さても日開野[ひがいの]の軍師と仰がれます、高須の隠元と云ふ者は、中々▼老狸[らうり]の事でございまして、智謀は天晴[あっぱ]れ優れてございます依って今[いま]▼多度津の役右衛門の手に対[むか]ひながらも、俄[にわか]に同勢を三手[みて]に分けまして、二分[ふたて]は左右の土堤[どて]の下へ伏せ置きましたる事でございまして、其身[そのみ]は僅か五十頭[ぴき]ばかりの眷属を従へ、弱々さうに役右衛門の手へ打向[うちむか]ったる事でございます、すると役右衛門は大いに侮[あなど]り、多寡の知れたる小勢、夫[そ]れ彼奴[きゃつ]を引包[ひきつつ]んで撃取[うちとら]んと、面も振らずドッと一同は進む事になりました、すると高須の隠元は 隠元「夫[そ]りゃ敵はぬぞ、逃げろ、逃げろ」とあって、下知を致して、忽[たちま]ち後方[あとも]の方へドシドシ逃げ出しましたる事でございます、勝[かち]に乗じて役右衛門は、さては彼奴[きゃつ]逃げると云ふのは卑怯であると、逃げる敵を追ふの面白さに、皆々続けと云ふので、ドッとばかりに▼備へを乱して追ひ詰める事になりました、すると云ふと是[こ]も其[そ]も如何[いか]に、左右の土堤下[どてした]より現れたる日開野勢、忽[たちま]ち大石小石を取りまして、敵を望んで投げ付け投げ付け致しましたる事でございます、其の勢ひに今まで勢ひ込んで追駈けましたる津田方は、ドッと敗走いたし 「素破[すは]敵の許[はかりごと]に陥[おちい]った、兎も角も後方[あと]へ退[ひ]けッ」 と云ふのですから、ドッとばかりに散乱いたしまする、
すると一旦逃げたね高須の隠元、戦ひは茲[ここ]なりと云ひながら、早くも取って返したる事でございまして、左右の伏勢[ふせぜい]と今では三手が、三方より攻め立てると云ふのでございますから、宛然[さながら]大山[おほやま]の崩れるばかりの勢ひで、役右衛門の勢に対[むか]ったる事でございます、津田方の同勢は頭部[あたま]或は肩腰を撃たれ、または前足を砕[くぢ]かれ散々に敗走、ところが今同勢が勢ひ込んで追駈けましたる役右衛門さへも、逃げると云ふの有様、そこで大変に皆々狼狽[うろたへ]騒ぎまして、数多[あまた]同士撃ち同士噛[く]ひと云ふの有様でございまして、大変に此手[このて]の者は敗北を致しました、役右衛門は此の容子[ようす]を見て無念の切歯[はがみ]をなし 役右「汝[おの]れ、不埒[ふらち]な奴」 と、其身は真先[まっさき]に進みまして、勝ち誇ったる日開野勢の真正中[まっただなか]へ乗出し、勇気を皷舞して戦ひに及びましたる事であります、至って此奴[こやつ]は▼大力[だいりき]の奴でありますから、辺りの大石を取りまして、敵中望んで投げ付けましたる事でございます、此[こ]の役右衛門の力に驚いて、日開野方はドッと八方に散乱いたしまする、其の隙[すき]に漸[やうや]う役右衛門は味方の手勢を助けまして、何[ど]うやら斯[か]うやら▼九右衛門の処へ、ドシドシ駈け着けましたる事でごさいます、ホッと一息[ひといき]吐[つ]きましたる役右衛門 役右「オォ九右衛門、飛んでもない戦ひに相成った、御身[おんみ]は何[ど]うする心算[つもり]だ 九右「仕方がない、最[も]う斯[か]うなったら我れも一生懸命歯節[はぶし]の続くだけは敵を噛[く]ひ散らして、其場[そのば]に於て討死[うちじに]をする、 役右「イヤイヤ、夫[そ]れは余りお手前早まり過ぎてゐる、敵は多寡の知れたる小勢である、依って斯[か]やうに致さう、誰か足の達者な奴を▼搦手[からめて]に遣[つか]はし、御大将に注進いたし、尚[ま]だ敵は搦手の方へ廻って居らぬから、加勢の兵を遣[よこ]して貰ふのである、千切山の高坊主の戦死したことを聞いたら、主君から今に加勢の兵を遣[よこ]すであらう、然[さ]うなると我々はチョッと休戦が出来る、敵は小勢ながら十分に働いて居るから、其のうちに此方[こなた]は勇気を養ひ置いて、そこで敵の草臥[くたび]れたるところを望んで、不意に撃取[うちと]って遣[や]らうと思ふが何[ど]うだ 九右「成程、夫[そ]れは何[ど]うしても同勢が少ないと可[い]けない、然[しか]らば左様に致さう 役右「ヤアヤァ誰かある、斯やう斯やうに大将六右衛門公に注進に及べッ 小狸「畏[かしこま]りました」 一頭[ぴき]の小狸[こだぬき]は、是れ幸ひと穴観音の搦手を望んでドシドシ駈け着ける事になりました、
さて本陣の搦手の方では大将六右衛門でございます、浜手の容子[ようす]は如何[いかが]であらうと大いに案じて居りまするところへ追々浜手の▼戦ひが不利益と云ふ注進でございます、尤[もっと]も是等[これら]は何も大将から申付けた注進ではないので、敵はぬところから逃げて参って、己[おの]れは注進をするやうな顔を致し居りまする、大きに六右衛門は無念の切歯[はがみ]に及んで居りまするところへ思ひ掛けなくもまたまたやって来た 「御注進々々々」 と云ひながら、夫[そ]れへ一頭[ぴき]の小狸が旋風[つむじかぜ]の如くに駈け着けて参りましたが、ドンと平倒[へた]り込んだ 六右「オォ然[さ]う云ふ汝は貉[むじな]の三郎ではないか、戦ひの容子[ようす]は何[ど]うぢゃ 三郎「エェ恐れながら御大将に申上げます、浜手の戦ひは最初は双方劣らず励んで戦ひ居りました、ところが加勢に参りましたる彼[か]の千切山の高坊主どのでございます、敵方の衛門三郎と云ふ奴の身内の、松の木のお山[やま]と云ふ女狸[めだぬき]が罷出[まかりい]でまして、遂に高坊主どのの変化の術も挫[くじ]け、其の女狸の為に戦死をなされました事でございます、ところが高須の隠元と云ふ敵は、川島九右衛門なり、多度津の役右衛門どのの同勢に対[むか]っての戦ひは、中々掛引[かけひき]は鮮やかな事でございます、事に依りますると両将も将[まさ]に戦死と云ふの有様、依って御大将今のうちに御城内を御引上げに相成りませんと、此処[このところ]が危なうございます、併[しか]し願[ねがは]くば浜手へ加勢の者をお遣[つか]はしに相成りましては、如何でございまする、さもないと浜手は十分敵の為に悩まされて、最早持ち応[こた]へる事は出来ません」 と、真青[まっさを]になって此の事を注進に及んだ、之[こ]れを聞いて六右衛門は、顔色[がんしょく]宛然[さながら]青ざめたる事でございまして、ホッと太息[といき]を吐[つ]きました、側[そば]に坐流[ゐなが]れる勇士の手輩[てあひ]は、互[たがひ]に顔と顔とを見合せましたが、 六右「味方のうちの川島九右衛門、多度津の役右衛門ごとき者が乗出して、防いでも敵はぬとは、さても残念な事である、誰か此の▼両狸[りゃうり]を助ける者はないか、 すると傍[かたはら]に控へたる、八島[やしま]の八兵衛進み出[い]でまして、 八兵「恐れながら御大将、此上[このうへ]ながら私[わたくし]に対して、願[ねがは]くば百五十の同勢をお貸与[かしあた]へを願ひまする、さすれば是れより直[すぐ]に浜手へ押出しまして、屹度[きっと]その衛門三郎と云へる奴を首[はじ]めとして、高須の隠元、まった金長なりとも、何条何程の事や候[さぶら]はん、私が撃取[うちと]りまして御覧に入れまする、 六右「ムゥ、夫[そ]れは大儀である、其方[そのはう]乗出して十分に敵を撃取[うちと]れ、 八兵「心得ました」 と勇み立って其の用意に掛りましたが、是れが八兵衛の大言の吐き終ひ、自分[おのれ]討死[うちじに]をすると云ふ事は知らずして、其侭[そのまま]百五十の手勢を従へましてドッとばかりに浜手の方へ乗出しました、
すると此の浜手でございます、加勢が来[きた]ったら少時[しばらく]休戦をして英気を養った上、戦ひを仕ようと心得て居りまする、ところが中々此の加勢の手輩は来ません、然[しか]るに高須の隠元は勝ち誇って役右衛門の同勢を追ひ詰めました事でございます、一旦川島九右衛門と一つ処[ところ]に集り、本陣の方へ加勢を頼みに遣[や]って、先づ是れなればと安心をして居るところへ、横合[よこあひ]から衛門三郎、後方[うしろ]からは高須の隠元と云ふ同勢が押寄せたのでありますから、今は是れまでなりと思ひまして、彼[か]の多度津の役右衛門に於きましては、十分暴れ廻りたる事でございます、此時高須の隠元の傍[かたはら]に控へて居りましたところの一頭[ぴき]の小狸、石投げの名狸[めいり]と見えまして、敵が来[きた]ったら狙ひ撃ちをして遣[や]らうと、傍[かたはら]の大木の蔭に身を寄せて容子[ようす]を窺って居りますところへ数ヶ所の手疵[てきず]を被[かうむ]りながら、多度津の役右衛門、今隠元の手許[てもと]へ進んで参らうと云ふ奴を、間[あひだ]は僅かに二三間[げん]にして飛び出すや否や、四五貫もあらうと云ふ石を目よりも高く差上げてまして、役右衛門の▼面上を望んで、ヤッとばかりに投げ出[いだ]した、其の石は狙ひ違[たが]はず役右衛門の額[ひたい]に当りました、額は打破[うちわ]れまして脳骨[のうこつ]が砕けると云ふ事になりました、如何なる豪狸[がうり]の役右衛門も、茲[ここ]に於て舌を噛み黒血を吐いて、其処[そのところ]へキリキリ二三遍廻って戦死を遂げましたる事でございます、
早くも隠元は此の体を見まして、ドッと凱歌[かちどき]を揚げましたが、今は残った川島九右衛門を撃取[うちと]って呉れようと云ふので、追取[おっと]り包ん戦ふと云ふ事になりました、実に九右衛門は此時、最早我れ戦死を致し、切[せ]めて部下を助けるより致方[いたしかた]がないと心得て居りますところが何[ど]うやら斯[か]うやら八島の八兵衛が百五十ばかりの手勢を従へまして、是れへ駈け着け来[きた]りましたる事でございます、すると此の体を眺めました衛門三郎、▼猪牙才[ちょこざい]なる彼[か]れが振舞、いでや此の敵なりとも撃取[うちと]って呉れんと、態[わざ]と行[や]り過ごして置いた、其中[そのなか]を勢ひ込んで激しく通り抜けんとする時、茲[ここ]に衛門三郎の部下に一頭[ぴき]の水越[みづこし]の小鴨[こがも]と云へる奴、十分に敵を狙って居りましたが、前を通り抜けんとする時、八島の八兵衛の足を望んで打出しましたる石の為に、不意を喫[くら]った八兵衛は、片足を折られましてドッと其処へ転りました、起きんとする奴を、近寄って五六頭[ぴき]の小狸、中々侮り難い勢ひ、皆何[いづ]れも歯節の達者な奴でございますから、寄って集[たか]って八兵衛の足首から背[せ]喉元[のどもと]の嫌ひなく噛[くら]ひ付きました、是れが為に平日[ふだん]から四天王の一頭[ぴき]と威張って居りました八島の八兵衛も、何分かかる不意を喫[くら]ったのでありますから、到頭茲[ここ]で加勢に来[きた]って、却[かへ]って川島九右衛門より自分[おのれ]の方が先に戦死をすると云ふ事に相成ったのでございます、
依って日開野方は彼[か]の津田山に居りまする、大将金長の許[もと]へ追々此の事を注進と及ぶと云ふ事に相成った、ところが大将金長は大いに悦[よろこ]びまして 金長「素破[すは]や戦ひは今此の図を外さず、我れも六右衛門を撃取[うちと]って呉れん、ソレ者共我れに続け、馬牽[ひ]けッ」 と云ひながら、軈[やが]て嶮[けは]しい坂を馬にて乗下[のりおろ]すのでございます、其身は鞍[くら]の後[あと]の方へ反り返りまして、手綱[たづな]を十分に引締めて忽[たちま]ち坂落[さかおと]しと相成りましたが、宛然[さながら]源九郎義経[げんくらうよしつね]公の▼鵯越[ひよどりごへ]も斯[か]くやと思ふばかり、金長の後に続く輩[ともがら]は、彼[か]の藤の樹寺の小鷹[こたか]熊鷹[くまたか]の兄弟を首[はじ]めとして、或は火の玉、または金の鶏[にはとり]、是等[これら]を従へまして、金長は馬術の早技を以て乗出しました、其の後勢[あとぜい]と致して、南方の老狸と云はれましたる田の浦の太左衛門が殿[しんがり]を致して、総勢漸[やうや]う七八十頭[ぴき]と云ふのでございます、騫直[まっしぐら]に乗出して参りました、
ところが茲[ここ]に搦手に控へましたる六右衛門、豈夫[よもや]この陣中へ押寄せ来[きた]るとは思ひません、ところが後手[うしろで]の山よりドッと不意に鯨波[とき]の声を揚げました、金長方が乗下[のりおろ]したと云ふのでありますから、イヤ驚いたの、驚かないの 「オヤオヤ此の同勢は天から降ったのか、何処から此処[このところ]へ廻って参ったのか」 と呆れ返って居りますうち、何しろ津田方をば手当り次第に撃ち悩ますと云ふ勢ひでございます、さしもの六右衛門は切歯[はがみ]を致し 六右「者共、我が陣中に押寄せ来[きた]るを幸ひ、鏖殺[みなごろ]しに致して遣[や]れッ」 と下知を致しました、すると側に控へたる豪狸の川島作右衛門 作右「猪牙才[ちょこざい]なる日開野方、いでや此方[このほう]の手練[てなみ]の程を見せて呉れん」 と、此の搦手には最初五六百も控へて居りましたが、追々浜手へ加勢に出したものでございますから、今は三百ばかりの同勢、併[しか]し敵は僅か七八十頭[ぴき]、何条何程の事もあらんと、其の同勢を二手[ふたて]に分[わか]ちまして、一方は川島作右衛門は百五十頭[ぴき]を従へ、騫直[まっしぐら]に夫れ[そ]へ乗出しました 作右「ヤァヤァ日開野方の弱虫等[ら]、確かに承はれ、我れは四天王の随一、過日藤の樹の鷹[たか]を噛[く]ひ殺したと云ふ、川島作右衛門である、我れと思はん者は来[きた]って尋常に一騎撃ちの勝負に及べッ」 と云ふより早く、▼得物[えもの]を打ち振り敵中に駈け入り、当るを幸ひ打ち悩ますと云ふの有様でございます、素[もと]より戦ひは激しい覚悟で乗込んだのでございますから、火の玉、金の鶏を首[はじ]めと致して、銘々作右衛門を撃取[うちとら]んと近寄って参りまする奴を、或は蹴飛ばし、踏み飛ばし、または其処[そいつ]へ打ち倒しまする、彼[か]れの得物の為に、脳骨[のうこつ]を打砕かれまして、血煙り立って戦死を遂げる者は数知れず、此時金長は此の体を眺めまして 金長「ナニ猪牙才[ちょこざい]な作右衛門の腕立て、卒[い]で我が手練[てなみ]の程を見せて呉れん」 と、此時彼は其身の腰なる用意の一刀を引抜くより早く、彼[か]の芒[すすき]の穂の采配[さいはい]は腰の鐶[くわん]に納めまして、陣刀[じんたう]真向[まっかう]に振り被[かぶ]り
金長「如何[いか]に作右衛門、日開野金長の腕前の程を知れ」 と云ひながら、打下したる激しき切先[きっさき]、彼れの持ったる樫[かし]の棒に等しきところの得物を中半[なかば]より、斬り落されたる事でございます、さしもの作右衛門は驚きまして、是は敵はじと思ひましたか、後方[うしろ]の森を指して逃げ込んだる容子[ようす]でございます、すると大将が是[かく]の通りでございますから、作右衛門に従った小狸の手輩は、誰一頭[ぴき]として踏み止[とど]まる奴はございません、何[いづ]れも八方に散乱して▼我れ一と逃げ出[いだ]しまする、此時金長は遥か向ふを見ますると、何がさて鷹兄弟に於ては、是れは左右に分[わか]って、津田方の群[むらが]り来[きた]る小狸数多[あまた]の者を、噛[く]ひ散らして居りまする有様でございます、此時金長は 金長「ヤァヤァ、小鷹は居らぬか、熊鷹は居らぬか、何を致して居る、今夫[そ]れへ逃げ出したのは、汝の父の敵[かたき]川島作右衛門であるぞよ」 と呼ばはりましたる時、彼是れ五六頭[ぴき]の小狸何[いづ]れも得物を打ち振って、金長の乗ったる馬の横腹[ひばら]を望んで貫[つらぬ]かんと致しまする奴を、振り返って何を致すと云ひながらも 金長「我が一刀の切れ味を喫[くら]って往生を仕ろ」 と、またまた此の小狸を相手として居りまする、
ところへ遥か高見に当って、作右衛門の戦ひ如何[いかが]であらうと、先程から馬上鞍嵩[くらかさ]に突立[つった]ち上って打眺[うちなが]めて居りましたは、是れぞ穴観音の大将六右衛門でございます、肝心の片腕と致しまする作右衛門も遂に逃げ出した、金長が余り見事な働きでございますから、バリバリ歯を咬緊[くひしば]り、此奴[こやつ]味方に対[むか]って敵対[てむか]ふところの曲者[くせもの]、いでや此上からは彼奴[きゃつ]の息の根を止めて呉れん、彼れゆゑに最後を遂げたる娘の敵[かたき]、今此処に於て撃取[うちと]って呉れんと云ふより早く、三尺に余れるところの陣刀を鞘払[さやばら]ひに及びますると、砂煙を立って乗出して参った 六右「ヤァヤァ、其処[そのところ]に控へたるは日開野の金長ならずや、斯[か]く申す我れこそ当穴観音の城主六右衛門なり、今日こそ汝の一命を申受ける、覚悟に及べッ」 と云ひながら、金長望んで斬り込んで参りました、すると金長は 金長「オォさては六右衛門、汝日頃の悪事増長いたし、卑怯未練にも我が旅宿へ夜撃ちを掛けるとは何事である、殊[こと]に己[おの]れが娘の異見にも耻[は]ぢず、見下げ果てたるところの悪狸[あくだぬき]、汝のやうな奴に四国の総大将の官位を充[あ]てがひ置くべき理由はない、いでや天に代って汝を征伐いたして呉れん、金長の一刀を受けて最後を致せッ」 と云ひながら、馬を其処[そのところ]へ進めて参りまするなり、六右衛門の頭上を望んで、ヤッと云ふので打下[うちおろ]した、真二[まっぷた]つに相成ったと思ひの外[ほか]、彼れも遉[さすが]は四国の総大将、ヒラリと身を引外[ひっぱづ]し、馬を乗り開きましたる事でございます、彼[か]の陣刀を以て横に払ふところの早技、少時[しばし]の間は万字巴[まんじともへ]と乗り違へ、一方は日開野鎮守の森で名を得たる、当時評判の高い勇猛抜群なるところ金長、此方は年は取ったりとは云へども、遉[さすが]は四国の総大将の六右衛門、殊[こと]に穴観音に奉納いたしてござりまする陣刀を取って打向[うちむか]ったのでございまする、少時[しばらく]の間と云ふものは馬を乗廻して、二十七八合の渡り合ひに及びましたが、何[いづ]れも聞[きこ]えるところの豪狸、中々勝負は何時[いつ]、果つべきとも見えません、
茲[ここ]に於てさしもの金長も苛[いらだ]ちまして、何[ど]うぞ致して彼れを撃取[うちと]って呉れんと、短兵急に撃込んで参りましたが、既に六右衛門は危いと見えましたる時、津田方の眷属共は、主君を撃たしては相成らぬと思ひまして、十五六頭[ぴき]と云ふもの、卑怯にも一騎撃ちの勝負の真中[ただなか]へ対して、ドッと叫[おめ]いて乗込んで参りました、金長は怒[いか]れる眼[まなこ]を見張り 金長「何を致すか、妨[さまた]げを致すな」 と、近寄る敵を脳顛[のうてん]より打下[うちおろ]して真二[まっぷた]つ、或は馬の蹄[ひづめ]を以て蹴殺し、または▼鐙[あぶみ]の鳩胸[はとむね]を以て蹴殺すと云ふ勢ひでございます、忽[たちま]ちの間五六頭[ぴき]は其処[そのところ]へ蹴倒されまして、苦みながら息は絶えました、其の暇に六右衛門、漸[やうや]うの事に眷属共に任せて、卑怯にも一方を開いて高見の方へ迯[に]げ来[きた]り、ホッと太息[といき]を吐[つ]いて 六右「ヤレヤレ、恐ろしや、金長と云へる奴はさてさて中々腕前[うでっぷし]の確かな奴、悪くすれば我れも討死[うちじに]をするところであった、併[しか]し作右衛門は何[ど]うして呉れたであらう、首尾好[よ]う遁[のが]れて呉れれば可[い]いが」 と小手を翳[かざ]して見てみれば、
今本陣の方へ迯げ出さんと致し、ドシドシ足に任せて駈け出しました、折しも横合[よこあひ]松の大木の蔭より、夫[そ]れへ現れ出でまして、小鷹「ヤァヤァ夫[そ]れへ来[きた]ったるは川島作右衛門ではないか、汝を待つこと久し、我れは藤の樹寺の鷹の嫡子[ちゃくし]小鷹である、汝の為に過日不慮の最後を遂げられた亡父[ちち]の吊[ともら]ひ合戦、卒[い]ざ尋常に勝負に及べッ」 と、大手を拡げて作右衛門を望んで斬り付けて来ようと致しまする、川島作右衛門は斯うなると、今迯げて行かんとする前を立塞がりましたので、思はず知らず佇止[たちとど]まって、ハッタとばかりに睨[ね]め付けました 作右「さては汝は鷹の倅[せがれ]よな、黙り居れッ、汝[うぬ]が父なる藤の樹寺の鷹さへ、只一噛[ひとく]ひに噛[く]ひ殺したる此方[このほう]が歯節、▼若狸[じゃくり]の分際と致して我れに対[むか]ふと云ふのは、大胆極[きは]まる小狸、いでや作右衛門の牙の勢ひの程を見せて呉れん、卒[い]ざ来[きた]れよ」 と、ドッと前足を挙げまして小鷹を蹴飛ばさんと致しました、猪牙才[ちょこざい]なりと同じく小鷹は牙を剥きまして、只一噛[ひとくら]ひと云ふので、互[たがひ]に夫[そ]れへ唸[うな]りながら近寄って参るなり、無手[むんず]とばかり組打ちに相成りました、中々鷹も親の仇[あだ]を撃つのは今この時なりと思ひますから、一生懸命に相成りまして対[むか]ひました、依って作右衛門と上になり下になり、少時[しばらく]の間は組んづ転んづ噛[くら]ひ合ひと云ふ事に相成りました事でございますなれども、遉[さすが]は四天王の一頭[ぴき]と云はれたる川島作右衛門でございます、到頭今小鷹を其処[そのところ]へ取って押[おさ]へまして、既に彼れが気管[のとぶえ]へ噛[くら]ひ付かんとするところの有様でございます、小鷹は残念と下から撥[は]ね返さんと致す、既に一命[いのち]は風前の灯火[ともしび]、今作右衛門の為に噛[く]ひ殺されんと致しました、
折しも遥か向ふの方に、小狸を相手と致して戦って居りました彼[か]の熊鷹は、此の体を見ると、さては兄上の一大事と思ひましたところから、此方[こなた]へ向けてドシドシ一散に駈け出して参りました 熊鷹「ヤァヤァ夫[そ]れに控へたるは川島作右衛門ではないか、我れことは藤の樹寺の鷹の次男熊鷹なり、卒[い]ざ尋常に勝負に及べッ、父上の敵[かたき]覚悟を致せッ、兄上御免」 と挨拶を致して置いて、背後[うしろ]より飛び込んで一振り振りましたる事でございます、さしもの作右衛門も驚いた、最[も]う少しのところで小鷹を噛[く]ひ殺さんと押[おさ]へて居るところを、不意に後方[うしろ]から足に噛[くら]ひ付かれたのでございますから、大きに憤り 作右「エェ何をさらすか」 と、振り解[ほど]かんとするところを、下より押[おさ]へ付けられたる小鷹は、此処なりと思ひまして、撥[は]ね返しに及びましたる事でございます、遂に彼れの気の抜けたるところを下から撥[は]ね返し 小鷹「オォ能[よ]くも熊鷹、加勢を致して呉れた、必ず咥[くは]へた足を放すな」 と云ひながら、飛び込んで、作右衛門の首筋を望んで、カッと噛[くら]ひ付き、一振り二振り振り廻したる事でございます、さしもの勇猛なる四天王の一頭[ぴき]の作右衛門も、何分片足と首筋を太[したた]かに鷹兄弟の為に噛[く]ひ付かれまして大いに無念の切歯[はがみ]を致し、之[こ]れを振り放さんと致しまするが、兄弟は中々放さばこそ、激しく振りましたる事でございます、今は堪[たま]らず無念無念と身を[足+宛][もが]いて、ドッと其処[そのところ]へ倒れる時、茲[ここ]なりと思ひましたから、乗掛って、或は敵の手足肩腰の嫌ひなく、一生懸命に噛[く]ひ付きました、遂に気管[のどぶえ]へ噛[くら]ひ付いて止息[とどめ]の歯節を一噛[ひとかぶ]り、さしもの豪狸作右衛門も、到頭是れが為に、鷹兄弟に喰ひ殺されましたる事でごさいます、漸[やうや]うの事に兄弟いたして此の作右衛門の首級[くび]を上げると云ふ事になりましたが、大音声[だいおんじゃう]に小鷹は呼ばはった 小鷹「ヤアヤァ敵も味方も確かに承はれ、津田方に於て四天王の一頭[ぴき]、剛の者と言はれたる川島作右衛門なる者を、藤の樹寺の小鷹兄弟が茲[ここ]に撃取[うちと]ったり」 と、其の首級[くび]を目よりも高く差上げましたる事でございます、
是れが為[た]め大きに力を得まして、日開野方は中々勇気が盛んに相成りました、夫[そ]れに引替[ひっか]へ津田方は、愈々[いよいよ]敵はぬと云ふので、八方に散乱いたす、金長を首[はじ]めと致して、一同の手輩は、さては鷹は▼本懐を達したるかと、彼れが挙動に大いに感じ入り、銘々茲[ここ]に褒奨[ほめそや]しましたが、何分激しい戦ひとは云へど敵は三百近い同勢、味方は僅か七十頭[ぴき]ばかり、依って勝利を得ながらも、追々眷属共は其処に喰ひ殺されると云ふ事になりました、鷹兄弟はホッと一息[ひといき]を吐[つ]きまして 熊鷹「兄上、此上は此手の大将六右衛門は私[わたくし]にお任せを願ひたい 小鷹「オォ天晴[あっぱ]れな其方[そち]の望み、然[しか]らば汝に任すである、必らず撃ち損じるな 熊鷹「合点[がってん]でござる」 此時六右衛門は遥か小高い松の木の処へ馬を繋ぎまして、漸[やうや]う馬より下りまして、足に少々負傷を致し、眷属の小狸が集って、頻りに六右衛門の足の▼疵[きず]を甞[な]めて居ります、此処で疵口[きずぐち]を手当をして居る、ところへ騫直[まっしぐら]に駈け着けましたる彼[か]の熊鷹 熊鷹「其処に控へたる賊将六右衛門、我が主君と一騎撃ちの勝負を仕ながら、卑怯にも逃げるとは何事である、藤の樹寺の熊鷹是れにあり、我が一刀を受けて見よ」 と呼ばはりながら打下[うちおろ]して参った 六右「猪牙才[ちょこざい]なる小狸奴[め]が、飛んで火に入[い]る夏の虫、卒[い]ざ来[きた]れ、汝も共に撃取[うちと]って呉れん と、傍[かたはら]に置いたる血刀取るより早く、ヤッと横に払ひました、今や熊鷹の手足を打斬ったかと思ひの外[ほか]、身を踊らして彼れは一間[けん]ばかり飛鳥[ひてう]の如くに飛上りました 六右「南無三、失敗[しま]った」 と、再び一刀を取直さんとするところへ、飛下りさまに彼れが肩口望んで斬り付けましたが、何分長年の劫[こふ]を経ました古狸[こり]でございますから、自分[おのれ]が身に纏[まと]ったる皮具足の鍛[きた]へ宜しきものでございますから、▼裏掻くほどの事はない、此奴[こやつ]は堪[たま]らぬと思ひましたか、六右衛門は痛い足を押[おさ]へまして、此の側[わき]にありまする、一つの森を望んでドッとばかりに逃げ出しました
熊鷹「汝[おの]れ卑怯な奴もあればあるもの、逃げると云ふ法があるか と、ドッと森の中へ追駈けましたところが、森の中[うち]へ入ったには違ひないが、何処へ逃げて了[しま]ひましたか肝心の六右衛門の姿が知れません、是[これ]全く敵はぬ時には六右衛門の計略で、此処なら城内へ抜け道のあると云ふ事は存じません、ですから熊鷹に於ては、何[ど]うしたのであらうと心得て居るところへ、三方より伏勢[ふせぜい]があったものと見えまして、ドッと石を投げ出し、茲[ここ]に於て彼[か]の熊鷹は敵の計略に陥[おちい]り、遂に此の森の中[うち]に於て戦死を致すと云ふお話より、愈々[いよいよ]穴観音の▼大手搦手へ日開野方が、是れから取詰めると云ふの一段チョッと一息[ひといき]いたしまして次回[つぎ]に