実説古狸合戦(じっせつこりがっせん)第三回


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第三回

エー前回に述べました通り何分[なにぶん]此のお話は人間とは違ひまして対手[あひて]畜生のことでございます、だから当家の主人[あるじ]茂右衛門[もゑもん]も顔を見合せて膝組[ひざぐみ]の上で談話をすると云ふ訳ではない、畢竟[ひっきゃう]ずる茂右衛門の前には彼[か]の職人亀吉[かめきち]なるものを控[ひか]へ、これを相手に種々[いろん]なことを尋ねるのでございます、すると随分本人の答弁[こたへ]でございます、種々[いろん]なことを話を致しますから主人[あるじ]も面白いことに思ひまして、偖[さて]金長[きんちゃう]に打向[うちむか]ひ 茂右お前も随分これまでは人を欺[だま]したことも定めて沢山[たくさん]あるであらう、其等[それら]のことを詳敷[くはしく]私に話して呉[く]れぬか 金長左様でございます、私[わたくし]の仲間は随分人を欺[あざむ]きまして種々[いろん]なことを致しましたので、追々[おひおひ]修業を致したのでございます、それで巧[たくみ]に人間を欺[あざむ]くと云ふことが出来るのでございます、だが私[わたくし]は御存知の通り金長と云ふ名前を付けましたのも人間の命を取らず、又人を欺[あざむ]いてそれで自己[おのれ]手柄[てがら]等には致しません、成る可[べ]く人間様の便宜を図りたいと云ふのが私の望みでございます、だが[た]のものは遂[つひ]修業のために様々なことをやりますので、種々[いろいろ][かは]ったお話もございます」と膝を進めて亀吉は述べ始めましたから、成程それでは欺[だま]すのな修業が要[い]るとなれば種々[いろん]なこともあったであらう、全体何[ど]の様なことをするのであるか

▼畜生…動物。
▼当家…この家、大和屋。
▼畢竟ずる…つまりは。
▼妙…興味深い、おもしろい。人間とは全然ちがう狸の世界のはなしをうかがうんですから、おもしろいのも当然です。
▼人を欺したこと…化け術にかけて人間どもを化かしたこと。
▼手柄…たくみにひとを化かすと、狸としての権威とか官位とかが上昇するんだそうな。
▼他のもの…金長以外のほかのたぬきたち。

亀吉左様でございます、これは私共[わたくしども]仲間中[なかまうち]でも大分[だいぶ][よ]い顔でございます、それが此の界隈の狸の中[うち]、命数が尽きまして没しまする時にはその事を高須の隠元[たかすのゐんげん]の許[もと]へ届けに及びますと、彼は第一の施主[せしゅ]となって其の死骸を葬むってやります、これが高須の隠元の役でございます、所がこの坊主昨年の春でございましたが、此の徳島の城下に歌吉[うたきち]と云ふ猟師がございます、此奴[こいつ]は余り善[よ]くない奴でありまして、同じ人間同士でも酔っ払っては人を打[ぶ]ったり種々[いろん]な悪事を働く奴でごさいますから、此の歌吉を一ッ欺いてやらうと常々[つねづね]に心得て居りました、大体酒の好きな奴で此奴[こいつ]は呆然[ぼんやり]と気脱[きぬけ]のやうな人間でございます、それが或時[あるとき]山へ己[おの]れの生業[しゃうばい]にする鉄砲を担[かつ]ぎまして猟に出掛けました、此の事を途中で隠元が聞きました所から、彼[か]地獄橋の衛門三郎[ぢごくばしのゑもんさぶらう]と云ふ自分の仲間狸がございますが、これは当時正二位の位を受けて居ります、宜[よ]い顔でございます、其の衛門三郎と二人が牒[しめ]し合[あは]せて、今日は何[ど]うやら彼が鉄砲を担[かつ]ひで山の方へ銃猟に行った様子だ、一番帰りを待って彼[か]の歌吉を欺[だま]してやらうではないかと、隠元と衛門三郎と相談しました、

▼宜い顔…名の知れた野郎。お顔が売れてるたぬきさん。
▼高須の隠元…高洲の隠元。大入道の姿に化けたりしていたことから、たぬきの中では「坊主」な役割を果たしている存在だったので、こういう挿話がついたようです。
▼坊主…隠元狸のこと。
▼地獄橋の衛門三郎…狸のひとり。
▼正二位…正一位よりいちだん下のたぬきの官位。
▼銃猟…てっぽう打ちに行く。
▼一番…ここはひとつ。

其様[そん]なことは歌吉も夢にも存じません、何[ど] うも其の日は思はしい所の獲物がないことでありますから、彼奴[きゃつ]は大胆にも山又山へと分け入りまして、遂にお止め山の方へ忍び込み、其処[そこ]で漸[やうや]う一羽の雉[きじ]を捕りました、其の雉を持ち帰らうと山を下って参り今お止め山の領分を出やうとする時、彼[か]衛門三郎はチョッと[かみ]の役人と云ふ姿に化けまして、突然[いきなり]雉を提[さ]げて居りました歌吉を取っ捉[つか]まへまして 役人こりゃ汝[なんじ][け]しからぬ奴である、全体此の雉は何処で捕って参った 歌吉ハイ実は山で捕って参りました」と歌吉は狼狽[へどもど]致して顔色を変へました様子であります、其処を乗[つ]け込んで 役人イヤ汝[なんじ]此の山で撃ったに相違なからう、何と相心得[あひこころえ]る、此処は貴様達の乗り込める所ではない、殿の御用地と相成って居るお止め山である、誰に断って此のお止山[とめやま]へ乗り込んで殺生いたした、甚だ以て不埒[ふらち]な奴である、今日[こんにち][かみ]の法を犯して斯[か]う云ふ所へ乗り込んだ奴であるから、斯く我々役人の目に懸[かか]った上はこれを許す訳には相成らぬ」と云ひながらも歌吉の両手を捉[つか]まへて既に引立[ひった]てやうと云ふ勢[いきほひ]でございます、所が此の歌吉と云ふ奴は真青[まっさを]に相成りまして、雉も鉄砲も傍[かたはら]へ投げ捨て大地に両手を支[つか]まして 歌吉誠に飛んでもない過失[そそう]を致しました、遂[つひ]山道のことでございますから、此の方から立帰[たちかへ]りまするのが御城下の方へは近いのでございます、それでお禁止山[とめやま]とは承知を致しながらこれから降りて参りました、併[しか]し鉄砲を撃ちまして雉を獲[と]りましたのは決して此のお止山ではないのでございます、これは彼[あ]の前方[むかふ]の山で撃ちまして、それから此の雉を提げて帰りがけに、此のお止め山を通りかかったのでございます、私[わたくし]が此の山から降りて参りましたから、貴方[あなた]は左様にお疑ひに相成りますのも御無理はございません、けれども実の所はお止山で撃取ったのではございません 役人黙れ汝[おの]口賢[くちかし]こく云ひ抜けても我が目が確かな証拠である此のお止山から降りて参ったとすれば汝[なんじ]此の山に於[おい]て撃ったに相違ない、雉は此の山へ来て羽翼[はがひ]を休めて居っても滅多に鉄砲で撃[うた]れる気支[きづか]ひはないと、斯様に思ふて此のお止山に居[を]るのを撃ったに相違ない、見よ、未[ま]だ此の雉の腹に温気[ぬくもり]がある所を考へて見れば撃って未[ま]だ間がない、何と云訳[いひわけ]をしやうとも我が眼にかかる以上は、何[ど]うも此の侭[まま][ゆる]ことは出来ない、よって今より役所へ引立[ひった]てて屹度[きっと]それだけの処分を致すことである、サァ役所へ参れ」と云ひながら此の歌吉と云ふ猟師を引立[ひった]てやうと致しました、彼[か]れは益々[ますます][ふる]へ出し真青[まっさを]になって詫[わび]を致します所へ対して一人[いちにん]の坊主が通り懸りました、

▼夢にも存じません…夢にも思ってない。そんなことが待ちうけてるとはつゆ知らず。
▼思はしい所の獲物がない…大物な獲物も捕れやしない。成果がはかばかしくない。
▼山又山へと分け入りまして…山から山へとずんずん入っていきまして。
▼領分…領域。
▼お止め山…殿様などの命令で狩りをする事が禁止されている山林のこと。禁猟区。「お止山」や「お禁止山」など、表記がばらばらになりますがそのまま残しました。
▼衛門三郎は…原文の文字は「高須の三郎」となってますが、モチロン文字化けでしょう。
▼上…おかみ。
▼狼狽…「へどもど」は「おろおろ」と同じくうろたえてるさまを表現してることば。
▼殿の御用地…殿様の私有地。
▼殺生いたした…猟をして鳥や獣を捕った。
▼引立てやう…引っ立ててやろう。逮捕拘引。
▼大地に両手を支へ…土下座をして。
▼過失…粗相。「そそう」の傍訓は当て読み。
▼口賢く…うまいこと口実を結びつけて。
▼我が眼にかかる…わしが目撃した上は。

年齢は五十恰好[かっかう][いと]も上品な出家でございます、今前を通りかかりましたので黙って行き過ぎる訳にもならない、彼[か]の役人の前に出家は目礼[もくれい]を致しまして 貴方は上[かみ]のお役人でございますか、愚僧は此の前方[むかふ]の地蔵院と云ふ所に住居[すまゐ]を致す、住職隠元でござります、今此所[いまここ]を通り懸りますと、是れなる猟師が頻[しき]りに詫を致して居りまする様子、それを貴方が無理から引立[ひったて]て行かうとなさるのはこれは一体何[ど]うした訳でございます、マァ通り懸った拙僧、御仲裁を申し上げることでございます此の出家と言ふのは即[すなは]相手の隠元と云ふ狸が化けて居[を]るのでございます、それを歌吉は一向気が付きません、其処で役人に化けて居る衛門三郎が却々[なかなか]承知をしない、 役人実は我々は領主のお鷹匠係りの者である、最も此の山はお止め山に相成って却々[なかなか]通常の者が乗込める所ではない、然[しか]るに此奴[こやつ]大胆にも鉄砲を担[かつ]いで此の山に於[おい]て雉を撃取り我が物顔をして持って帰ろうとするのであるから、我が目にかかった以上は勘弁相成らぬ、依って役所へ引立[ひった]てることであるから、参れと申して居るのである 左様でごさいますかこれこれお前は又大胆ではないか、何でお役人様に詫をせぬ 歌吉ヘイ最前から種々[いろいろ]と詫言[わびごと]を致して居るのでございます、実はお聞き遊ばして下さいまし、斯様[かやう]の訳合[わけあひ]でございます、此のお止め山の前方[むかふ]の山で撃ちました雉でございまして、決してお止山で撃ったのではないのでございます、だから其の訳を申してお願ひ申すといへど、強[た]って役所へ引立[ひった]てやうと云ふのでございます、御出家様、後生[ごしゃう]でございますから、貴方も共々[ともども]お詫をなすって下さいますやうお願ひ申します それはお前は甚だ心得違ひ、梨花[りくわ]の冠[かんむり]、瓜田[くわでん]の沓[くつ]と云ふことを知らぬか、仮令[たとへ]お止め山で撃たぬやうにしろ、此の所で通りかかったとして見ればお前は此の山で其の雉を撃ったとしか思はれない 歌吉それは私[わたくし]が心得違ひでございました、此の山道から帰りましたら道が半里程近いのでありますから、それでこれへ通りかかりましたのであります、 イヤそんなに云ふのなら私[わし]が一ッお役人に頼んで上げやう……恐れながらお役人様へお願ひでごさいます、総体[そうたい]人を助けるのが出家の役[やく]御立腹でもございませうが、此の事が表向[おもてむき]に知れますと此の者は牢へも這入[はい]らんければなりませぬ、それでは此の者の妻子眷属が甚だ迷惑を致す訳合[わけあひ]でありますから、何[ど]うぞ愚僧に免じて御勘弁を下さいますやう、屹度[きっと]此の者に以来其の様な心得違ひをせぬやうに愚僧から処分を致します、何[ど]うぞ御勘弁を願ひますと段々と役人に向って詫を致します、すると役人の方では和尚の顔をツクヅクと眺めて居りましたが ×ハァ異[ゐ]なことを云ふ奴だ、手前は念仏を唱へて仏さへ守って居ればそれで宜[よ]いではないか、其方[そち]は出家の身を以て罪人を処分をするとは何[ど]うするのだ 左様でございます、別にお見懸けの通り出家のことでございますから私[わたくし]が何[ど]うと云ふ処分も付きませんが、以来此の者が鉄砲を以て往来を致したり又は殺生を致さぬやう改心をさせることでございます、何[ど]うぞ愚僧に免じて御勘弁遊ばして下さいますやう 役人其の方は口で改心をさせると云っても、此の侭[まま]に免[ゆる]したれば又此奴[こやつ]が悪事を働くに違ひない、よって免[ゆる]すことは相成らぬ でございませうが、二度と再び此の者に鉄砲を持たしてノコノコ山へ出かけると云ふやうなことはさせぬ様に、愚僧の弟子と致しまして出家得道[しゅっけとくだう]を致させます、一人[いちにん]出家する時は九族天に生[うま]ると云ふこともありますから、何[ど]うぞ御勘弁遊ばして下さいますやう 役人ナニ、然[しか]らば此の者を坊主にすると云ふのか 左様でございます、愚僧の弟子と致し仏門に入れまして、これまで多くの殺生を致して居[を]りませうから其の罪滅[つみほろ]ぼしの為に愚僧の寺にて仕[つか]へさせることに致しますから 役人ムムン愈[いよい]よそれに違ひないか ハイ何しに偽[いつは]りを申し上げませう

▼出家…僧侶。
▼目礼…えしゃく。
▼相手…相棒。高洲の隠元が出て来て、ようやくたぬき側の役者がそろいましてございます。
▼梨花の冠、瓜田の沓…「梨花に冠をたださず、瓜田に沓をいれず」という故事。疑いを持たれるような行為はせぬものですというたとえ。「瓜田不納履。李下不正冠」
▼半里…一里のはんぶん。
▼御立腹…お腹立ち。
▼表向…おもて沙汰。
▼妻子眷属…ご家族。
▼以来…今後。

役人それ程迄[ほどまで]に其方[そち]が申すことなれば豈夫[よもや]偽言[いつはり]もあるまい、出家得道[しゅっけとくだう]をさせると云ふことなれば此の度[たび]の所は見逃してやる、併[しか]し此奴[こやつ]が此の後[のち]相変[あひかは]らず鉄砲を持[もっ]て歩いて居[を]る以上は、お止山に於[おい]て雉を撃って其の帰途[かへり]役人に見付かって、其奴[そいつ]を誤魔化[ごまか]した等と、後日に至って奇怪[おかし]な風説[うはさ]の立つ時は、拙者に於[おい]ても役目に拘[かか]はる、出家をさすとあれば本日より猟師を止めることであるからそれまでのことだ、併[しか]し若[も]し彼[かれ]が其の出家になることを嫌って、相変らず此の様な真似を致して居[を]った時は何[ど]うする それは必ず愚僧が一旦申し上げたことでありますから、若[も]しか此の者が心得違ひを致して寺を逃げ出すやうなことがありましたなれば、愚僧も地蔵院の住職の隠元でございます、申した言葉は後[あと]へは退[ひ]けませんから、貴方への申訳の為に其のやうなことに相成った節[せつ]は、[からかさ]一本で寺を開[ひら]きますることでございます 役人[いよい]よ違ひないか……こりゃ猟師[れふし][つら]を上げよ 歌吉ヘイ 役人只今其方[そち]が聞き及んだ通りである、これなる出家が命に代へての詫言[わびごと]であるから勘弁のなり難い所であるが、其の方仏門に入[い]るとあるから仏に免じて勘弁してやる、二度と再び猟師姿で居[を]る所を見付けたら其の時は汝の一命は無いぞ 歌吉ヘイ有難うございます、委細承知仕[つかまつ]りましてございます既[す]でに命のない所を御出家様に助けて戴いたのございますから、真底[しんそこ]から私も改心を致しまして、和尚様のお弟子にして戴き、仏に仕へて今まで多く殺生を致しました其の罪滅ぼしを致したうございますから、何[ど]うぞ勘弁下し置かれますやう」とツイツイ当人は泣き出しました、役人も茲[ここ]得心をして 役人[しか]らば此の雉は持ち帰る、二度と再び汝[なんじ]鉄砲を持つやうなことがあったら承知せぬぞ」と歌吉の身体[からだ]を地蔵院の隠元和尚に任して置[おい]て、其の場を後[あと]に引取[ひきと]りまする、

▼出家得道…出家得度。剃髪して仏門に入り僧侶になること。
▼此の様な真似…鉄砲をズドンと撃って殺生をくりひろげる行為。
▼傘一本…僧侶が寺から追い出されるときに持たされるもの。
▼面を上げよ…顔あげろ。
▼出家…僧侶。隠元さん。
▼仏門…仏の教え。お寺。
▼真底から…こころの底から。
▼得心をして…納得をして。

和尚は後姿を見送りまして歌吉に向[むか]ひ、 和尚これこれお前もう手を上げなさい、併[しか]しお役人も漸[やうや]う御承知の上でお引上げに相成ったのだ、お前私の弟子となってこれから罪滅ぼしをしなさい 歌吉有難うございます、それでは万事和尚様宜敷[よろしく]お願ひ申します」と、野郎も茲[ここ]で呆然[ぼんやり]として了[しま]ひまして「マァ此の和尚のお蔭で危険[あぶな]ひ命が助かった」ホッと一息を継いで立上[たちあが]りますと 和尚サァサァ暮れぬ中[うち]に早く立帰[たちかへ]りませう」とこれから隠元と云ふ和尚が彼[か]の歌吉を連れまして徳島の城下の方へ道を急いで帰って参りましたが、其の途中にて「愚僧はこれから一二軒檀家[だんか]へ立寄って、それから地蔵院へ帰りますが、最[も]う寺までは僅か二三町の所だ、サァ此処に床屋があるではないか、お前は此の床屋で兎[と]も角[かく]頭を円[まる]なさい、愚僧は元来剃刀[かみそり]を持つことは不得手[ぶえて]であるから、お前は床屋の親方を頼んで髪を剃って貰って、寺へ来なさる時分には私[わし]は戻って居やうから、其の上引導[いんだう]を授けて屹度[きっと]お前を出家にして上げやう 歌吉有難うございます、それでは和尚様何[ど]うぞお願ひ申します」漸[やうや]う茲[ここ]で隠元に別離[わかれ]を告げまして「アァ飛んでもないことになって了[しま]ったものだ、仮令[たとひ]坊主にならうともマァ命さへ助かって此の後[のち][あ]の和尚さんのお弟子にして貰って、仏の道を学んで行くやうなことになったら、彼[あ]の様な金襴二十五条[きんらんにじゅうごじゃう]の袈裟[けさ]でも身に纏[まと]って、立派な名僧にもなれることであらう何よりこれは出世の捷道[ちかみち]であるわい」と自分も其の気になりましたが、床屋へ這入[はい]って参りました

▼手を上げなさい…土下座をやめなさい。
▼野郎…歌吉。
▼頭を円め…頭の髪の毛を剃ること。剃髪。
▼不得手…とくいじゃない。

歌吉ヘイ御免なさいまし、親方今日[こんにち]は」最[も]夕まぐれのこと、其の床屋の親方と云ふのは柱に靠[もた]れまして鏡を見ながら頻[しき]りに毛抜[けぬき]で自分の生えて居る髯[ひげ]を抜いて居りましたが 床屋イヤ入[い]らっしゃいまし、明[あ]いて居りますからこれへお掛けなさい 歌吉モシモシ親方、私[わた]しゃ髪を結[ゆ]って貰ふのぢゃないので、御面倒でございますけど、チョッと私を坊主にしてお呉[く]んなさい 床屋エェお前さんは猟師の歌吉さんぢゃァないか、坊主にして呉れ……坊主になるとは奇怪[おかし]なことを云ひなさるな、大切な[まげ]を切って落とすと云ふのは何[ど]う云ふ訳合[わけあひ]である、坊主になると云ふのは其様[そんな]に詰[つま]らぬのか、能[よ]く世間の人が云ふぢゃァないか、詰らぬ奴は坊主になれと云ふが、何で歌吉さん坊主になるんだ 歌吉私はお蔭で命を拾ひました、今日は飛んでもないことをしました、実は斯様々々[かやうかやう]の訳合」と青くなって自分が今日[こんにち]失敗を取った其の次第を床屋の主人[あるじ]に話を致しますと、主人[あるじ]も暫[しばら]く考へて居りましたが、 床屋それはエライことをしなすったな、ぢゃァ何かい此の地蔵院と云ふ寺の和尚さんが…… 歌吉左様でございます、命乞ひをして貰ひまして和尚さんの弟子に今日からして貰ふのでございます 床屋[ど]うも奇怪[おかし]いぢゃないか、お前が弟子にして貰ったのなら和尚様と同道して寺へ帰って仏様の前でマァ十念の一ッも授けて貰ふとか、それ相当に法があって坊主になると云ふことはあるが、床屋で髷[まげ]を切り落すと云ふのは何[ど]う云ふことだ 歌吉それが和尚様は剃刀を持つことは不得手だから一寸[ちょっと]用事もあるから檀家の方へ一二軒行って来る、お前は其の間に此の床屋で髪を斬って貰って坊主になって来るが宜[よ]い、さすれば私が十念を授けてやらうと斯[か]う仰[おっ]しゃるので 床屋ヘーン、でお前さん坊主になる心算[つもり] 歌吉ヘイ二度と再び私の頭に髷のあるのを、此度[こんど]役人に見付けられましたら命が無いのでございます、御面倒ですけれどチョイと剃って下さいまし 床屋余りそれはお前思ひ切りが宜過[よす]ぎるぢゃァないか、男子たるべきものが命を奪[と]られるとか髷を取られるとか云ふことは余程のことでなければならん、併[しか]しお前さんが俗を離れて仏門に入[い]らうと云ふなら[せ]いては事を仕損じると云ふことがあるから、今夜は家[うち]へ帰って[とく]親類に相談をした上で明日でも又お前さん親類なり同道の上で来[き]さっしゃい、然[さ]うすればお前さんの髷を落しても搆はぬと云ふ証拠人もあることだから私も安心をして何時[なんどき]でも剃り落して上げますから 歌吉御親切は有難うござんすが、親や兄弟に話をして御覧なさい、却々[なかなか]一朝一夕ではなれません、それよりは思ひ切って坊主になってから相談をしやうと思ひますから、何[ど]うぞ斯[か]う云ふ中[うち]にも心が急[せ]きますから髷を切り落して下さいますやうに願ひます 床屋左様か、お前さんさへ承知なら私は拒[こば]むことはない併[しか]し後で後悔はあるまいな 歌吉ヘイヘイ滅多に然[さ]う云ふことはありません、お邪魔でございますけれど、一ッやって下さいますやう」と、段々歌吉が頼みました所から、床屋の主人[あるじ]も不思議に思ひながらも、余程此の人は思ひ切りの宜[よ]い人であると遂[つひ]に坊主に剃り落して了[しま]ひました 床屋サァこれで宜[い]いか、 歌吉大きに有難うございます、これでスッパリ心残りがございません」其処で自分は幾らか月代料[さかやきれう]を払って表へ出ますと、俄[にわ]かに頭が寒くなって来た「坊主になった心持[こころもち]は変なものだ、併[しか]し今から地蔵院を尋ねて行った所がもう日もズップリと暮れて居るし、和尚さんは未[ま]だ帰って居ないと云ふやうなことだと、何だか[はた]の衆は知らないから体裁[きまり]が悪い、私[わし]も寺へ這入[はい]ったら然[さ]う度々[たびたび][うち]へ帰ることも出来ないから、今宵[こよひ]は兎[と]も角[かく]家の寝終[ねおさ]めとして、未練な様であるけれども兄弟にも[いとま]を告げ、それから寺へ行くことにしやう」悄々[すごすご]歌吉は自分の宅へ帰って参りますと、其のまま其の夜は寝込んで了[しま]ひました、

▼夕まぐれ…夕暮れ。
▼髪を結って貰ふ…ちょんまげを結わいて整えてもらう。
▼髷…ちょんまげ。
▼斯様々々の訳合…かくかくしかじかと言ったわけで。
▼急いては事を仕損じる…そのときの勢いであまり考えもせずに行動してしまうと、何かと損することがあるよというたとえ。
▼篤と…とっくりと。
▼ズップリと暮れて…とっぷりと日も暮れて。
▼傍の衆…まわりのひとびと。
▼暇を告げ…別れを言って。

所が其の翌朝のことでございました、トントン表を叩くものがありますから、不図[ふと]目を醒[さ]ました歌吉は 歌吉誰だい オイ大変にお前[まへ][よ]く寝入って居るな、最[も]う大変に遅いよ、早く起きないか、今日は風もない穏[おだや]かな天気だ、ボツボツ仕事に行かうと思うんだ」これは仲間の猟師と見えまして頻[しき]りに表を叩いて居りますから不図[ふと]気が付いた歌吉は庭へ下りて表を開け互[たがひ]に顔を見合せ、彼[か]の表に立って居る男は歌吉の姿を見て驚いた オヤ歌吉お前何[ど]うした、坊主になったのか」と云はれて当人も驚いて、不図[ふと]頭に手を上げて見ると奇麗な坊主でございますから「オヤ何で乃公[おれ]は坊主になったのであらう」と驚きながらも昨日のことを熟々[つくづく]考へて見ると、全くお止山[とめやま]に於[おい]て鉄砲を撃って役人に見付かって、其処で出家の斡旋[とりなし]で地蔵院の和尚に助けて戴いたと云ふ、其の訳を話しますと、驚いたのは友達で、 お前も随分慌てた男だ、地蔵院と云ふ寺が何処にあるのだ 歌吉エッ、彼[あ]の床屋から二三丁前方[むこう]の方に…… 冗談云っちゃ可[い]けない、此の辺に地蔵院と云ふ寺があって堪[たま]るかお前[まへ][ど]うかして居るな」云はれて歌吉は気が付いて考へて見ると、成程自分は兄弟もあれば友達もある、それに一言の相談もしないで仏門に這入[はい]った坊主の言葉に従ったとは云ひ条、其の地蔵院と云ふ寺が何処で何[ど]う云ふ所にあるか解らぬことでございますから、其処で狂気[きちがひ]のやうになって、此の地蔵院と云ふ寺を捜したが一向[いっかう]判別[わか]りません、第一隠元と云ふやうな出家がありさうなことはない、これ全く高須の隠元と云ふ狸、彼[か]の衛門三郎と云ふ狸が日頃から自分達の仲間の撃たれたり、或[あるひ]は無暗[むやみ]に殺生をする所から、強情我慢な歌吉と云ふ奴を[か][あざむ]いて坊主にして、斯くて多く撃たれた仲間狸の菩提[ぼだい]を吊[とむら]ってやったと云ふ、誑[だま]しやうも斯う云ふ誑[だま]しやうになりますと、随分自分達の追々[おひおひ]官が上[あが]と云ふやうなことでございますから、仲間の者は励んで斯う云ふやうな修行を致すのでござます、又或時[あるとき]私共の仲間が誑[だま]さうとしても余[あん]まり強情我慢な奴になりますと何[ど]うも欺[だま]せぬものでございまして、欺[だま]し損なったことも間々[まま]あるのでございます 茂右ハハァそれは面白いな、人間を欺[だま]し損なったと云ふのは何[ど]う云ふ訳で欺[だま]し損なったのか聞きたいものだ」と茂右衛門は膝[ひざ]を進めて問ひかけました。

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▼坊主…坊主あたま。
▼云ひ条…言ったものの。
▼斯く…こんなふうに。
▼官が上る…おたぬきとしての官位があがってゆく。
校註●莱莉垣桜文(2012) こっとんきゃんでい