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実説古狸合戦(じっせつこりがっせん)第九回


第一回
第二回
第三回
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第五回
第六回
第七回
第八回
第九回
第十回

もどる

第九回

偖又[さてまた][ここ]に金長[きんちゃう]狸はこれも先程より大木の上にあって、小石を飛ばして敵を悩まして居りましたが、敵は眼に余る大勢のことでございますから、遂には其の中へ飛び込み、当るを幸[さいは]ひ牙を鳴らして喰ひ散[ちら]す 金長深夜寝所[しんじょ]へ忍び込むと言ふのは甚[はなは]だ以[もっ]て汝等[なんぢら]は卑怯な奴、汝等如き藪狸[やぶだぬき]の牙にかかる金長と思ふか、此の四国に於[おい]て隠れもない犬神[いぬがみ]も怖れをなす、日開野[ひがいの]鎮守の森に数百年棲息[すまゐ]をなし、其の上[うへ][こ]の度[たび]大和屋茂右衛門[やまとやもゑもん]殿の守護を承り仮令[たとひ]官位はなくとも神に崇[あが]められたる此の金長の牙の勢[いきほひ]、汝等を鏖殺[みなごろし]にして呉れん」 と多く群がる奴を当るを幸[さいは]ひ、喰ひ廻ると云ふ有様でございます、実に其の勢[いきほひ]は狸の所為[わざ]とも思はれません、此の金長の牙に懸[かか]って見る見る中[うち]に数十匹は其所[そのところ]へ血烟[ちけむり]立って打倒[うちたふ]れ、左右枕を並べて 討死[うちじに]をすると云ふ有様であります、

▼大勢…大軍勢。
▼藪狸…野良だぬき。
▼大和屋茂右衛門…日開野で営業をしていた染物屋さん。金長の恩人。
▼官位…正一位など、神様としての官位。
▼枕を並べて…並んで倒れてる。

此の時[とき]大将六右衛門[ろくゑもん]はこれを眺めまして大いに憤[いきどほ]り 六右[にっ]くい所の金長奴[め]、彼[かれ]如何程[いかほど]の勇あるとも、多寡[たか]の知れたる敵は二匹、我々斯[か]く大勢取巻き、不覚を取るとは如何にも残念、此の上は礫攻[つぶてぜめ]を以[もっ]て彼を打殺[うちころ]して呉れん、それ者共、平素[ひごろ]手馴れたる礫[つぶて]を飛ばせ」 と下知[げぢ]を致しますることでございますから、部下は遠くに離れ礫[つぶて]をドンドン雨霰[あめあられ]の如く打出[うちいだ]すことでございます、何分金長は稲麻竹葦[とうまちくゐ]の如くに取巻かれまして、四方八方より飛び来[きた]る小石に甚だ迷惑を致し、身体[しんたい]五六ヶ所に当りまして皮は破れ、鮮血それへ迸[ほとばし]るといへど 「何条何程のことやあらん」 と飛び来[きた]る奴を彼方此方[あなたこなた]へ身を躱[かは]して居りました、実に金長は日開野に於て剛の者と言はれたる天晴[あっぱ]れの獣[けだもの]でございまするといへど、其の身は金鉄にあらざれば、見る見る中[うち]に敵の打出[うちいだ]す礫[つぶて]の為に今は数ヶ所の手傷を蒙[かうむ]りまして、身体[しんたい]は宛然[さながら]唐紅[からくれなゐ]の如く、恰[まる]で血の池から上[あが]ったやうな有様でございまする、実に身の毛も疎立[よだ]つばかり、なれども金長少しも屈せず流るる血潮を飲んで咽喉[のんど]を潤[うる]ほし、ホッと一息[ひといき]を吐[つ]きながら 金長ヤァヤァ津田方[つだがた]奴原[やつばら]確かに聞け、汝等[なんぢら]卑怯にも大勢[たいぜい]して飛道具とは何事である、我[われ]一匹も討つことが出来ないか、偖々[さてさて][なげか]はしい所の弱虫である」 と言ひながらも八方へ荒れ廻って 金長何故[なぜ]近寄って尋常の勝負をせん、六右衛門は何[いづ]れにあるや、これへ来[きた]って尋常の勝負に及べ」 と睨[にら]み廻しまして、多くの狸を当るを幸[さいは]ひ、喰ひ散らすことであります、

▼礫攻…小石や石ころを投げ付けて攻め込みます。遠距離こうげき。
▼下知…命令。
▼何条何程のことやあらん…こんなのなんともない。
▼剛の者…つわもの。
▼津田方…六右衛門の軍勢。
▼奴原…奴輩。やつらども。
▼荒れ廻って…暴れまわって。

サァ斯[か]うなって見ると最[も]う到底[たうてい][たま]りません 却々[なかなか]金長と云ふ奴の歯節[はぶし]はエライことだ、オイ誰か来て後から睾丸[きんだま]を打[ぶ]っかけろ」 中にも睾丸自慢[きんたまじまん]の奴は ×乃公[おれ]は広げる時は充分八畳敷はあるけれども、今宵[こよひ]は縮み上って却々[なかなか]拡がらぬ 馬鹿なことを言ふな、今此の場合に至って貴様の自慢の睾丸[きんだま]が拡がらぬことがあるか、馬鹿なことを言ふな、乃公[おれ]のでも四畳半や五畳は広がるぞ、誰が後でポンポン音を立てて居るのは、此の場合にポンポン皷[つづみ]を鳴らして居[を]る奴があるか けれども乃公[われ]が此の高丘[たかみ]にあれば、金長は滅多に此処まで背後[あと]を追駈[おっか]けて来[こ]なから大丈夫と思って、それで自慢の腹皷[はらつづみ]を打って居るのだ ×此の場合に腹皷もないものだ」 六右衛門は己[おの]れが部下へ下知を致し、芒[すすき]の穂を採ってこれを采配[さいはい]の代りに 六右進め、乗込め、彼方[あれ]に居[を]るのは金長ならん、喰ひ殺せ」 と下知を致して居ります、

▼歯節…たぬきたちは戦いをするときに咬み合い喰い合いをするので「うでっぷし」では無くて「歯ぶし」をきたえているようです。
▼采配…軍陣を指揮するときにふりまわすはたきみたいな形のもの。

[さて]こそ彼奴[きゃつ]は六右衛門ならんと思ひ、牙を瞋[いか]らし 金長[おの]れ一啖[ひとくら]ひに喰ひ殺して呉れん」 とドンドン追っ駈けましたが、恰度[ちゃうど]此の時に当っては、彼[か]四天王の一匹作右衛門[さくゑもん]の為に遥かの森に於て喰ひ殺されまして、名誉の最後を遂げたる折柄[をりから]でございます、けれども金長更に左様なことは知らず致して、六右衛門を目懸[めが]けて追駈[おっか]けましたることでございますから、其の勢[いきほひ]に六右衛門 六右オイオイ大変な勢[いきほひ]で追駈[おっか]けて来やァがった、これには到底当り難[がた]」 と思ひまして、ドシドシと卑怯未練にも穴観音の方へ逃げ出[いだ]した、大将[か]くの如くでございますから、何条以[なんじゃうもっ]て部下の者は一匹を致して踏止[ふみとど]まって戦ふと云ふことをしませうや、共崩れと相成りまして、ドシドシ逃げ出[いだ]しまする、其奴[そいつ]を彼方此方[あなたこなた]へ追詰め追っ掛け、実に金長は手当り次第に喰ひ殺したることでございますけれども其の身も数ヶ所の傷を蒙[かうむ]りまして、殊[こと]に傍[かたはら]の藪際[やぶぎは]より何者とも知れず、打付[うちつ]けましたる礫[つぶて]の為[た]め足の骨を挫[くじ]かれましたることでございますから、片足は跛足[びっこ]を引きまして、蹌踉[よろぼ]ひ蹌踉[よろぼ]、八方に眼[まなこ]を配りましたる所、何[ど]うも自分の傍[そば] には今敵は居りません 「[さて]は六右衛門奴[め]、汝[おの]れが斯く目論見[もくろんみ]に及んでこれへ押寄せながら、逃げ出[いだ]すと言ふのは卑怯な奴、此の上からは穴観音の彼が館[やかた]へ追込[おひこ]んで喰ひ殺して呉れん」 と言ふので、手傷を屈せず、遥かに逃げ行く所の大勢の後へ、四足[よつあし]を飛ばして追っ駈けんと致します、

▼鷹…藤の木寺の鷹。金長のいちの乾分。
▼四天王…多度津の六右衛門、川島の九右衛門、川島の作右衛門、屋島の八兵衛の四匹。
▼作右衛門…川島の作右衛門。
▼当り難い…対戦しづらい。
▼穴観音…津田浦にある六右衛門のすみか。
▼斯くの如くでございますから…こんなことでございますから。
▼蹌踉ひ蹌踉ひ…よろよろしながら。
▼逃げ行く所の大勢…穴観音に引き返して行っちゃう六右衛門の軍勢たち。

すると左手の薄暗い森の中[うち]へ入込[いりこ]む様子でありますから、其の森の中[うち]へ対してドシドシと追ひ込みましたが、今これへ逃げ込んだには違ひないけれども、何処[どこ]へ参ったか更に其の様子合[やうすあひ]が分明[わか]りません、金長は無念と思ひ驀然[まっしぐら]に追はんと駈け出しましたる所、ヒョッとそれへ躓[つまづ]いてヨロヨロ蹌踉[よろめ]きましたのは立木[たちぎ]にあらず、何物か柔かい皮蒲団[かはぶとん]のやうなものが足に躓[つまづ]きました、何物ならんと近寄って見れば斯[こ]は其[そ]も如何[いか]に、我が片腕と頼みました、彼[か]の家来の鷹が左[さ]も残念さうに牙を露[む]いて、殊[こと]に咽喉許[のどもと]より血はタラタラ流れまして敢[あえ]なき最後を遂げて居りますから、大いに驚いたが、見ると口は耳元迄裂けましたるやうな勢[いきほひ]で、口中の血をペロペロ舐めながら彼方[あなた]へ逃げ行かんとするのは川島作右衛門、偖[さて]は彼奴[きゃつ]の所為[しわざ]であるかと平素[ひごろ]の勢[いきほ]ひ百倍増した彼[か]の金長は 金長ヤァヤァ作右衛門、汝[なんぢ]我が腹心の鷹を能[よ]くも斯様に喰ひ殺した、ヤァヤァ待てッ」 と言ひながら、喰[くら]ひ付かんの勢[いきほひ]でございますから、此の手合[てあひ]に懸[かか]っては堪[たま]らぬと後をも見ずして、一散に其の侭[まま]、ドシドシドシドシ駈け出[いだ]し、遂に何処[いづく]ともなく作右衛門は逸疾[いちはや]くも逃げ散って了[しま]ひました、素[もと]より大将六右衛門は逃げ去った後のことでございますから、此の辺に一匹と致して踏止[ふみとど]まる者はない、何[いづ]れも敗走致して、穴観音の本陣を望んで逃げ出[いだ]して了[しま]ひました、依って再び足を停[とど]めまして残念ながら後[あと]へ取って返し傍[かたはら]に倒れて居りまする鷹を漸[やうや]う抱き起[おこ]し、彼の耳元へ口を寄せまして

▼様子合…状況。

金長こりゃ鷹[たか]気を確かに持て、金長であるぞ、心を確かに持て」 と種々様々に介抱すると云へど、あら悲しや、今は此の土に魂魄[こんぱく]を止[とど]めて居りまするか、実に生けるが如き無念の相を顕[あらは]して、身体[しんたい]は氷の如くに冷え切った様子 「[さて]は最早[もはや]養生叶はんか、残念な事を致した、鷹[たか][なんぢ]我が意見に従ひ呉れて、一度[ひとたび]今夜[こよひ]彼が鉾先[ほこさき]を避ける時には、此の憂苦[うれへ]はなかりしものを、素[もと]より充分の働[はたらき]をするといへど、敵は目に余る大軍、味方は手前と我等が二匹、残念のことを致したことである、汝の討死[うちじに]小鷹[こたか]なり熊鷹[くまたか]両名の伜[せがれ]が承[うけたま]はったら、如何[いか]に残念に心得るであらう、汝[なんぢ]物数ならざる此の金長を慕ひ、能[よ]くも今夜[こよひ]の働きを致して呉れた、併[しか]し其の方の討死[うちじに]も我が為ゆえ、決して此の金長は忘却はせぬ、必ず遠からぬ中[うち]に卑怯極[きは]まる六右衛門、屹度[きっと]穴観音に逆寄[さかよ]をして汝の[あだ]を報じいで措[お]くべきや、彼[か]の六右衛門を討取り、又今逃げ行ったのは、川島作右衛門ならん、彼が生首を手前の御霊[みたま]に供へて、無念は屹度[きっと][はら]してやる、冥途[めいど]にあって相待[あいま]ち居[を]」 と生きたる狸に物言ふ如く、実に暫[しば]しの間は悲嘆[ひたん]の涙に暮れましたが、最[も]う其の中[うち]鶏鳴[けいめい][あかつき]を告ぐる頃ほひに相成りまして、諸所[ほうぼう]に唄ふ鳥の声も幽[かす]かに聞[きこ]えることでございまする、

▼魂魄…たましい。
▼彼が鉾先…六右衛門の軍勢。
▼憂苦…うれい。かなしみ。
▼小鷹なり熊鷹…ふたりとも、藤の木寺の鷹のむすこたち。
▼逆寄せ…逆襲、反撃。
▼仇を報じ…かたきをうつ。
▼冥途…あの世。
▼鶏鳴…コケコッコー。
▼諸所…あちこち。

自分は身体[しんたい]を舐[な]めて流るる血潮を止[とど]め、イデ鷹の[とむら]を致して、此の侭[まま]穴観音へ乗り込んで六右衛門と雌雄[しいう]を決せんと心得ましたが、熟[よ]く考へて見ると何分鹿の子[かのこ]の意見もあり早まったことを致しては、後日に人の物笑ひと相成る、専[いっ]引取って部下の者へも此の世の訣別[わかれ]を告げ、遖[あっぱ]れ最後の決戦を致さんと言ふの考へでございまして、漸[やうや]うのことに彼[か]の鷹の死骸を喰[くは]へまして、傍[かたへ]の森の高丘[たかみ]の方へ乗込み、落葉を八方へ掻き分け一ッの窖[あな]を掘って、此の所へ鷹の死骸を埋[うづ]めまして、漸[やうや]う墓標[しるし]と致して一ッの石をこれに置きました、遥[はる]かに下[さが]って暫[しば]らくの間は黙礼を致して回向[ゑかう]をしてやりましたることでございます、何分[なにぶん]人間様の目に懸[かか]らぬ其の中[うち]に、夜[よ]も何[ど]うやら明けたる様子である、残念ながら一度[ひとたび]は引取らんと此の地を其の侭[まま]振り捨てまして、我は漸[やうや]う捷路[ちかみち]を辿り、ドンドンと佐古川[さこがは]の方へ進んで参りましたが、もうガラリと夜は明けましたることでございますが、何分[なにぶん]此処は一ッの流れ川でございまして、水嵩[みづかさ][まさ]って物凄く、容易にこれを渡ることは出来ません、何[ど]うしたものであらうしらんと、暫[しばら]川端[かはばた]へ来まして途方に暮れて佇[たたず]んで居[を]る折柄[をりから]、上手[かみて]の方より鼻唄を唄ひながらやって来る声は追々近くへ聞[きこ]えて参りますから、[さて]は人間が来[きた]るのであらうと、其の身は沈[じっ]と杭[くひ]の蔭に潜[ひそ]み息を圧[ころ]して考へて居りますると、これは徳島の方へ通ふ高瀬舟[たかせぶね]と見えまして、水棹[みざを]を振って追々とこれへ漕いで参りました、

▼吊ひ…「弔」を「吊」の字で書くのは、古くからの用法のひとつです。
▼雌雄を決せん…勝負をつける。
▼鹿の子…津田山にすんでいるたぬき。小芝姫のお世話がかり。
▼引取って…引き返して。撤退して。ふるさとの日開野に戻って。
▼ガラリと…がらっと。
▼水嵩増って物凄く…川の水量が増えていて、流れも急になってしまってる。
▼川端…川のほとり。

其奴[そいつ]を見るなり「[し]てやったり」とが油断を見透[みすか]し、軈[やが]て此の船へ岸の方よりヒラリと飛び乗りました、其の船を伝うて前方[むかふ]の岸へ渡る 危ないぞ、気を付けよ、石に衝[あた]ってはならぬ、何[なん]で此様[こんな]に曲[まが]るのであらう」 と船頭はこれを直さんとして居る間に、到頭[たうたう]前方河岸[むかふがし]飛び上りましたのは、船頭には少しも解りません、其の侭に致してドンドンドンドン駈け出[いだ]しましたることでございまして、彼[か]の日開野を望みまして、漸[やうや]う立戻[たちもど]って参ると言ふやうなことに相成りました、

▼彼…高瀬舟の船頭さん。
▼前方河岸…むこうぎし。

それは偖措[さてお]き此処に又穴観音の大将六右衛門の家臣、傅役[もりやく]の一人[いちにん][か]の鹿の子でございます、漸[やうや]うのことに金長へ対しまして、我は先廻りを致して危ない所を知らせ、返り忠を遂げましたるものの、若[も]しか此の事露顕をせんかと心を悩まして、漸[やうや]う館[やかた]へ引取って見ますと、大将は今四天王を始め夜討の手合[てあひ]、金長が旅館へ押駈けやうと致して、既に門前へ出[い]でやうと云ふ大勢[たいぜい]の騒[さはぎ]、[救+心][なま]じ生中[なまなか]斯様[かやう]な所へ飛び込んで参って、主人のお眼通りを願ったら、我も先手[さきて]にされやうと言ふことにもならう其処で最[も]う自分は穴観音の館へ這入[はい]らずして他目[ひとめ]に懸[かか]からぬ中[うち]にと思ひ、其の身は津田山の森へ対して、ドンドン逃げ帰りましたることでございまして、茲[ここ]で其の夜はにも話をしてヂッと今宵[こよひ]の戦[たたかひ]の様子を他所[よそ]ながら考へて居りました、偖[さて]翌日に相成りますると、部下の眷族を以[もっ]て此のことを穴観音へ注進でございます、昨晩無断で立帰りましたるのは俄[にはか]に腹痛[ふくつう][はげ]しく相成り実に御大将にお目通りを願ふと言ふのも心苦しく、それが為に残念ながらも、古巣へ立帰りまして薬湯[やくたう]の手当を致して居りまする、何分[なにぶん]病気激しうございますから、少しにても快癒次第、再びお館へ参って主君のお目通りを仕[つかまつ]ります、又何か御用がありましたなれば、御遠慮なく仰せ付け下さいまするやう」 と体裁宜[ていさいよ]くこれを注進して置いて、其の身は沈[じっ]と我が宅に養生と云ふ体裁で引篭[ひきこも]って了[しま]って居りまする、

▼露顕をせんか…ばれてしまわないだろうか。
▼妻…鹿の子のお嫁。小鹿の子たぬき。
▼薬湯の手当…おくすりを煎じてのんで。

其様[そんな]ことは夢にも知らぬ津田方に於きましては、夜明方[よあけがた][やうや]うのことに穴観音の館へ逃げ帰りまして、或[あるひ]は挫[くじ]いて入[い]れる奴もあれば、大切なる睾丸[きんだま]を破って怪我[けが]をして居る奴もあり、殊[こと]二匹の剛勇に懸[かか]って礫[つぶて]で頭を打破[うちわ]られた奴もございます、館へ帰ったのも首尾能[しゅびよ]く凱旋[がいせん]をしたのではない、逃げ帰ったのであるから命あっての物種[ものだね]と早速医者を呼び、薬、繃帯[ほうたい]と種々様々の手当を致しまする、六右衛門は漸うのことに自分の居間へ来[きた]ってホッと一息[ひといき]を吐[つ]き 六右世の中に恐ろしい奴もあるが、実に噂の通り金長と云ふ奴は広大もない歯節[はぶし]の強健[たっしゃ]な奴だ、余程彼が為に我が味方の各自[めいめい]を喰ひ殺された、誠に残念の至り、定めて彼が逆襲[さかよせ]をするのではあるまいか」 と、却[かへ]って今はそれを気支[きづか]ひまして途方に暮れて居りますると、四天王の手合[てあひ]も漸[やうや]うこれへ引上げて来ましたが 六右[しか]し此の侭にては豈夫[よもや]金長も捨て置くまい、汝等[なんぢら]一統の銘々[めいめい]は如何[いかが]相心得[あいこころえ] 御主君実に残念の至りでございました、彼[あ]れ程の歯節[はぶし]とは思ひませんでございましたが、金長と傍[そば]に居[を]った彼[あ]の鷹と言へる奴、成程[なるほど]噂に優った豪傑でございます、何[ど]うも併[しか]し不思議でならぬと言ふはが昨夜の手配りでございます、寝所より出[い]でて荒[あば]れたるものなれば兎[と]も角[かく]、己[おの]れが居間は藻抜[もぬ]けの殻[から]と致して置いて、却[かへ]って我々を計[はか]って庭前[ていぜん]の木の絶頂にあって、殊に数多[あまた]の礫[つぶて]を我々味方の頭上より打被[うちか]け、大きに数多の者が悩まされましたが、我々は門を打破[うちやぶ]ったのではない、寝[やす]んで居る所へ忍び込んだのでございます、それで玄関より進み込んで参る其の間に、仮令[たとひ]如何[いか]なる勇士といへど、彼[あ]あ早く手配りの届きさうなことはないのでございます、これは誰か敵へ内通をしたものがあると思はれまする 六右左様ぢゃ、此の六右衛門も不思議に相心得[あいこころえ]る、如何に手早き金長と雖[いへど]も、彼[あ]れだけの手配りは然[さ]う早く出来さうなことはない、何[ど]うもこれは不思議である」 と言ふと、

▼津田…六右衛門がわのたぬきたち。ここでは金長たちを襲って帰還してきた軍勢たち。
▼二匹の剛勇…金長と鷹。
▼彼…金長たち。
▼絶頂…てっぺん。

此の時[とき]屋島の八兵衛席をそれへ進み出[い]でまして 八兵御主人、今宵[こよひ]敵の充分に用意のあった其の次第を貴方は御存知ありませんか、昨夜我々一統が押寄せやうとするのを先廻りをして敵へ内通を致したるものが、此の館の中[うち]に確かにあります 六右何と言ふ、然らば我が手配[てくばり]を敵へ内通をしたとは八兵衛何奴[なにやつ]が左様なことを知らした、それへ言へ 八兵申し上げます、実は貴方等[あなたがた]が昨夜金長を討取ると言ふ評定[ひゃうぢゃう]一決なりまして、皆[みな]繰出[くりだ]さんと部下の銘々それ相当に支度[したく]を致して居りましたが、此の時[とき]此の八兵衛熟々[つくづく]考へましたのは、敵の寝込へ乗込みまして討取るのに手間暇[てまひま]の入[い]りさうなことはない、なれども他[た]の者に功名[こうめう]をされてはならぬ、金長の首は此の屋島の八兵衛が揚げて呉れやうと云ふ考へ、よって各々[おのおの]御一統が此の穴観音を乗出さうとする前に、拙者は先廻りをして彼が旅宿の様子を見澄[みすま]して置いて、これから斯[か]うして忍び込むと言ふ考へを付けて置かなければ、勝手知らない所で若[も]し踏み迷ふては難渋[なんじふ]と心得て、それで各位方[おのおのがた]のお乗出[のりだ]しになる一足先へドンドン駈け出しました、漸[やうや]う津田八幡[つだはちまん]の森の裏手と言ふことを聞いて居るから、彼[か]の金長の旅宿へ進まんとしたる時、深夜に及んで金長の旅宿の門の潜[くぐ]りを内部[うちら]より誰か開くものがある、オヤオヤ未[ま]だ未[ま]だ誰か寝入らずに居[を]る者があるか、こりゃ見付かっては一大事と思って傍[かたはら]の森の中へ隠れまして、其の門を出る奴をソッと眺めました、すると御主君、他者[たのもの]にあらず、津田山[つだやま]森に棲居[すまゐ]を致す鹿の子でございます、彼は門より外へ出ますると、そっとこれを閉め寄せまして四辺[あたり]を見廻し、コッソリ忍んで其の侭に己[おの]れが古巣[ふるす]へ帰る所を確かに私[わたくし]は見届けました、オヤオヤ今頃鹿の子は金長の旅宿へ何用あって参ったことである、と考へましたが偖[さて]こそ敵が充分手配[てくばり]があった所から熟々[つくづく]考へて見ますと、これ全く金長の許[もと]へ鹿の子奴[め]内通をして、今夜[こよひ]君の押寄せると言ふことを知らしたものと見えます、依って金長は却[かへ]っ計略の裏を掻いて我々多くの寄手[よせて]を悩ましたもののやうに思ひます、確かに鹿の子が金長の旅宿より出[い]でましたのを、私[わたくし]は見届けましてございます

▼屋島の八兵衛…六右衛門の下についている四天王のたぬきのひとり。
▼押寄せ…攻め込む。
▼内通を致したるもの…密告者。うらぎりもの。
▼手配…作戦。
▼功名…てがらを立てる。
▼揚げて呉れやう…討ち取ってやろう。
▼乗出さう…出陣しよう。
▼寄手…攻め込む軍勢。

これを聞いたる六右衛門は両眼[りょうがん][かつ]と見開いて、牙を噛み鳴らし 六右[なに][しか]らば鹿の子奴[め]が我々の相談を敵へ洩[も]らした、ムムン道理で毎時[いつ]も我が館へ出仕を致し、無断で引取[ひきと]りさうな奴でない、然[しか]るに今朝[こんてう]鹿の子の許[もと]より、昨夜俄[にはか]に腹痛激しく其の病気養生の為[た]めに君の一言[いちごん]のお言葉もなく無断で引取り、養生を致し今は薬湯[やくたう]の手当を致して居ります等と言って我を欺[あざむ]く悪[にっ]くい鹿の子奴[め]、汝[おの]れ其の分に捨て置かうや不埒[ふらち]極まる奴である、主[しゅ]の秘密を敵に洩[も]らすと言ふ売国奴[ばいこくど]に等しい奴だ、ヤァヤァ誰かある、今より津田山のが棲家[すみか]へ乗込んで、彼[か]れが首を打落[うちおと]して参れ」 川島九右衛門は 九右アイヤ御前[ごぜん][しば]らくお待ち遊ばせ、鹿の子と雖[いへ]ど却々[なかなか]天晴[あっぱ]れな勇士でございます、若[も]しか仕損ずる時には、却[かへ]って彼に抵抗の用意を充分にさせますと、これ由々[ゆゆ]しい所の一大事、それよりか物[もの]柔らかく何か秘密の評定に就[つい]て、其方[そのほう]へも申し聞かす一役があるから参れとお呼び寄せに相成りまして、其処で彼奴[きゃつ]が此の所へ乗込んで参りまする其の時に昨晩何用あって金長の旅宿へ参ったと言ふことをお責め遊ばせ、彼が言開[いひひら]が立てば宜[よ]し、若[も]し其の言ひ開きの出来ない時には速[すみや]かに君のお目通りに於[おい]て喰ひ殺すとも晩[おそ]きにあらず、急[せ]いては事を仕損ずると言ふ譬[たと]へもある兎[と]も角[かく]鹿の子をこれにお呼び寄せに相成りまするやう」 と、頻[しき]りに老功[らうこう]だけあって川島九右衛門、これを停[と]めましてございます、一統の者も実[げ]に有理[もっとも]と思ひまして、其処[そこ]で部下の豆狸[まめだぬき]の中[うち]気転[きてん]の利[き]きたるものを一匹呼び出[いだ]しまして 六右[なんぢ]これより津田山の鹿の子の古巣へ参って彼を呼び出し、斯様々々に申せ」 と云ふ使者[つかひ]であります、心得ましたと主人の命令を承[うけたまは]りまして豆狸は道を急いでドンドン駈け出しました、

▼誰かある…誰かでてこい。
▼彼…鹿の子たぬき。
▼御前…六右衛門さま。九右衛門の六右衛門への呼び方に注意。
▼言開き…もうしひらき。いいわけ。
▼老功…ベテラン。
▼豆狸…ちいさなこだぬき。
▼古巣…いえ。

程なく鹿の子の許[もと]へやって参り、御上使[ごじゃうし]と云ふので乗り込みましたな、左様な事は神ならぬ身の鹿の子は夢にも知らず、「昨夜は穏[おだやか]に治まったであらうか、金長殿は首尾能[しゅびよ]く故郷日開野へ帰られたることであらうか」 と妻の小鹿の子と話を致し穴観音の様子如何[いかが]であると、考へて居りまする所へ ハッ申し上げます」 それへ一匹の家来両手を支[つか]へましたる有様でありますから 鹿子何ぢゃ、何事である 只今穴観音のお館より御上使と致して一匹の豆狸[まめだ]、これへお越しでございます、如何[いかが][つかまつ]りませう 鹿子それはそれは何用かは存ぜぬが主人[しゅくん]の使[つかひ]とあれば豈夫[まさか]疎略[そりゃく]にも致されまい、叮嚀[ていねい]に致し使者の間[ま]へ通し置け ×心得ましてございます」 軈[やが]て下僕[しもべ]は立去[たちさ]りましたる後に、夫婦は不思議の思ひを致しましたが 鹿子ハテ何等[なんら]の御用であらう、何は兎[と]もあれ、一応逢って見やう」 と軈[やが]て鹿の子は身仕度[みじたく]を致しまして、黒羽二重[くろはぶたへ]の定紋付[じゃうもんつき]の小袖[こそで]、行儀霰[゛きゃうぎあられ]の麻上下[あさがみしも]、金はみ出[だし][つば]の小刀を前半[まへはん]に帯挟[たばさ]んで、天地金布目返しの扇子を以[もっ]て礼儀を正し、使者の間へ出向きに及んだのでございます、 斯[か]う言ふエライ立派な武士[さむらひ]のやうな狸でございますが、これは伯龍[わたくし]の想像、滅多に衣服を改めると言ふやうなことはありません、実に簡短[かんたん]なものであります、共に親の譲りの一張羅[いってうら]、呉服屋へ出入[でいり]をする世話はありません、けれどもそれでは一向[いっかう]お講談[はなし]になりませんから、斯[か]う衣服[きもの]を着更[きか]へるであらう位は、少しは私[わたくし]が想像を申上げて置きます、其様[そんな]なことは何[ど]うでも 宜[よ]いが、

▼御上使…殿様や主君のつかい。
▼疎略…ぞんざい。
▼使者の間…お客間。

[さて]使者の間[ま]へ出て見ると、平素[ひごろ]鹿の子の前で頭の上[あが]りません詰[つま]らぬ豆狸[まめだ]でございます、今日は何しろ主人[しゅくん]のお使ひを蒙[かうむ]って来たのですから、斯様[こん]な時に威張らんければならぬと心得まして、正座[しゃうざ]へ坐って鹿の子を自分の家来でも見るやうな塩梅[あんばい]に鼻を高々[たかだか]いたして控へて居[を]ります、其の居間へ這入[はい]って来[きた]った鹿の子は恭々[うやうや]しく頭[かしら]を下げ 鹿子これはこれは御使者とあって態々[わざわざ]御入来[ごじゅらい]御苦労に存じ奉[たてまつ]ります、して主人[しゅくん]六右衛門公より御用の趣[おもむき]、仰せ聞けられませうなれば有難き仕合[しあは]せ、何等[なんら]の御用にござりまするや 諚使されば主君六右衛門公火急に秘密の評定[ひゃうぢゃう]に就[つ]き、其許[そのもと]へ何か内談の義[ぎ]申し渡さるることがある、依って我と共々に病中とても苦しからず、一旦出仕さっしゃい、余程御主君はお急ぎの様子であるから、早や早や、ご用意あって然[しか]るべし 鹿子それはそれは、私[わたくし]昨夜お暇乞[いとまごひ]も告げず致して、何分腹痛に堪[た]へず、拠[よんどころ]なく引取[ひきと]って其の手当[てあて]を致して居ります、又今朝[こんてう]より激しき頭痛も致しまするが、少し治まり次第にお目通りを致し、御主君に其のお詫[わび]をしやうと心得て居[を]りました、秘密の御評議とあれば委細承知仕[つかまつ]りました、身仕度[みじたく]を致しまする間[あひだ][しば]し御容赦の程を願ひます 諚使アア何[ど]うかお早くして下さい、暫時[ざんじ]は待って居りますから」 其処で此の使者には種々様々の饗応[もてなし]を致します、先[ま]托盤[たかつき]には餡餅[あんころ]を盛上げまして、漸[やうや]う茶を出したか、それは知りませんが ×マァマァお退屈でございませうから、用意の油揚寿司[あぶらげすし]がございます、これなど召上[めしあが]って下さい」 腰元[こしもと]共は来[きた]って待遇[もてなし]を致して居ります

▼御入来…おこしくださり。
▼其許…そこもと、そなた。
▼托盤…背の高い足のついた食べ物などをのせるもの。
▼餡餅…あんころもち。
▼油揚寿司…いなりずし。あぶらあげはたぬきたちも好きなたべもの。

諚使これは何より好物」 と油揚寿司を喰ひ始めました、偖[さて]鹿の子はに向ひ 鹿子今し方[がた]穴観音より斯様[かやう]なお使者[つかひ]であるから、兎[と]も角[かく]もこれから参って見やふと思ふ 小鹿それでは貴郎[あなた]お館へこれから御出仕でございますか、併[しか]し貴郎[あなた]が敵へ内通を致したと言ふやうなことが、若[も]し露顕をすると言ふやうなことはありますまいか 鹿子ハテ素[もと]よりの覚悟、其の事[こと]露顕を致して居[を]ったとあれば、其の時にはをお諌[いさ]め申して見事に姫君と結婚の成り立つやう取計[とりはか]らう此の方が心得、若[も]し主君がお用[もち]ゐなき時には仮令[たとい]一命を捨てる迄も是非に及ばぬことである、左様なことを心痛を致すな直[すぐ]に引取[ひきと]って来るから 小鹿貴方は左様に仰せられますけれども、妾[わらは]は昨夜何となしに夢見が悪[あ]しく、何[ど]うやらこれが今生の……  鹿子何ッ…… 小鹿サァ異常[おか]しな気持が致してなりません、御如才もありますまいけれど、成るだけお早く御帰館の程を相待[あいま]ちまする 鹿子オオ心配するな、チョッとそれではこれから出仕致して来やう」 これぞ今生の夫婦の別れと言ふのは、後[のち]にぞ思ひ合されまする、左様なことは夢にも知らず鹿の子は旋[やが]て使ひの豆狸[まめだ]を同道して穴観音の館へ出仕を致しまして、実にお家の為に一命を棄[す]てんければならぬと云ふ、鹿の子最後のお物語、チョッと一服。

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▼妻…小鹿の子。
▼君…六右衛門。
▼姫君…小芝姫。六右衛門のむすめ。金長との縁談がすすんでいましたが、このゴタゴタでふたりの仲はあやうい状況です。
▼此の方…わたし。
▼お用ゐなき時…意見を聴いて下さらなかった時は。
▼夢見が悪しく…心地のわるい、えんぎのよくない感じの夢を見ました。
▼今生の…この世での別れかもしれぬ。
校註●莱莉垣桜文(2012) こっとんきゃんでい