右衛門殿に我れ承知の旨を申入れ置け、去りながら此国[このくに]も永年太平打続いたことであるから、それが為[た]めに我が部下の者も武道に迂[うと]く、殊に此節[このせつ]は諸方へ向けて修行に参って居る、今この[やかた]には甚だ狸族は少ない、依って拙者[それがし]は一両日のうちに、穴観音へ乗込んで六右衛門殿に面会いたし、其上[そのうへ]打合せを致さん、尤[もっと]も部下の者は回章を廻して至急に集めることに致し、其の上にて金長と云へる奴の篭[こも]り居る津田山の砦を打潰[ぶっつぶ]して呉れんと相心得る、我が部下を集める間四五日は掛る、何うもそれでは大きに待遠[まちどほ]なことであるから、拙者[それがし]は明後日一応忍んで参らう 八蔵ハッ有難き仕合[しあはせ]に存じます、何分宜敷く願ひ奉ります 芝右それでは返事を認[したた]めて遣[つかは]すから、暫時[しばらく]待て

▼褥…しきもの。絹や皮など立派なものでつくられる。
▼取次…来客と殿様の間でお返事や物のやりとりなどを実際におこなう役目のもの。
▼御承引…おうけくださる。
▼修行に参って居る…淡路の狸たちも一定水準以上の化け術をおさめるという者たちは各地へ修行に出て勉強をして帰って来るということが行われているという設定になっています。
▼館…芝右衛門の城。
▼回章…回状。

そこで手早く祐筆[いうひつ]に申付けまして、其の返書を認[したた]めさせましたることでございます 芝右八蔵とやら、大儀であるが、是れに委細は認[したた]めてある、多分明後日は此方[このほう][か]の地へ到着いたすぞ 八蔵有難うございます、然[しか]らば私是れよりお暇[いとま]を戴きまして、立帰って主君へ其由[そのよし]を申入れますることでございます、就きましては念の為[た]めでございますから申上げまするが…… 芝右アァ何んぢゃ 八蔵エー近頃日開野の奴等[やつら]でございます、種々様々に姿を変へまして穴観音の大手搦手を付狙[つけねら]ひまするところから、誠に城内は用心厳しく、縦[たと]ひ味方の者にしろ、穴観音の城内へ入らんとする時は、御覧下さい、これでございます、是れは大将六右衛門公から戴いて参りましたが、この印鑑がございませんと、門の通行は難かしいのでございます、これを尊公[あなた]へお上げ申して置きます、何卒[どうぞ]お出[い]での際は、是れなる印鑑を門番にお示しの上御入城の程を願ひまする 芝右ヤッ万事抜目なき六右衛門殿、大きに芝右衛門感心いたす、立帰って六右衛門殿に宜しく申して呉れよ、遠路のところ大儀である 八蔵有難うございます、左様なれば私はこれにてお暇[いとま]を頂戴仕[つかまつ]りまする と、茲[ここ]で飛田の八蔵は千山芝右衛門の館を飛出し、浜辺の方へ遣[や]って参りますと

▼祐筆…書状の文字を代筆する役目のもの。

オイ権右衛門[ごんゑもん]やサァサァ風が何[ど]うやら斯[か]う直って来たぞ、今のうちに船を出して了[しま]はぬと、又今晩もこの港に碇泊[とま]るやうなことになる、それでは大きに困るぢゃ [そ]れぢゃァ老爺[おやぢ]さん、是れから船を出帆[うけ]さっしゃるのか、何[ど]うぞ帰ったら皆さんに宜しく云って置いて下さい」 船頭は浜辺の茶店の者に何か話をいたして居りましたが、是れも徳島から参った船と見えまして、今この洲本[すもと]の港を出ようと準備[ようい]に及んで居ります、その混雑に紛[まぎ]れまして八蔵は姿を隠して好い塩梅[あんばい]に船底へ乗り込んで蹲踞[しゃが]んで居ります、そのうちにこの船は出帆[しゅっぱん]いたしましたが、其夜[そのよ]の彼是[かれこ]れモゥ子[ここのつ]でもあらうと云ふ時分でございました、船は首尾よく津田浦の浜辺へ到着いたしました、ヤレ嬉しやと陸上[うへ]へ飛上りまして、彼の手紙は状箱に納めこれを携へまして、足の達者な飛田の八蔵、ドシドシ駈け出しましたが、此奴[こやつ]が穴観音の城内へその夜のうちに持って帰ったら別に間違ひはないのでございますが、到頭此奴[こいつ]は途中でこの手紙を他に奪はれるやうなことが出来ました、

▼子刻…午前1時ころ。
▼彼の手紙…芝右衛門からの返事の密書。
▼状箱…書状をおさめるための木製の手箱。

それは何[ど]うかと云ふと、恰度[ちゃうど]其の夜彼[か]の金長と約束をいたして其身は密かに姿を変へて乗出した庚申の新八にございます、何分白昼は他目[ひとめ]に立ちます、此奴等[こやつら]のことでありますから、夜分は恰[まる]で昼のやうな気持がいたし、マァ一寸[ちょっと]旅商者[たびあきうど]と云ふやうな風体でございまして、それで一寸[ちょっ]といたした道中差[どうちうざし]を手挟[たばさ]み、足拵[あしごしら]へも厳重にいたして、振分[ふりわけ]の荷物を引担[ひっかつ]ぎ遣[や]って参ったのは、津田穴観音より少し離れてございますが、彼[か]の八幡[はちまん]の森、ドシドシ急いで参りますと、路[みち]の傍[かたはら]に一寸[ちょっ]といたした一軒の茶店があります、年齢六十格好の老爺[おやぢ]が釜の下を頻りに焚[た]き付けて居ります、新八は余程空腹になりましてホッと致したところから、是れ幸[さいは]ひと茶店へ這入[はい]りまして 新八老爺[とっ]さん御免よ、ヤレヤレ疲労[くたびれ]た、好いところへお前が斯うして店を出して居て呉れるので何より結構、大変に腹を空[へら]して居るが、何んぞ食べる物はないかえ」 云ひながら床几[しゃうぎ]の上に腰打掛けた、老爺[おやぢ]はそれへ出迎へまして 老爺これはこれはお客様でございますか、マァお茶を一つお上りなさいませ」 人間ながら夜中[やちう]此様[こん]な処に店を開いて居さうなことはありませんが、是等[これら]狸中間[たぬきなかま]の方でございますから、平気なもので新八は茶を飲んで 新八アーこれは旨い、老爺[とっ]さん何か食べる物はないかな 老爺左様[さう]でございますな、マァ此様[このやう]な田舎でございますから、別段これと云ふ物はございませんが、第一は在下[ところ]の名物でございまして油揚鮓[あぶらげずし]、赤飯[こわめし]、餡餅[あんころ]のやうなものもございます 新八ヤッ結構々々、いづれも皆好物ぢゃ、一寸[ちょっ]と油揚鮓を出して呉れんか  老爺ハイ畏[かしこま]りましてございます、 やがて油揚鮓を其処[そいつ]へ差出し、茶を汲[く]んで参りました

▼道中差…護身用の短い脇差。

新八ナァ老爺[とっ]さん、其処に吊ってある魚は何んぢゃな 老爺ヘェこれは蛸[たこ]の足でございます 新八アァ左様[さう]か、お酒があるかえ 老爺ヘェお酒もございます  新八それではその足を下物[さかな]にして一杯飲みたいが、早幕[はやまく]で一寸[ちょっ]と一本燗[つ]けて呉れんか 老爺ヤッ畏[かしこま]りましてございます」 老爺[おやぢ]は支度を致しまして、やうやう出来ましたものと見え持って参りました 老爺サァお客さん、お召上り下さいますやう 新八ヤッこれは大きに結構々々腹が空[へ]ったとして見ると中々歩けるものぢゃァない、老爺[とっ]さんお前は何時[いつ]も此処に店を出して居なさるのか 老爺ヘェヘエ毎夜この処に店を出して居りますのでございます 新八[も]う何時[なんどき]だな 老爺ハイ最[も]寅刻[ななつ]に間もあるまいと心得て居ります、何分旦那様、私共狸同士のことでございますから、夜が明けましたら店を閉[しま]って、昼の中[うち]は穴の中へ這入[はい]って居ります、夜分[やぶん]は斯うやってホンの小遣[こづかひ][どり]に儲けさして貰ふのでございます 新八[い]い酒だなお前[めへ]の方の酒は、モウ一本燗[つ]けて呉れんか 老爺承知いたしましてございます 新八お前は斯うやって独身[ひとり]暮しをして居るのか 老爺ハイ左様[さう]でございます 新八成程、ヤッ人間なれば今頃夜中の夢で寝て居るであらう、併[しか]四足[よつあし]の悲しさには、昼間[ひる]日光への恐れもあり、夜分斯うやって歩かないと我々は道中が出来ぬ、そこで矢張り我々の仲間は斯うやって茶店の一つも出してゐて呉れると誠に力になると云ふもの、お前方の店がなければ私共は中々道中は出来ぬのぢゃ 老爺イヤモゥ其の様にお讃[ほ]め下さいますと恐入ります、是れも尚旦[やっぱり]渡世[よわたり]でございまして、斯うしてマァ茶店を出して居りますのでございます 新八成程、何[ど]うだ老爺[とっ]さん能[よ]く売れるかな 老爺ヤァモゥ一向明きません、それもツヒ此の間までは、此辺[このへん]は戦争[いくさ]最中でございました、中々店どころの騒ぎではありませなんだ、大きに私共も困って居りました 新八ムムゥそれは何[ど]うもえらいことだったな、何んと云ふ狸が戦争[いくさ]をしたのか、但しは人間でもやったのかえ 老爺中々旦那、然[さ]うぢゃァないのでございます、此の向ふの穴観音の城主六右衛門狸是れが大将となりまして甚[ゑら]い戦争[いくさ]が出来ました 新八オヤオヤ夫[そ]れはえらいことであったな、さうして敵手[あひて]は誰だえ

▼寅刻…午前4時ころ。
▼四足…畜生。
▼日光への恐れ…夜行性だから。
▼茶店…狸たちなどが仲間のために茶店などを出してるというのはおもしろポイントの設定である。――ただ内容としては、昼と夜の逆転以外は一般的な人間世界での道中の茶店に対することばの反映がほとんどである。

老爺ヘエヘエその敵手[あひて]と申しますのは、日開野の金長と云ふ却々[なかなか]是れも豪[えら]いお方でございましてな 新八ムムゥその金長と六右衛門と云ふ大将との戦争[たたかひ]、それは何うも甚[えら]い事だった、彼[あ]の六右衛門と云ふ者はこの四国の総大将なり、そこで又敵手[あひて]の金長と云ふ者は、無官でこさあれ格別[よほど][よ]く出来ると云ふことぢゃ 老爺左様でございます、何んでも昨年から学問の修行に来てお在[い]ででございました、確[たしか]に正一位の位階[くらゐ]は授かることになってございました、又屹度[きっと][そ]れだけの価値[ねうち]のあるお方でございまする、それを六右衛門と云ふ御大将が、自分の味方に付けようと遊ばしたのでございます、それが思ふやうに行かぬと云ふところから遂にその戦争[たたかひ]と成りましたさうでございます、夫[そ]れが為に私等[わたしら]のやうな籔狸[やぶだぬき]でも、一寸[ちょっ]と穴の中に潜伏[しゃがん]で居なければならぬやうなことが出来ましたので、誠に困ったことでございます」 と老爺[おやぢ]水鼻汁[みづばな]を垂らしながら、床几の端[はた]に腰を掛けまして、この新八と話をして居りましたが

▼水鼻汁…はなみず。みずっぱな。

老爺それは然[さ]うと旦那様にお尋ねいたしますが、私は旦那様を最前から見たやうなお顔だと心得て居りますが…… 新八成程、乃公[おれ]も何[ど]うやら見たやうに思ふが、何[ど]うも思ひ出せぬ 老爺[も]しや旦那様は、間違ったら御免を願ひますが、彼[あ]の庚申の新八様と仰しゃるお方ではございませんか」 云はれて此方[こなた]はハッと驚いた 新八如何にも乃公[おれ]は庚申の新八だが、然[さ]う云ふお前は誰であったっけな 老爺これはこれは矢張[やっぱ]り私の思った通り、新八の旦那様でございましたか、誠にお久しうございまする、お見忘れでございますか、私は一昨年娘の千鳥[ちどり]を伴[つ]れまして徳島の城下を見物に参り、彼[か]の勢見山[せみやま]から眉山[びざん]の方へ参りまして、すでに徳島の城下へ出ようと致しまして、彼[あ]金毘羅様[こんぴらさま]のお社[やしろ]のところまで参りますると、図らず悪狸[わるだぬき]雲助[くもすけ]の為[た]めに取巻かれまして、娘が手込みにされんとするところを、旦那様にお助けに預りました、況[ま]して其の夜は庚申谷[かうしんだに]の旦那の古巣に一晩御厄介に相成りましたる、私はこの八幡[はちまん]の森に棲息[すまゐ]をします、権右衛門狸と申す者でございまする 新八ホンにそれを聞いて思ひ出した、さては老爺[とっ]さん、お前はこの八幡の権右衛門爺さんであったか、これは何[ど]うも久し振りで面会[あっ]」 と云ふところから、此の権右衛門と云ふ老狸[おやぢ]の娘を一つ利用して、茲[ここ]に庚申の新八が首尾克[よ]く穴観音の城内へ入込[いりこ]むと云ふ一段、チョッと一息[ひといき]入れまして次回[つぎ]に申上げます。

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▼金毘羅様…金毘羅大権現。
▼雲助…駕篭かきなどをしてる者のうちの、特に悪さをするもの。
▼手込み…てごめ。
校註●莱莉垣桜文(2018) こっとんきゃんでい