実説古狸合戦(じっせつこりがっせん)第七回


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第七回

[さて]此の六右衛門[ろくゑもん]狸は、仮令[たとひ]善悪共に未[いま]狸党[りたう]の中[うち]に於[おい]て、我が申し出[いだ]したる言葉に一として背[そむ]いたことはない、況[ま]して我が娘は縹容[きりょう]充分優れて居りまするし、殊[こと][か]れが養子となれば四国中での総大将で何時々々[いついつ]までも行けるのであるから、決して金長[きんちゃう][いな]むと言ふことはあるまい、と思ったのが[あん]に相違でありました、これが為に流石[さすが]の六右衛門も目的[あて]が違ひ、ハッとこれを[ね]め付け、忽[たちま][いかり]の色を面[おもて]に表はし持前の牙を噛鳴[かみな]らしまして 六右そりゃこれ程に頼んでも、お身は当館[たうやかた]を引受[ひきう]けるのを不承知と言はっしゃるか 金長先生必ず御立腹[ごりっぷく][くだ]し置かれまするな、世の中に義理程[ぎりほど][つら]いものはございません、先生のお言葉を背[そむ]きまする段は、誠に恐れ入[い]ったる次第でございますが、此の義ばかりは[ひら]お断り申します」 と彼も判然[はっきり]思ひ切って返答を致し其の侭[まま][いとま]を告げまして、又苦情の出ない中[うち]にと言ふので、金長は自分の旅宿[りょしゅく]へ引取[ひきと]って了[しま]ひました、

▼狸党…たぬきなかま。
▼縹容…器量。おすがたのうつくしさ。
▼彼れが養子…六右衛門のあとを相続する。
▼否むと言ふことはあるまい…ことわってくるはずはなかろう。
▼案に相違…考えていたのとは違って。
▼睨め付け…にらみつけて。
▼怒の色を面に表はし…憤激して。おこって。
▼平に…丁重に。
▼旅宿…津田山の近くにある森。

後に残った六右衛門只一匹茫然と致して居りましたが 「[はなは]だ以[もっ]て不埒[ふらち]な奴は金長である、今に何[ど]うする屹度[きっと]彼に思ひ知らして呉[く]れん」と、忽[たちま]ち現はす悪狸[あくり]の相貌[さうばう] 六右ヤァヤァ誰[たれ]かある、参れ次の間より一匹の狸それへ出[い]でまして ×ハッ何か御用でございますか 六右オオ川島[かはしま]兄弟八兵衛[はちべゑ]役右衛門[やくゑもん]を早々[さうさう]これへ呼べ」 ハッと答へまして取次は立去[たちさ]りますると、後で何[ど]うしたものであらうと、考へて居りまする中[うち]に、其の居間へ主人の召[めし]に応じまして、ドヤドヤ這入[はい]って参りましたのは、彼が腹心[ふくしん]にて川島の九右衛門、弟[おとうと]作右衛門[さくゑもん]、讃岐は屋島の八兵衛、多度津[たどつ]の役右衛門、此の四匹の者が何[いづ]れも其れへ入[い]り来[きた]りました、尤[もっと]も当時其の者等[ものら]は当穴観音にての四天王と称へられまして、何[いづ]れも六右衛門の片腕と頼む豪傑、一騎当千の強者[つはもの]でございます

▼悪狸の相貌…わるいたぬきの顔。
▼次の間…となりの部屋。
▼川島兄弟…川島の九右衛門と作右衛門。川島の葭右衛門の子で、六右衛門の乾分たちの中では最実力者の化け術たぬき。
▼八兵衛…屋島の八兵衛。讃岐の屋島に住んでるたぬきで六右衛門の乾分。
▼役右衛門…多度津の六右衛門。おなじく六右衛門の乾分。九右衛門・作右衛門・八兵衛・役右衛門の四匹は六右衛門の配下の重役たちで、講釈だと「四天王」よばわりされてます。
▼穴観音…津田山にある六右衛門のすみか。

御主人、夜中[やちう]我々に火急の御用と言ふことでありますから、取るものも取り敢[あ]へず罷[まか]り出[い]でましたることでございます、して何等[なんら]の御用でございますか 六右オォ早速其方達[そちたち]は参って呉れて大きに大義である、近う進め、今晩其の方共を招いたのは[よ]の義[ぎ]でない実は今晩斯様々々[かやうかやう]の訳合である」と彼[か]の金長を手許[てもと]へ呼んで、色々味方に付けんと勧めると言へど、彼[か]れ我が言葉に背き、官を受けし後は、一日も早く己[おの]れは日開野[ひかいの]へ帰らんと云ふ、察する所行々[ゆくゆく]我が身の害となる奴、依って今の中[うち]にこれをば何とか致さんければ此の六右衛門[まくら]を高く寝ることが出来ない、如何[いかが]いたしたものであらう、宵の程より金長を手元へ呼び寄せ、口が酸[す]っぱくなる程[ほど][か]れに勧めたることであるが、却々[なかなか]当館[たうやかた]に足を留[とど]めやうと言ふ所存はないものである此等[これら]のことを詳敷[くはしく]話を致しまする、四天王の手合[てあひ]は互[たがひ]に顔を見合してホッとばかりに太息[といき]を吐[つ]き、誰一匹[だれいっぴき]と致して発言[はつごん]するものもなかったが、尤[もっと]も其の中[うち]でも八兵衛と云ふ者が一番年嵩[としかさ]でありまして、少し考へて居りましたが 八兵恐れながら君[きみ]のお怒[いか]りは御尤[ごもっと]もでございますが、金長は却々[なかなか]容易ならざる強者[つはもの]でございまして、それで君の意に逆らったと言ふので、今夜[こよひ]の中[うち]にもお討取[うちとり]のお勢[いきほひ]でございますが、万一[まんいち]事を仕損ずる時はお家のお為[た]め宜[よろし]からず、よってお憤[いきどほ]りをお鎮め下[くだ]し置かれまして、今一応彼を手元にお招き相成り、篤[とく]と御理解をお加へに相成りまして、それでも彼が君の言葉に応ぜぬとあるなれば、其の場を去らさず彼[か]れを討取る手段は幾らもありますから、急[せ]いては事を仕損ずる、篤と御賢慮[ごけんりょ]の程を願ひ奉[たてまつ]ります

▼余の義でない…ほかのことでもない。
▼斯様々々の訳合…かくかくしかじかのわけ。金長に「娘の婿となってぜひ穴観音の跡継ぎとなってくれ」と頼んだら、「ふるさとに戻るので出来ません」と辞退されたひとくさり。
▼日開野…金長のふるさと。
▼我が身の害…邪魔な敵。エネミー。
▼枕を高く…安心して。
▼四天王の手合…四天王のめんめん。
▼発言…「はつごん」という傍訓に注意。
▼年嵩…年長なたぬき。
▼君の意…六右衛門さまのおこころ。
▼篤と御賢慮の程…じっくりとお考えのほど。

此の言葉の終らざる中[うち]に川島九右衛門 九右アイヤ八兵衛殿待たっしゃい、其の評議甚[はなは]だ宜しくない、宵の程より御大将[おんたいしょう]が彼を味方に付けん為[た]め、様々と御理解があったではないか、それを彼が自己[おのれ]の器量に慢[まん]じてお言葉に背くと言ふのは容易ならざる不埒[ふらち]の曲者[くせもの]、飽[あ]く迄[まで]も己[おのれ]が勝手を貫[つらぬ]かんとする奴、これ察する所、如何[いか]にも君の御推量の如く己[おの]れの勇と智とに誇り、必ず後々[のちのち]には我が君に敵対を致して、自己[おのれ]授官の後には四国の大将となって、我が意を振るはん彼が心底なることは、鏡に影の撮[うつ]るが如く明瞭[あきらか]なり、捨て置く時は由々[ゆゆ]しき大事[だいじ]、依って今夜[こよひ]の中[うち]に暗地[ひそか]に彼が旅宿に押寄せ、金長の寝込[ねごみ]に打入[うちい]り、只[ただ]一口[ひとかぶ]りに喰殺して末[すゑ]の難義を除[のぞ]かるべし」却々[なかなか]此奴[こいつ]は気短かな奴でございますから 八兵何と各位[おのおの]我が意に同意あれ」と既に起[た]たんの勢[いきほひ]でございます、六右衛門はこれを聞いて大きに喜び 六右[しか]らば各自[いづれ]準備[ようい]に及べ」と数多[あまた]の者に下知[げぢ]を致します、

▼自己の器量に慢じて…自分の才能を鼻にかけちゃって。
▼我が君…六右衛門さま。
▼授官…正一位の官位を授与される。
▼一口りに…相手をガブッと喰い殺すのが討取表現なあたりがおたぬきの世界。
▼準備に及べ…夜討の準備をせよ。
▼下命…命令。

[をり]しも彼[か]の家来鹿の子[かのこ]でございます、これは先程よりの居間へ参りまして、彼を種々[いろいろ]慰め、お父上には愈々[いよいよ]近々[ちかぢか]の中[うち]に金長殿を婿になさうと云ふお考へでありまして、君が私[わたくし]を手元へお招きに相成っての御相談お姫君、喜び遊ばせ必ず遠からず貴女[あなた]のお望みは叶[かな]ひますることでありますと種々[いろいろ]姫を慰める、姫もこれを聞いて大きに悦[よろこ]び 小芝何かのことは鹿の子宜[よろ]しく頼みます」とある、其処で鹿の子は今し方[がた]姫の居間を出[い]でまして、君の御前[ごぜん]に出[い]でんと致した折柄[をりから]、何かお居間では四天王の勇士の手合[てあひ]が集りまして、密々[ひそひそ]話を致して居る様子これを立聞きすると言ふ訳ではないが、何事やらんと来[きた]って思はず知らず次の間より凝[じっ]と容子[ようす]聞いて居ると云ふと、金長を亡き者にせんと云ふので、而[しか]も四天王が進んで今夜[こよひ]の中[うち]に金長の旅宿に乗込んで、彼[あ]れを退治せんと言ふ相談最中、流石[さしも]の鹿の子もこれを聞いてハッと驚ろきました 「[こ]は情けなき主人の思惑[おもわく]容易ならざる相談である」と思ひましたから、其の身は直[すぐ]に飛び込んで御意見を申し上げやうかとも思ひましたが此の者は至って思慮分別[しりょふんべつ]あるものですから考へ直しました、何分[なにぶん][か]の四天王の手合が相談決定[さうだんけつぢゃう]に及んで、夜討[ようち]の準備にこれから取懸[とりかか]らうと云ふのであって見れば、根が強情の六右衛門でございまして、仮令[たとひ]自分が如何様[いかやう]に意見しやうとも、それを用ゐる六右衛門でないことは、日頃から能[よ]く弁[わきま]へて居ります

▼鹿の子…津田山にすんでいるたぬき。小芝姫のお世話がかり。
▼姫…小芝姫。六右衛門のむすめ。
▼今し方…いまさっき。
▼聞いて居ると云ふと…聞いてみると。
▼容易ならざる相談…とんでもない相談。
▼此の者…鹿の子たぬき。
▼相談決定…「決定」のよみが「けつじょう」の点に注意。
▼根が強情…とてもがんこな性格。
▼如何様に意見しやうとも…どんなに意見をしてみても。

飛んでもないことになった、昨日迄も今までも姫の婿に定めんとて、彼[あ]れ程[ほど]仰せ出[い]だされたる御主人が打って変りし其の様子、此の上は我[われ]が御意見申したとて無駄なことである、と言って此の侭[まま]に捨て置く訳にも相成らぬ、今[いま]金長を討たすと言ふのは惜しいものである、可[よ]し、寧[いっ]そ自分が今から金長の旅宿に先廻りをして、此の事を金長に知らせ、其処で其の場を程よく落[おと]した後、御主人に向[むか]って程宜[ほどよ]く御諫言[ごかんげん]をするより道がない」と斯[か]く心得ましたことでございますから、其のまま鹿の子は庭へ飛び下りました、彼[か]高塀[たかべい]を忽[たちま]躍り越して夜中[やちう]ながら爛然[ぎらり]と光った彼が眼[まなこ]提灯[ちゃうちん]はなくても大丈夫、滅多に暗黒[くらがり]で見えない気支[きづか]ひはないのでございます、彼[か]の金長の旅宿に望んで逸足[いちあし]出してドシドシ駈け出[い]だしました、何分彼が旅宿へ押寄せると言っても、六右衛門が味方はそれ相応に用意をさして居るので、手間取りますから其の中[うち]に、金長を早くも[おと]して[しま]はんと言ふので道の程なら四五丁駈け出して参りますると、遥か前方[むかふ]より灯[ひ]の光、下僕[しもべ]の者に提灯を持たして此方[こなた]へ進んで参るものがありま す、小厮[こもの]は 下僕奥様危なうございます、其処に石がありますからお躓[つまづ]きなすってはなりません 女房大丈夫だよ、早くお前急いでお呉れ 下僕[よろ]しうございます」と下僕と話をしながら此方へ乗込んで来る、これは何者でありますかと言ふと、彼[か]の鹿の子の女房小鹿の子[こがのこ]と言へる者であります、今夜[こよひ]は宵の程から夫が穴観音へ出向きまして、既にもう子刻[よなか]にもならうと言ふのに帰って参りません、虫が知らすか小鹿の子は何となく夫のことが気にかかり、殊[こと]に両三日は姫の安否を訪ねたこともないのでありますから、夫の迎[むか]ひ旁[かたがた]、御殿へ参って姫君にお目通りを願はんと云ふので、其処で一匹の僕[しもべ]に共[とも]をさせ、己[おの]が棲家を出まして今穴観音へ出かけるのでございます、恰度[ちゃうど]其の道すがら前方[むかふ]から息を斬って此方[こなた]へ駈け出して参りまするものがありますから、不図[ふと]顔を見て 小鹿オォ貴郎[あなた]は我夫[わがつま]、鹿の子様ではありませんか、只今お下[さが]りでありますか、貴郎が余りお遅いので妾[わたくし]は態々[わざわざ]お迎への為に参りましたのであります 鹿子オォ小鹿の子であるか、それは恰度宜[ちゃうどよ]い幸[さいは]ひ、其方[そち]に少し申し聞かせることがある……コリャ其の方は此処に控へて居って往来を見張って居れ」 と下僕[しもべ]を其の所に待たして置いて、急がしさうに鹿の子は小鹿の子の手を執[と]って、傍[かたへ]の森の中[うち]へ連れ込んだのであります、

▼其の場を程よく落した…その場から金長を落ち延びさせて。
▼高塀…背のたかい塀。
▼躍り越して…すっとびこえて。
▼提灯はなくても大丈夫…動物ならではの便利さですね。
▼彼が旅宿…金長がねとまりしている津田山の近くの森。
▼落して…逃がして。
▼道の程…みちのり。
▼小厮…小者。
▼小鹿の子…鹿の子たぬきの妻。

[やうや]う葭[あし]を分[わか]って自分は立木[たちぎ]の辺[ほとり]に座を占めましたが 鹿子小鹿の子お前は宜[よ]い所へ来て呉れた、大変なことが出来[しゅったい]致した、乃公[おれ]はこれから金長の旅宿へ駈け付けんとするのである、其の仔細と云ふのは外[ほか]でもない、実はこれこれ斯様々々の訳合と言ふので予[かね]て姫君の御結婚が成り立たんとする今宵に至り、俄[にはか]に四天王の強者[つはもの]が御主人のお居間に於いて、金長退治の評定[ひゃうぢゃう]と云ふことになって、これより彼が旅館に押寄せやうと云ふ其の支度中[したくちう]である、平常[ひごろ]より主人の気質を能[よ]く存じて居る拙者[それがし]、此の場合に至って我等[われら]が如何[いか]諫言を致した所で、却々[なかなか]お用[もち]ゐになりさうな筈[はず]もない、依って先[ま]づ我が[はか]らひと言ふのは、これより金長殿の旅館に参って彼を密かに落[おと]さんと言ふ考へである、それに就[つい]て万一此の事が露顕いたすやうになれば、我が一命にも拘[かか]はる一大事、よって其方[そち]はこれより森へ帰って我が棲居[すまゐ]を守って居れ、必ず我が首尾を待って居て呉れ、充分事を首尾能[しゅびよ]く仕了[しおう]せなば直様[すぐさま]立帰[たちかへ]ることであるから」と委細を詳しく小鹿の子に話を致しました、これを聞いて小鹿の子も案外の事変に驚きましたが 小鹿貴方マァそれは大変なことであります、それではこれから彼[あ]の金長様にお知らせにお出[い]でになりますか 鹿子如何[いか]にも左様ぢゃ、他[ひと]に覚[さと]られぬ中[うち]に早く帰れ 小鹿委細承知仕[つかまつ]りました妾[わたし]はこれから帰ります、貴方も何[ど]うぞ早くお帰り下さいますやう 鹿子如何[いか]にも合点[がってん]」と其の侭[まま]小鹿の子に別れを告げまして金長の旅宿を望んでドシドシ駈け出[いだ]しました、後に小鹿の子は「飛んでもない間違ひが出来たものである、何[ど]うぞ何事もなく穏[おだや]かに納まって呉れれば宜[よ]いが」と心配を致しながら、此の者も途中より引返[ひっかへ]し、津田浦の自分の古巣へ立帰[たちかへ]ると言ふことになりました、

▼押寄せやう…攻め込もう。
▼諫言…いさめる。
▼計らひ…計画、計略、作戦。
▼密かに落さん…こっそり逃がしてあげる。
▼露顕いたす…発覚する。
▼案外の事変…思ってもいない事件。

所が茲[ここ]に又お話替りまして、彼[か]の日開野の金長は六右衛門にスッパリと断りを述べまして、不首尾で暇[いとま]を告げ旅宿へ帰ると、早速出迎ひました彼[か][たか]は 御主君、只今お帰りでございますか」軈[やが]て主人の案内[あない]を致して彼[か]の居間へ伴[ともな]ひましたが [さて]夜中[やちう]のお出[い]では如何[いか]なる御用でございました」金長はホッと一息[ひといき]を吐[つ]きましたが 金長鷹よ、飛んでもないことが出来たのだ 何と仰しゃる、何か変[かは]ったことでも出来ましたので 金長[さ]れば聞いて呉れ、実は斯[か]く斯[か]く斯様[かやう]の訳合」とこれから今宵の有様を家来の鷹に詳しく述べました、鷹は此の事を承ると ヘェー」と其の眼[め]を円[まる]くし牙を噛み鳴らし それは御主君大変でございました、併[しか]し余り気心[きごころ]の宜しくない彼[か]の六右衛門、貴方がお謝絶[ことは]り遊ばしたと言ふので、それで理解は確かに立って居りまするが、それを聞き届けまして、そんなら養子のことは思ひ止[とど]まる、併[しか]し官位は予[かね]て申した通りお身に授けると言って、貴方の望みの通り、彼[か]れが官位を授与[あてが]ひませうや、御主君これは一ッ考物[かんがへもの]でございます、日頃からの六右衛門の気象[きしゃう]、彼が目通りへは近寄りませんけれども、君のお話で概略[あらまし]六右衛門と言ふものの心根の余り能[よ]くないものと云ふことは推量いたしました、仮令[たとひ]善悪に拘[かか]はらず、一旦言ひ出したことは飽くまでも貫[つらぬ]かんと言ふ彼が性分、然[しか]るに彼が望みをお退[しり]ぞけに相成ったとあれば、豈夫[よもや]六右衛門は黙って貴方に官位は授けますまい、左[さ]ある時は茲[ここ]に何かの間違ひが出来ますと、それが甚[はなは]だ心配でございます、これは飛んでもないことになって参りました、貴方は全体何[ど]う遊ばす思召[おぼしめし]でございます 金長[さ]れば我の所に来[きた]って日々[にちにち]修行に及ぶのも只[ただ]官位を受けたいと思へばこそ、六右衛門如[ごと]きに従ひ日々[にちにち]の勤め、其の甲斐もなく其の官位が受けられぬと言ふことになって見れば、これは無事[ただごと]では治まらぬ、マァ何[ど]うしたものであらう 御意[ぎょい]にございます、これと申すも畢竟[ひっきゃう]ずる、貴君[あなた]に御器量のあらせられます処[ところ]から、其の貴方の此の地に足を滞[とど]めさせ、穴観音を守らして、一ッ自己[おのれ]の土台を堅めやうと云ふ、彼が計略と云ふことは素[もと]より相明瞭[あしわか]って居ります、然[しか]るに御前がそれをお謝絶[ことわ]り遊ばしたから、彼も豈夫[よもや]此の侭[まま]には捨て置きますまい、と言って彼が望みを叶へる時には、貴方は大和屋様への御恩報じもならず、ハテ困ったことが出来ましたな、イヤ御前、こりゃ明朝[みょうてう]今一応お出[い]でになりまして、授官の義を一時[いっとき]も早くにお迫り遊ばしては如何[いかが]でございます、それで彼が仮令[たとひ]低い官位でも授ければ宜[よ]し、若[も]し左[さ]もなき暁[あかつき]は、貴方が長[なが]の年月此処に御修行遊ばしたことも水の泡、よって其の時は六右衛門を相手に致して貴方は一ッ談判[だんぱん]をなさい、それで彼を其の場に言ひ伏せて首尾能[しゅびよ]くお勝ちに相成る時は有無[うむ] を言はさず、彼[か]れが官位をお取り上げに相成って、其の後[のち]四国の総大将となり、此の国をお治めに相成るのが捷路[ちかみち]でございます、然[さ]うなる時は彼も必ず自己[おのれ]が眷族を集めまして御前を敵手[あひて]に一勝負いたすことになりませう、左[さ]ある時には速[すみや]かに私[わたくし]日開野[ひかいの]へ取って返し、部下の眷族共に此の事を申し聞けまして、募りまする時は、豈夫[よもや]三百や五百の者が集らぬことはありますまい、速[すみや]かに然[さ]う云ふことに遊ばせ」と頻[しき]りに金長に進めまする、

▼鷹…藤の木寺の鷹。金長のいちの乾分。
▼気象…気性。せいかく。
▼目通りへは近寄りませんけれども…藤の木寺の鷹は、直接に六右衛門に遭ったことはありません。
▼一旦言ひ出したことは飽くまでも…頑固。
▼御前…金長。
▼授官の義…正一位の官位授与の件。
▼彼…六右衛門。
▼低い官位…正一位より低いけど、官位は官位。やはり持っているのと持ってないのはたぬきの世界では大きいようです。
▼申し聞けまして…言いきかせて。

所が金長も暫[しば]し途方に暮れまして、如何[いかが]致したものであらうと考へて居ります、所へ一匹の小狸[こだぬき][あは]ただしく 小狸申し上げます 金長アァ何事ぢゃ 小狸只今[ただいま]穴観音より鹿の子[かのこ]と申す一匹の使[つかひ]が参って案内[あない]を乞[こ]ふて居りますが、如何[いかが][つかまつ]りませう 金長[なに]鹿の子殿が見えられた、それでは兎[と]も角[かく]これへお通し申せ イヤ御主君、今夜[こよひ]の場合でございますから、何[ど]のやうな計略を帯[お]びて刺客[しかく]に乗り込まぬものでもありません、御油断遊ばすな 金長イヤイヤ鹿の子は其のやうな心得違ひのものではない、穴観音に於[おい]ては却々[なかなか][わし]は交誼[まじはり]を深く致して居るものである、併[しか]し油断を致さず其方[そのほう]次室[つぎ]にあって様子を見て居れ それでは御主人必ず御油断のないやうに遊ばせ

▼次室…となりの部屋。

言ひながらも鷹は次の間へ立去[たちさ]りましたが、若[も]しか鹿の子に怪しいことがあったらば、一啖[ひとくら]ひに喰ひ殺して呉れやうと牙を鳴らして相待[あいま]って居ります、所へ間もなく案内[あない]に連れられまして入り来[きた]った鹿の子は 鹿子イヤ金長殿、斯[か]く深夜面会下さいまして誠に辱[かたじ]けなう存じます 金長サァサァ御遠慮なく、未[ま][ふ]せっては居りません、遂[つひ]鷹と雑談[ざふだん]を致して居りました折柄[をりから]、お搆[かま]ひなくズッとこれへお通り下さい 鹿子それでは御免下され」と此方[こなた]に通り坐に着きました、軈[やが]て金長は案内の者を遠ざけまして 金長[さて]鹿の子殿、深夜に及んでの御来臨[ごらいりん]は如何[いか]なる所の用向[ようむき]でありまいすか、其の次第お聞かせ下し置かれませうなれば有難き仕合[しあは]」鹿の子はホッと太息[といき]を吐[つ]き、四辺[あたり]を見廻し声を秘[ひそ]めながら 鹿子貴方は今宵の程[ほど]出仕をなされた由[よし]を承りましたが何か火急の御用事でもあったのでございますか 金長イヤイヤ別段これと言って取止[とりと]めたる用事でもないが、実は鹿の子殿お聞き下され、六右衛門公には物数[ものかず]ならぬ拙者[それがし]を婿にせんとの思召[おぼしめし]にて、段々穴観音の館[やかた]に留[とど]まれよとのお勧[すす]めでございましたが何分拙者[それがし]は少々望みあってのことでありますから、平[ひら]にお断り申し上げまして、漸[やうや]う御辞退の上、先程[さきほど]立帰[たちかへ]ったやうなことであります」鹿の子は暫時[しばし]考へて居りましたが 鹿子ハハァそれでは小芝姫様の貴方はお婿様となって、穴観音の館を引受[ひきう]けよと云ふ、それは貴方の御出世ではありませんか、此の鹿の子よりも平[ひら]にお願ひ申す、と云ふのは貴方も御存じの通り我が妻[さい]は小芝姫様をお育て申し、殊に我は当時[たうじ]姫の傅役[もりやく]、此の程より姫も優[すぐ]れ遊ばさず、何か深き思ひに沈んで居られる様子でありますから、我[われ]熟々[つくづく]姫の様子を察する所、余程姫の其の許[もと]を慕[した]ふてお出[い]でなさる容子[ようす]である、況[ま]して四国の総大将、穴観音の姫君の御婿[おんむこ]となって六右衛門公の跡を相続下し置かれるとなれば、此の上もない結搆なことと心得まする、此の事は主人になり代[かは]って私[わたくし]よりお願ひ申す、如何[いかが]でござりませう、此の所に長くお留[とど]まり下さる訳には参りますまいか」物柔[ものやは]らかにそれとなく、金長の心の裡[うち]を試さんと申し出[い]でました 金長鹿の子殿誠に其許[そこもと]のお言葉と言ひ、且[かつ]は姫君も物数ならぬ此方[このほう]をお慕ひ下し置かれると言ふのは、身の冥加[めうが]此の上もないことでありまするが、何[ど]うもこればかりは承知がなりかねます、と云ふのは一日[いちじつ]も早く官位を授かって其の上[うへ]日開野へ立帰[たちかへ]るのも、実は大和屋茂右衛門様に大恩を蒙[かうむ]りましたる拙者[それがし]、其の訳柄[わけがら]は斯様々々[かやうかやう]」と茲[ここ]で又[また]六右衛門の前で述べました通りの話を致しました、それでもと言って強[し]いて勧める訳にもなりません、鹿の子は暫[しば]らく考へて居りましたが

▼臥せっては居りません…眠ってはいません。
▼望み…正一位を授かって、はやくふるさとの日開野にもどり、たぬきたちをよろこばせたり、大和屋さんに恩返しをしたいという希望。
▼我が妻…小鹿の子。鹿の子とおなじく小芝姫さまのおもり役のたぬき。
▼此方…わたくし。金長を。

鹿子成程[なるほど][さ]う貴方に承って見れば、此方の勝手ばかり申す訳にもなりませんけれども、貴方は授官のお望[のぞみ]はございませんか 金長それは願ふて居る処で、官位を受けたいと思へばこそ、此の地に来[きた]って一年以来[いちねんこのかた]苦心を致して居りまする 鹿子だが金長殿、六右衛門公の仰[あふ]せに背いて貴方は授官の義はチト覚束[おぼつか]ないと心得まするが、それでも此の地に足をお留[とど]めになるお考へはありませんか 金長左様でございます、娘の養子にならんければ其方[そち]官位は授け遣[つか]はさんと、仰せ下し置かせますればそれまでのこと、兎[と]も角[かく]も明朝もう一度出仕の上[うへ]御大将に願って見んと心得る 鹿子それは迚[とて]も駄目です、我が主人の非を挙げるではないが、一旦主人が斯[か]うと思ったことは後[あと]へお引きにならぬと云ふ性質、よって貴方が恩人に其の義理を立て通さんとなれば、当地に来[きた]っての修行もこれまでと思召[おぼしめ]して、只今から直様[すぐさま]此の地を発足されて故郷へお帰り下し置かれたい、これは心得のために鹿の子がお願ひ申す 金長ナ何と仰[おっ]しゃる、アノ夜中[やちう]今から出立[しゅったつ]をせい、それは何が為に 鹿子[さ]れば貴殿の一命をお助け申す、仮令[たとひ]貴殿が三面六臂[さんめんろっぴ]の鬼神[おにがみ]といへど、今夜[こよひ]一夜此の旅宿に過[すご]しなば、何[ど]うもお命が危ないことであります」と茲[ここ]に於[おい]て金長立ち去った後で穴観音に於[おい]て、六右衛門の思惑[おもわく]の立たぬ所より、四天王を集めて実は是れ是れ斯様[かやう]の相談、其処[そこ]で多くの眷族を集め今宵の中[うち]に此の旅宿に来[きた]って御身[おんみ]を討取[うちと]らんと云ふ、其の手配[てくばり]を付けたことである、我[われ]一足先廻[ひとあしさきまは]りをして此のことを御注進を申す次第、よって御身[おんみ]は一旦此の場を立ち去って、何卒[なにとぞ]故郷へ一時[いっとき]も早くお引上[ひきあ]げに相成るやうと真実[しんじつ][おもて]に表[あら]はれて、鹿の子がこのことを勧めました、

▼チト覚束ない…不可能。六右衛門ぐらいしか官位を授与できる高級なたぬきがいないので、ここでもらえないとなると官位は手に入れる事が出来かねます。
▼官位は授け遣はさん…官位はあげません。
▼御大将…六右衛門。
▼発足…出発。
▼四天王…川島の九右衛門・川島の作右衛門・屋島の八兵衛・多度津の役右衛門。
▼真実面に表はれて…真面目に。

金長はこれを聞き 金長何と仰[おっ]しゃる、我を養子にしやうと云ふ思惑[おもわく]が立たぬ所から、多くの眷族を集めて我を討取らんと云ふ、六右衛門殿が所存よな、ムムン……」とが平素の気象を茲[ここ]に表はしまして、両眼[りょうがん][かつ]と見開いて穴観音の館の方をハッと[ね]め付けましたが、畢竟[ひっきゃう]ずる此の金長が如何[いか]なることを仕出しまするか、チョッと一息[ひといき]いたしまして次回[つぎ]に。

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▼彼…六右衛門。
▼睨め付け…にらみつけ。
校註●莱莉垣桜文(2012) こっとんきゃんでい