津田浦大決戦(つだうらだいけっせん)第九回

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第九回

さて此の時庚申の新八も、この茶店の老狸[おやぢ]が先年助けました八幡[はちまん]の森に棲む権右衛門とは夢にも知れません、意外なところで不思議の対面、しかし新八は大きに悦[よろこ]びました 新八何より老狸[とっ]さんお前は壮健[たっしゃ]で結構、それぢゃァ一寸[ちょっと]尋ねるがな、彼[あ]の時お前が伴[つ]れて居たお前の娘は何[ど]うしたな 老狸ハイハイ、エー千鳥[ちどり]でございますか、彼女[あれ]は只今奉公いたして居ります、実に娘も毎々旦那様のことをお噂申して居りますのでございます、彼[あ]の時の御恩報じを致したい、何[ど]うぞ一遍お礼に上[あが]りたいと、旦夕[あけくれ]父子[おやこ]の者は心得て居りますして、貴方様に於きましては斯様[かやう]なお姿を遊ばして、何処[いづれ]へお越しに相成るのでございますか 新八乃公[おれ]か乃公[おれ]は少々用があって穴観音の方へ行くのだが、矢張り何かな老狸[とっ]さん、此処も六右衛門の領分地になって居るのか 権右左様でございます、すべてこの辺は六右衛門方様の御領分地でございます、丁度娘も昨年の秋の頃ほひから、無理に方向に取られましたのでございます 新八ナニッ無理に奉公に取られたハテナ夫[そ]れは何う云ふ事情[わけ] 

権右ハイ、お話し申すも老狸[としより]の要らぬ愚痴[ぐち]かは知りませんが、私は決して忘れはいたしません、昨年の秋のことでございました、穴観音の殿様が此の辺の御領地を御巡見と云ふのでございまして、俄[にはか]にお触[ふ]れが廻りましたので、在下[ところ]の者は皆その道筋に出張りまして、その行列を拝むと云ふやうな騒ぎ、ところがこの向[むか]ふの境内[けいだい]でチョッとお小休[こやす]みと云ふことに相成ったのでございます、六右衛門様が此処[これ]までお進みに相成りましたところが、何[ど]うやら俄[にはか]の御病気と云ふので、それが腹痛でございますから、穴観音の城内へお帰館[かへり]と云ふ訳にも参りませず、それゆゑ当所にお泊りと云ふことになりました、ところがこの八幡[はちまん]の森に棲息[すまゐ]する由兵衛[よしべゑ]狸の家は広うもございますが、生憎[あひにく]その日は由兵衛は病気でございまして棲所[すみか]も余程取乱して居ります、一寸[ちょっと]この辺で適当なお宿を申しげますところもないのでございます、それゆゑ私の所へお宿泊[とまり]なさると云ふことを申して参りました、私も一時は驚きましたが、何分このやうな陋苦[むさくる]しいところでございますがお厭[いと]ひなくばお泊り下さいませと、そこで一夜のお宿をいたすことになりました、お側[そば]の御家来衆に於きましては、拠[よんどこ]ろなく此の辺に野宿を遊ばすと云ふやうなことで、イヤモゥそれが為[た]めに村では大騒ぎをいたしました、娘はその時殿様のお側[そば]へお茶の給仕に差出しましたのでございます、ところが殿様は千鳥を御覧遊ばして、余程思召[おぼしめ]しに適[かな]ひましたものでございますか、何[ど]うぞこの娘を明日[みゃうにち]から穴観音の城内へ奉公に差出すやうにとの仰せでございます、娘の為[た]めには出世かは存じませんが、私もこの処で長らく親一人子一人で暮して来たのでございます、往[ゆ]く往[ゆ]くは娘に然[しか]るべき養子を貰って初孫[うひまご]の顔を見て老[おひ]を養[やしな]はうと楽しんで居りましたのでございます、家内は先年死亡[なくな]くなりまして、只娘一頭[ぴき]を頼りとして居ります、それでございますから、その娘を御奉公に差上げましては、宿にはこの老爺[おやぢ]ばかりとなりますから、マァ殿様へそれとはなく色々とお断りを申したのでございますが、中々殿様はお聴許[ききいれ]がない、不承知を申上げますと私共はこの地に棲息[すまゐ]をすることが出来ません、この年齢[とし]になりましてこの棲所[すまゐ]を取上げられるやうなことになっては実に路頭に迷ふやうなことでございますから、拠[よんどこ]ろなく泣きの涙で娘と別れまして、遂に千鳥は穴観音の城内へは奉公に差出すと云ふことに相成りましたのでございます、ところが御城内に於きましては余程殿様は御意[ぎょい]に適[かな]ひましたものと見えまして、千鳥を御寵愛遊ばして中々急にお下げもございません、

▼思召しに適ひ…お目にとまる、お気に入りになる。
▼養子…権右衛門から見ての呼び方であって、千鳥から見ればおむこさん狸。
▼お下げ…宿さがり。奉公先から実家へ行くこと、戻ること。

[しか]るに六右衛門様の奥方と云ふのは楓の前[かへでのまへ]さまと仰せられまして、何[な]んでもこれは淡路の方からお輿入[こしいれ]に相成って居ると云ふことでございます、これが却々[なかなか]嫉妬深いのでございまして、娘は折々殿様へ向けましてお暇[いとま]を願ひますると云へども、中々殿様はお許しはございません、それゆゑ娘はお部屋同様の身分とは云へど、実に奥方に気兼ねをいたしまして、辛い思ひで奉公いたして居るのでございます、依って何[ど]うぞ致してその娘を返して戴く訳にはならぬものかと、一日として思はぬことはございません、却[かへ]って結構な身の上が私の身に取って見ますと誠に辛い思ひを致しますのでございます、何楽しみに日々この処で茶店を出して居りますか、ホンに私の今日[こんにち]食ふだけのことを致して居るのでございます、御推量遊ばして下さいますやう」 と水鼻汁[みづっぱな]を垂[たら]しながら老[おい]の愚痴を翻[こぼ]して物語りました、茶店の床几[しゃうぎ]の端に腰打掛けて、一口飲みながら聞いて居りました庚申の新八 「ムムゥ、それぢゃァ老狸[とっ]さん何かえ、六右衛門は好い年輩[とし]を仕やァがって、お前の娘を無理に妾[めかけ][やっぱ]り>今でもお前方を捉へて苦しめるのか、考へて見れば重々不埒[ふらち]の奴だ、ハテ何うしたら宜[よか]らう」 と少時[しばらく]考へて居りましたが、忽[たちま]ち何か思出しましたか 新八ナァ老狸[とっ]さん、乃公[おれ]はお前に折入って頼みたいことがあるが、何[ど]うぢゃ乃公[おれ]の頼みを諾[き]いて呉れぬか 権右ヘェヘェ、イヤモゥ大恩を蒙[かうむ]りました旦那様のことでございますから、我々の身に叶ひましたことなら何なりとも承りますが、併[しか]しモウ夜の明方[あけがた]に間もございません、又夜が明けましたら一日は穴の中に引込[すっこ]んで居ります、何[ど]うぞ明日[みゃうにち]は一日私の許[もと]らゆるゆるお泊り遊ばして下さいますやう願ひます 新八左様かそれぢゃァ言葉に甘へるやうであるが、老狸[とっ]さんお前の棲居[すみか]へ行って一日厄介にならう、その上何彼[なにか]の話はゆるゆる仕よう、アァ気の弛[ゆる]みか乃公[おれ]は大変眠くなって来た」 その侭[まま]床几の端[はな]にコロリと横になって手枕[てまくら]をする容子[ようす]でございますから 権右アァモウシ旦那様、モゥ店も徐々[そろそろ]片付ける時分でございます、幸[さいは]ひ彼[あ]の奥の一室[ひとま]、彼[あ]れへお這入[はい]り遊ばして少時[しばらく]お寝[やす]みに相成りますやう 新八左様か、それぢゃァ然[さ]うさして貰はう」 とそこで新八は草鞋[わらじ]を脱ぎ捨てまして、茶店の奥に一寸[ちょっと]した室[ま]がありますから、それへ参って横になりました、

▼楓の前…淡路の芝右衛門の妹にあたる狸。六右衛門のもとへ後妻としてやって来た。
▼お部屋…おへやさま。側室。

コチラは権右衛門の老狸[おやぢ]でございます、モウ払暁[あけがた]に間もない客も大抵これまでと思ひまして、其辺等[そこら]を取片付けて居りますところへ、津田の浜手の方から足拵[あしごしら]へも厳重に三度飛脚[さんどびきゃく]と云ふやうな風体でございまして、一つの状箱を己[おの]れが刀の先に結び付けまして、ドシドシ其処[それ]へ駈け付けて参りまする一頭[ぴき]の狸、いま権右衛門老狸[ぢぢい]の茶店の前まで来ると オィ老狸[とっ]さんや宅[うち]に居るかな、ヤレヤレ疲労[くたぶれ]た疲労[くたぶれ]」 と言ひながらも茶店の床几の端[はな]に腰うち掛けました、権右衛門はこれを眺めまして 権右これはこれは、貴方は飛田[とんだ]の八蔵様でございますか、何処[どちら]へお出でになりましたのでございます 八蔵乃公[おれ]か、乃公[おれ]はチョッと御主君のお使ひで淡路[あはじ]まで飛んで行って、やうやう今し方[がた]船が着いて津田の浜から駈け付け、是れから穴観音へ帰らうと云ふところだが、老狸さん[とっ]さん何んぞ食ふ物はないかえ 権右左様でございます、別段これて云ってございませんが下物[さかな]には蛸[たこ]の足と、毎時[いつも]の油揚鮓[あぶらげずし]に餡餅[あんころ]と云ふやうなものでこざいます 八蔵ヤッひれは結構々々、悉[ことごと]く乃公[おいら]が好物ばかりだ、それぢゃァ油揚鮓を少し出して呉れ、そして一本燗[つ]けて貰ひたい 権右承知いたしましてございます、明方に間もないと思ひ、今店を閉[しま]はうと心得て居りましたのでございます、それでは差上げますでございます、少時[しばらく]お待ち遊ばして下さいますやう」 と、やうやう有合[ありあは]せの油揚鮓、それを皿に盛りまして、酒を一本添へて差出ました、

▼三度飛脚…飛脚のなかでも特急便な飛脚。江戸と上方のあいだを月に三度いったりきたりしてたことからの称。
▼状箱…書状をおさめる木製の箱。

こちらは床几の端にて飛田の八蔵、手酌[てじゃく]でグイグイ飲み始めました 八蔵アァ何[ど]うも結構だな、アァ甘[うま]い甘[うま]い何より以てこの油揚鮓は乃公[おれ]の好物だ、モゥ老狸[とっ]さん店を閉[しま]ふのかえ 権右ハイモゥ程なり片付けて穴へ立帰らうと心得て居りますのでございます、何うぞ貴方済みみせんけれどもお早く遊ばして下さいますやう 八蔵マァ可[い]いや、モゥ一本燗[つ]けて呉れ、格別[よっぽど]腹が空[へ]って居るから、アァ甘[うま]い甘[うま] 権右時に八蔵さん一寸[ちょっと]貴方にお尋ね申します 八蔵何んぢゃ 権右エーこの間だから根っから存じませんでございましたが、此辺に大変な戦争[いくさ]がございましたさうで、モゥ彼[あ]の戦争[いくさ]は終ひでございますか 八蔵中々もって終局[しまひ]と云ふところへは行かんのだ、今尚[いまだ]に敵将の金長と云ふ奴は彼[あ]の津田山の元御主君の家来であった鹿の子[かのこ]の陣所に備へを立って居て、加之[おまけ]に乃公[おら]が御主君の居城を付狙って居やァがる、生意気な奴もあればあるもので、今に彼奴等[やつら]に屹度[きっと]泣面[ほえづら]をかかして遣[や]るんだ 権右左様でございますか、それでは戦争[いくさ]は尚[ま]だあるのでございますか、アァアァそれは困ったことでございますな、イヤモゥ私のやうな老狸[おやぢ]は何処ぞへ立退[たちの]かんければなりますまい 八蔵イヤイヤそれは大丈夫だ、心配しなさるな、殊にお前の娘の千鳥さんは、殿様の御意に叶って今ではお部屋様と云ふ結構な身の上だ、お前は現在その親ぢゃァないか、だから万一[もし]危険[あぶな]いと云ふことになったら、早速御城内へ引入れて下さる、併[しか]し今度はそんなことを仕ないでも大丈夫だ、乃公[おれ]の此度の使ひと云ふのは、淡路の千山の芝右衛門の方へ態々[わざわざ]早足でやって行き、御加勢をお願ひ申したんだ、何がさて金長と云ふ奴は大変狸仲間では評判[うけ]の好い奴で、南方の奴等[やつら]は多く味方を仕やァがったから、小勢といへど時々に可怪[おかし]な計略を用ゐやァがる、それだに依って今度は芝右衛門様をお願ひ申して一時に挟撃ちにして遣[や]らうと云ふ計略なんだ 権右ヘェー芝右衛門様と云ふのはそんなに又戦争[いくさ]はお上手なお方でございますか 八蔵知れたことを云へ、その芝右衛門と云ふ方は今淡路を領分として在らっしゃって、殊に今の殿様の奥方のお兄様[あにさま]だそれだに依って縁辺[えんぺん]の続きをもってお願ひ申したところが、それでは乃公[おれ]は直様[すぐさま]眷属共を伴[つ]れて加勢に行って遣ると云ふことになった、この淡路の手合は余程[よっぽど]沢山ある、それを一団[ひとつ]に纏めて彼の津田の浜辺へ対して今に押寄せて来る、すると直[すぐ]にその同勢は津田山の鹿の子の家内小鹿の子と云へる奴が金長方を案内して其処に立篭って居る、その日開野方に対して千山の芝右衛門様が打ち向ひ、戦争[たたかひ]と云ふ最中に穴観音の城内より同勢が繰出して双方から挟撃ちだ、然[さ]うなると味方の同勢は沢山[たくさん]、敵手[あひて]は多寡の知れたる小勢、十分彼を挟撃ちにして討ち取らうと云ふ、而[し]かもその御返事を頂て来たのだ、御大将にお目に懸けたら嘸[さ]ぞかしお悦[よろこ]びなさるであらう、何んと巧い計略ではないか」 と酒の言はせる自慢の話し、自[おの]づと声が高くなりました奴を一室[ひとま]のうちで横になってウツウツして居りました庚申の新八は、不図これを聞き

▼穴…巣穴。
▼それだに依って…それであるから。
▼縁辺の続き…姻戚関係。
▼ウツウツして…うつらうつらして。

ハテナ、そては彼奴[あやつ]は穴観音の城内より千山の芝右衛門の許[もと]へ参った使ひの飛脚であるか」 と尚も容子[ようす]を窺うて居るうちに、何にも知らぬ権右衛門老狸[おやぢ]は 権右マァマァそれは何より結構でございます、私などは根が百姓のことでございますから、戦争[いくさ]のことは毫[すこ]しも存じません、何方[どっち]でも宜しい早く勝負が付きまして、終局[おさまる]のを待って居りまするのでございます、何[ど]うぞ八蔵さん、貴方御城内へお帰りになりましたら、娘の千鳥に老父[おやぢ]は非常に心配をして居ると云ふことを御伝言の程を願ひます 八蔵諾々[よしよし]乃公[おれ]が直[すぐ]に是れから城内へ帰ったら其のことを言って置かう、併[しか]しモゥ一本燗[つ]けて呉れねえか、大変に甘味[うま] 権右モゥ店を閉[しま]ひませうと思ひますので 八蔵マァ好[い]い、そんなことを云はんと、これで疲労[くたぶれ]が休まるのだ」 と又一本燗[つ]けさせ手酌で飲み始めました、老狸[おやぢ]は裏手へ出まして片付[しまひ]ごとを致して居ります、ところが八蔵は酒の酔[ゑひ]が廻って来ると好い心持で眠くなって来た、夜の引明け前、その侭[まま]居眠[ゐねむり]を始め出しましたが、何時[いつ]の程にかバッタリ其の処へ盃[さかづき]を落してコロリと床几の上に横になりまして、忽[たちま]ちグゥグゥ鼾[いびき]を発[か]き寝込んで了[しま]ふ容子[ようす]でございます、この体を一室[ひとま]の裡[うち]から眺めた新八は、いまこの暇にソッと出ました、彼の飛田の八蔵と云へる奴が側に置いたる刀の先に括[くく]ってある状箱を取り、手疾[てばや]く紐[ひも]を解[ほど]いて中より取出した一通は、これぞ千山芝右衛門が六右衛門の許[もと]へ送る返書[てがみ]でございますから、ニッコリ微笑[わら]って懐中いたした、何か代りの物をと思ひましたが、手紙を書いて居る暇はない、そこで庭に脱ぎ棄ててございます草履[ぞうり]の片足を取上げまして、ソッと状箱の裡[うち]に入れ以前[もと]の通りに刀の先に括[くく]り付けまして、ソッとその場を立去って了[しま]ったことは、八蔵は夢にも知らずグゥグゥ高鼾[たかいびき]で寝て居りまする、そのうちに庚申の新八は奥の一室[ひとま]に這入[はい]って、何[ど]うなるであらうと容子[ようす]を窺うて居りますると、老狸[おやぢ]はやうやう店へ出て参りました

▼根が百姓…狸の間にも武家と百姓との違いがあるのかどうかは不詳。

権右アァコレ飛田の八蔵さん、貴方そんな処へ寝られては困るぢゃございませんか、今に夜が明けますから店を閉[しま]はんければなりません、起きて下さい、モシ八蔵さん 八蔵アァアー恐[おっそ]ろしい好い心持だった、何んだ夜が明ける、オヤオヤそれは大変だ、人間が往来をすれば飛んでもねえ処で見付けられて酷い目に遭はされる、殊にこの辺は犬が多いからね、ぢゃァボチボチと是れから帰らう、サァ老狸[とっ]さんこれを何[ど]うぞ取って置いて呉んな」 と懐中から手当[てあたり]の金子[きんす]を取出しまして権右衛門の前に投げ出しました 権右ヤッ、此様[こんな]に頂きましてはお割銭[つり]を沢山差上げんければなりません 八蔵ヤッ預けて置かう、又次来る時に差引いて貰ふよ、夫[そ]れぢゃァ老狸[とっ]さんお邪魔しました、左様なら 権右有難うございます、お静かに行[い]らっしゃい」 飛田の八蔵と云ふ頓狂者は肝心の御用状を摺り変へられたとは夢にも知らず、其奴[そいつ]を引担[ひっかつ]ぎ穴観音の方を望んでドシドシ駈け出して了[しま]ひました 

▼犬…狸たちは犬がとても苦手です。

権右ヤレヤレ、何時[いつ]も尻の長い男だ、今日は夜明けと聞いて驚いて周章[あはて]て帰って了[しま]った」 と独言[ひとりごと]を云ひながら其辺[そこら]を片付けましたが、奥の一室[ひとま]を覗[のぞ]き、 権右旦那様、貴方先刻[さきほど]から寝[やす]んで在らっしゃったか 新八アァ老狸[とっ]さん、好い心持で一寝入りやってのけた、モゥ夜明に間もないな 権右ハイ、何うぞ私と一緒にお出[い]で下さいますよう 新八[さ]うか、それぢゃァ老狸[とっ]さん言葉に甘へて厄介にならう」 と戸外[おもて]へ出まする、此方[こちら]は権右衛門茶店を片付け葭簀[よしず]を立廻しまして彼の庚申の新八と共に己[おのれ]が棲家[すみか]と致しまする穴の中へ伴[ともな]ひました、其の中[うち]に忽[たちま]ち撞[つ]き出す明けの鐘[かね]、やうやう夜が明け渡りましたる事でございます、さて其の日の中[うち]に彼[か]の権右衛門の棲息[すまゐ]する穴の内に在って、新八は何事か相談を致しましたが、全く此の老狸[おやぢ]に頼み込んだるものと見えます、

▼葭簀…葭をあんで作ったもの。日よけとして立てかけたりしてます。
▼明けの鐘…夜明けをつげる鐘。

依って其の翌日でございました、此の権右衛門と云ふ老狸[おやぢ]から、穴観音にありまする娘の千鳥の方へ書面を送りました、此れが千鳥の手に這入[はい]りますと、父が此度[このたび]急病だからお前何うぞ仕て、主公様[とのさま]に一日お暇を頂いて戻って来て呉れと、云ふのであります、全くの事であると思ひまして、千鳥は大きに驚き、其処で六右衛門に向[むか]ひ 「父の許[もと]から斯様々々申して参りました、何[ど]うぞ一日だけお暇を願ひたうございます」 とやうやう頼んで六右衛門の館[やかた]を出まして、一頭[ぴき]の腰元を伴[とも]なひ周章[あはて]狼狽[ふためい]て帰らうとする、充分六右衛門は千鳥が気に入って居るのでありますから 六右千鳥夫[そ]れでは早く帰って参れよ 千鳥ハイ 六右モシ権右衛門の病気が永引く様に事であれば、老父[おやぢ]を当城内へ伴[つ]れて来い、我が手許[てもと]に置て充分手当を致して遣るぞ 千鳥有難うございます 六右小遣金[こづかひ]があるか 千鳥ハイ 六右[こ]れを持って行け、何か入用もあらうから、余ったら老父[おやぢ]に遣[つか]はして帰れ、また老父にさう云へ、何か不自由な物があったら何時[なんどき]でも手当を致して遣[つか]はすぞ、夫[そ]れから此[こ]れは門の鑑札だ、此の節[せつ]門の出入は中々厳しい事である、依って出るにも這入[はい]るにも此れを門の掛[かか]りのものに見せて出這入[ではい]りをせんければならぬ 千鳥有難うございます」 其処で千鳥は腰元一頭[ぴき]を伴[とも]なひまして穴観音の城内を出て、彼の八幡[はちまん]の森へ立ち帰って参りました、

▼鑑札…通行手形。

さて城内に於きましても六右衛門はやうやう其の場を出でまして、是れから表の広間へ参って其の身は一段高いところに座を占め、側には数多[あまた]の近習[きんじゅ]の小狸共を従へ、四方山[よもやま]の話しを致して居りまする、ところへ一頭[ぴき]の小狸でございます、次の間[ま]に両手を支[つか]へ 小狸恐れながら申し上げます、今朝彼の淡路の方へ使ひに参りました、飛田の八蔵立ち帰りましてございます、主公[きみ]のお目通りを願ふて居りましたが、まだ主公[きみ]は御寝所[ごしんじょ]でお休みの事でございましたから、次の間に控へさせて置きましたが、如何取り計[はから]ひませう 六右ムムゥ左様か、さては飛田が立ち帰って呉れたか、何分此方[このほう]は酩酊を致して千鳥の部屋で前後も知らず打ち臥したる事である、其の事は一向気が付かなかった、併[しか]し飛田の八蔵が帰ったとあれば早々目通りまで呼べ 小狸[かしこま]りました」 と小狸は下[さが]る、程なく夫[そ]れへ向けまして遣って参ったのは飛田の八蔵にございます 「ハッ御前只今立ち帰りました、飛田の八蔵にございます 六右オォ夫[そ]れは夫[そ]れは八蔵此度我が用向[ようむき]に依って千山の芝右衛門の許[もと]へ参って呉れて大儀である、して芝右衛門は何と申した 八蔵御意にございります、立ち帰りまするなり直[す]ぐ申し上げやうと思ひましたが、何分御酩酊の御容子[ごようす]、殊にお楽[たのし]み最中に…… 六右コリャコリャ何と云ふ事を申す 八蔵何分お退[ひ]けに相成ったのですから、次の間に在って控へて居りましたのでございます、さて早速ながら申し上げます、私は津田浦の浜よりいい塩梅[あんばい]に淡路通ひの船がありましたから、夫[そ]れへ飛び乗りまして船が彼[か]の地へ着きますと、直様[すぐさま]千山へ赴きました、芝右衛門殿のお目通りを致し、主公[きみ]のお手紙なり且[かつ]はお伝言の程を慥[たしか]に申し入れましてございます、然[しか]るに芝右衛門殿は非常にお驚きになりました、予[かね]て日開野金長なる奴は謀叛の旗揚げを致すと云ふ事は聞き及んで居るが、豈夫[よもや]此れ程ではあるまいと心得た、嘸[さ]ぞ六右衛門公は残念であらう、併[しか]し此の頃太平打ち続き眷属共は手許に居らん、或は変化の修行、又は遊山見物[ゆさんけんぶつ]と致して、彼方此方[あちらこちら]へ参って居るのであるから、至急に此れ等[ら]の輩[てあひ]を集めて其の地へ渡らうとするには早くも四五日費[ついや]さねばならぬと云ふ仰せでございます、併[しか]し兎も角も拙者[それがし]が一両日先に穴観音へ参り、其の上六右衛門公に面会を致し何かの打ち合せを致す事である、汝立ち帰ったら左様に申し上げよ、との事でございまして、此の書面を持って参れとの仰せでございます、御主公[ごしゅくん]此れを御覧の程願ひます、芝右衛門様より直々[ぢきぢき]に頂きましたのでございます 六右オォ夫[そ]れは大きに大儀であった、夫[そ]れで何か外[ほか]に何事も話しはしなかったか 八蔵左様でございます別段何事も仰せられませんでした

▼次の間…となりの部屋。

六右衛門は文箱[ふばこ]の紐[ひも]を解[と]き蓋を開けて中を見ると驚いた 六右此れは何ぢゃァ、返事と思ひの外[ほか]片足の古草履[ふるぞうり]、斯様な草履が返事とは何事だ 八蔵ハッハッ……オヤ是れは仕たり、怪しからぬ事もある物でございます 六右ハハァ汝大切なる密書を途中に於て誰かに奪はれ、斯様な物と掠代[すりか]へられたのぢゃな 八蔵滅相な、中々以[も]ちまして私[わたくし]大切なる御書[ごしょ]でございますから、取り換へられる様な事は決して致しません、何うも是れは面妖な、草履で狐の子ぢゃものを、イヤ狸の…… 六右コリャ控へろ、甚[はなは]だ以って不埒[ふらち]な奴、是れへ参れ手討[てうち]に及んで呉れる 八蔵メメメメ滅相な、ママママお待ち下さいまするやう、私は中々以[も]ちまして道中で奪はれると云ふ様な事はございませんが、是れはキッとお味方なさると云ふその謎でございませう 六右何に味方をすると云ふ謎だ、何がために夫[そ]れは謎ぢゃ 八蔵左様でございます、昔彼[か]の信田[しのだ]の森と云ふ所がございまして、其の森は葛葉[くづのは]と申しまする狐が、縁あって安倍保名[あべのやすな]と云ふ者と夫婦になりました、夫[そ]れが自分の姿が露顕致しまして、元の古巣へ帰りまする時、葛葉は我が子に別れを告げましてございます、縦[たと]へ親子の縁は切れるとも必らず其方[そなた]の影身に付き添て遣るから、其方[そなた]も温順[おとなし]く成人して呉れと子供の寝て居りまする枕許[まくらもと]に於て、何をさしても埒[らち][あ]かん、草履で狐の子ぢゃものをと、人に笑はれ指差され…… 六右何を詰[つま]らぬ事を吐[ぬか]して居る 八蔵イエ夫[そ]れと同じ事でございます、千山芝右衛門様は奥方楓の前様の兄様[あにさま]の事でございますから、其の縁に引[ひか]されて入[い]らっしゃいます、草履で狸の兄ぢゃもの……、 六右コリャ何を云ふ、馬鹿な事を申すな不埒者奴[ふらちものめ]、目通り叶はぬ下[さが] 八蔵ヘェー御免下さいまし」 と飛田の八蔵頭を抱へて次ぎへ迯げ込んで了[しま]ひました、

▼草履で狐の子ぢゃものを…浄瑠璃の「葛の葉」に出て来る文句「道理で狐の子じゃものと」の地口。
▼謎…なぞなぞ、なぞかけ。
▼葛葉…葛の葉、安倍保名は浄瑠璃の「葛の葉」の登場人物。さきほどの地口からの連想で八蔵はなんとかごまかそうというおかしみの場面。
▼草履で狸の兄ぢゃもの…おなじく「道理で狐の子じゃものと」からの地口。

[あと]に六右衛門は考へました 六右如何にも不思議、飛田の八蔵奴[め]が、さては途中に於て是れは敵方の奴等[やつら]に密書を奪はれたる事ではないか、もしや然[さ]ある時我が計略も画餅[ぐわべい]と相成る事である、何は然[しか]れ明後日芝右衛門殿がお出[いで]に相成ると云ふのは幸[さいは]ひ、何かの事は面談の上万事打ち合せを致さう、コリャ明後日千山芝右衛門がお乗り込みである、饗応[もてなし]に及ばんければ相成らぬぞ、何[いず]れも前以って其の用意を致して置き、又奥楓の前にも其の事を申し置け 其処で此の事をば楓の前にも知[しら]せましたる事でございます、依って何[いづ]れも其の準備を致して相待つところへ、千山芝右衛門態々[わざわざ]淡路から出掛けて参り直[すぐ]に穴観音へ参りましたら、首尾よく其の打ち合せも出来たのでありますが、一旦淡路の汝[おのれ]の棲家[すみか]を出立致し、此の地へ乗り込んで参って、僅かな手違ひより、此の千山の芝右衛門と云ふものは、彼[か]の御城下の傍[わき]なる勢見山[せいみやま]の麓[ふもと]観音堂の片辺[かたほと]りに於きまして、遂に己[おの]れの一命を落さんければ相成らぬと云ふことに立至[たちいた]るお話、チョッと一息[ひといき]

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▼画餅…絵に描いた餅。
▼奥…正室。おくがたさま。
校註●莱莉垣桜文(2018) こっとんきゃんでい