偖[さて]此の六右衛門[ろくゑもん]狸は、仮令[たとひ]善悪共に未[いま]だ▼狸党[りたう]の中[うち]に於[おい]て、我が申し出[いだ]したる言葉に一として背[そむ]いたことはない、況[ま]して我が娘は▼縹容[きりょう]充分優れて居りまするし、殊[こと]に▼彼[か]れが養子となれば四国中での総大将で何時々々[いついつ]までも行けるのであるから、決して金長[きんちゃう]が▼否[いな]むと言ふことはあるまい、と思ったのが▼案[あん]に相違でありました、これが為に流石[さすが]の六右衛門も目的[あて]が違ひ、ハッとこれを▼睨[ね]め付け、忽[たちま]ち▼怒[いかり]の色を面[おもて]に表はし持前の牙を噛鳴[かみな]らしまして 六右「そりゃこれ程に頼んでも、お身は当館[たうやかた]を引受[ひきう]けるのを不承知と言はっしゃるか 金長「先生必ず御立腹[ごりっぷく]下[くだ]し置かれまするな、世の中に義理程[ぎりほど]辛[つら]いものはございません、先生のお言葉を背[そむ]きまする段は、誠に恐れ入[い]ったる次第でございますが、此の義ばかりは▼平[ひら]にお断り申します」 と彼も判然[はっきり]思ひ切って返答を致し其の侭[まま]暇[いとま]を告げまして、又苦情の出ない中[うち]にと言ふので、金長は自分の▼旅宿[りょしゅく]へ引取[ひきと]って了[しま]ひました、
後に残った六右衛門只一匹茫然と致して居りましたが 「甚[はなは]だ以[もっ]て不埒[ふらち]な奴は金長である、今に何[ど]うする屹度[きっと]彼に思ひ知らして呉[く]れん」と、忽[たちま]ち現はす▼悪狸[あくり]の相貌[さうばう] 六右「ヤァヤァ誰[たれ]かある、参れ」▼次の間より一匹の狸それへ出[い]でまして ×「ハッ何か御用でございますか 六右「オオ▼川島[かはしま]兄弟、▼八兵衛[はちべゑ]、▼役右衛門[やくゑもん]を早々[さうさう]これへ呼べ」 ハッと答へまして取次は立去[たちさ]りますると、後で何[ど]うしたものであらうと、考へて居りまする中[うち]に、其の居間へ主人の召[めし]に応じまして、ドヤドヤ這入[はい]って参りましたのは、彼が腹心[ふくしん]にて川島の九右衛門、弟[おとうと]作右衛門[さくゑもん]、讃岐は屋島の八兵衛、多度津[たどつ]の役右衛門、此の四匹の者が何[いづ]れも其れへ入[い]り来[きた]りました、尤[もっと]も当時其の者等[ものら]は当▼穴観音にての四天王と称へられまして、何[いづ]れも六右衛門の片腕と頼む豪傑、一騎当千の強者[つはもの]でございます
甲「御主人、夜中[やちう]我々に火急の御用と言ふことでありますから、取るものも取り敢[あ]へず罷[まか]り出[い]でましたることでございます、して何等[なんら]の御用でございますか 六右「オォ早速其方達[そちたち]は参って呉れて大きに大義である、近う進め、今晩其の方共を招いたのは▼余[よ]の義[ぎ]でない実は今晩▼斯様々々[かやうかやう]の訳合である」と彼[か]の金長を手許[てもと]へ呼んで、色々味方に付けんと勧めると言へど、彼[か]れ我が言葉に背き、官を受けし後は、一日も早く己[おの]れは▼日開野[ひかいの]へ帰らんと云ふ、察する所行々[ゆくゆく]は▼我が身の害となる奴、依って今の中[うち]にこれをば何とか致さんければ此の六右衛門▼枕[まくら]を高く寝ることが出来ない、如何[いかが]いたしたものであらう、宵の程より金長を手元へ呼び寄せ、口が酸[す]っぱくなる程[ほど]彼[か]れに勧めたることであるが、却々[なかなか]当館[たうやかた]に足を留[とど]めやうと言ふ所存はないものである此等[これら]のことを詳敷[くはしく]話を致しまする、▼四天王の手合[てあひ]は互[たがひ]に顔を見合してホッとばかりに太息[といき]を吐[つ]き、誰一匹[だれいっぴき]と致して▼発言[はつごん]するものもなかったが、尤[もっと]も其の中[うち]でも八兵衛と云ふ者が一番▼年嵩[としかさ]でありまして、少し考へて居りましたが 八兵「恐れながら君[きみ]のお怒[いか]りは御尤[ごもっと]もでございますが、金長は却々[なかなか]容易ならざる強者[つはもの]でございまして、それで▼君の意に逆らったと言ふので、今夜[こよひ]の中[うち]にもお討取[うちとり]のお勢[いきほひ]でございますが、万一[まんいち]事を仕損ずる時はお家のお為[た]め宜[よろし]からず、よってお憤[いきどほ]りをお鎮め下[くだ]し置かれまして、今一応彼を手元にお招き相成り、篤[とく]と御理解をお加へに相成りまして、それでも彼が君の言葉に応ぜぬとあるなれば、其の場を去らさず彼[か]れを討取る手段は幾らもありますから、急[せ]いては事を仕損ずる、▼篤と御賢慮[ごけんりょ]の程を願ひ奉[たてまつ]ります」
此の言葉の終らざる中[うち]に川島九右衛門 九右「アイヤ八兵衛殿待たっしゃい、其の評議甚[はなは]だ宜しくない、宵の程より御大将[おんたいしょう]が彼を味方に付けん為[た]め、様々と御理解があったではないか、それを彼が▼自己[おのれ]の器量に慢[まん]じてお言葉に背くと言ふのは容易ならざる不埒[ふらち]の曲者[くせもの]、飽[あ]く迄[まで]も己[おのれ]が勝手を貫[つらぬ]かんとする奴、これ察する所、如何[いか]にも君の御推量の如く己[おの]れの勇と智とに誇り、必ず後々[のちのち]には▼我が君に敵対を致して、自己[おのれ]▼授官の後には四国の大将となって、我が意を振るはん彼が心底なることは、鏡に影の撮[うつ]るが如く明瞭[あきらか]なり、捨て置く時は由々[ゆゆ]しき大事[だいじ]、依って今夜[こよひ]の中[うち]に暗地[ひそか]に彼が旅宿に押寄せ、金長の寝込[ねごみ]に打入[うちい]り、只[ただ]▼一口[ひとかぶ]りに喰殺して末[すゑ]の難義を除[のぞ]かるべし」却々[なかなか]此奴[こいつ]は気短かな奴でございますから 八兵「何と各位[おのおの]我が意に同意あれ」と既に起[た]たんの勢[いきほひ]でございます、六右衛門はこれを聞いて大きに喜び 六右「然[しか]らば各自[いづれ]も▼準備[ようい]に及べ」と数多[あまた]の者に▼下知[げぢ]を致します、
折[をり]しも彼[か]の家来▼鹿の子[かのこ]でございます、これは先程より▼姫の居間へ参りまして、彼を種々[いろいろ]慰め、お父上には愈々[いよいよ]近々[ちかぢか]の中[うち]に金長殿を婿になさうと云ふお考へでありまして、君が私[わたくし]を手元へお招きに相成っての御相談お姫君、喜び遊ばせ必ず遠からず貴女[あなた]のお望みは叶[かな]ひますることでありますと種々[いろいろ]姫を慰める、姫もこれを聞いて大きに悦[よろこ]び 小芝「何かのことは鹿の子宜[よろ]しく頼みます」とある、其処で鹿の子は▼今し方[がた]姫の居間を出[い]でまして、君の御前[ごぜん]に出[い]でんと致した折柄[をりから]、何かお居間では四天王の勇士の手合[てあひ]が集りまして、密々[ひそひそ]話を致して居る様子これを立聞きすると言ふ訳ではないが、何事やらんと来[きた]って思はず知らず次の間より凝[じっ]と容子[ようす]を▼聞いて居ると云ふと、金長を亡き者にせんと云ふので、而[しか]も四天王が進んで今夜[こよひ]の中[うち]に金長の旅宿に乗込んで、彼[あ]れを退治せんと言ふ相談最中、流石[さしも]の鹿の子もこれを聞いてハッと驚ろきました 「斯[こ]は情けなき主人の思惑[おもわく]、▼容易ならざる相談である」と思ひましたから、其の身は直[すぐ]に飛び込んで御意見を申し上げやうかとも思ひましたが▼此の者は至って思慮分別[しりょふんべつ]あるものですから考へ直しました、何分[なにぶん]彼[か]の四天王の手合が▼相談決定[さうだんけつぢゃう]に及んで、夜討[ようち]の準備にこれから取懸[とりかか]らうと云ふのであって見れば、▼根が強情の六右衛門でございまして、仮令[たとひ]自分が▼如何様[いかやう]に意見しやうとも、それを用ゐる六右衛門でないことは、日頃から能[よ]く弁[わきま]へて居ります
「飛んでもないことになった、昨日迄も今までも姫の婿に定めんとて、彼[あ]れ程[ほど]仰せ出[い]だされたる御主人が打って変りし其の様子、此の上は我[われ]が御意見申したとて無駄なことである、と言って此の侭[まま]に捨て置く訳にも相成らぬ、今[いま]金長を討たすと言ふのは惜しいものである、可[よ]し、寧[いっ]そ自分が今から金長の旅宿に先廻りをして、此の事を金長に知らせ、其処で▼其の場を程よく落[おと]した後、御主人に向[むか]って程宜[ほどよ]く御諫言[ごかんげん]をするより道がない」と斯[か]く心得ましたことでございますから、其のまま鹿の子は庭へ飛び下りました、彼[か]の▼高塀[たかべい]を忽[たちま]ち▼躍り越して夜中[やちう]ながら爛然[ぎらり]と光った彼が眼[まなこ]、▼提灯[ちゃうちん]はなくても大丈夫、滅多に暗黒[くらがり]で見えない気支[きづか]ひはないのでございます、彼[か]の金長の旅宿に望んで逸足[いちあし]出してドシドシ駈け出[い]だしました、何分▼彼が旅宿へ押寄せると言っても、六右衛門が味方はそれ相応に用意をさして居るので、手間取りますから其の中[うち]に、金長を早くも▼落[おと]して了[しま]はんと言ふので▼道の程なら四五丁駈け出して参りますると、遥か前方[むかふ]より灯[ひ]の光、下僕[しもべ]の者に提灯を持たして此方[こなた]へ進んで参るものがありま す、▼小厮[こもの]は 下僕「奥様危なうございます、其処に石がありますからお躓[つまづ]きなすってはなりません 女房「大丈夫だよ、早くお前急いでお呉れ 下僕「宜[よろ]しうございます」と下僕と話をしながら此方へ乗込んで来る、これは何者でありますかと言ふと、彼[か]の鹿の子の女房▼小鹿の子[こがのこ]と言へる者であります、今夜[こよひ]は宵の程から夫が穴観音へ出向きまして、既にもう子刻[よなか]にもならうと言ふのに帰って参りません、虫が知らすか小鹿の子は何となく夫のことが気にかかり、殊[こと]に両三日は姫の安否を訪ねたこともないのでありますから、夫の迎[むか]ひ旁[かたがた]、御殿へ参って姫君にお目通りを願はんと云ふので、其処で一匹の僕[しもべ]に共[とも]をさせ、己[おの]が棲家を出まして今穴観音へ出かけるのでございます、恰度[ちゃうど]其の道すがら前方[むかふ]から息を斬って此方[こなた]へ駈け出して参りまするものがありますから、不図[ふと]顔を見て 小鹿「オォ貴郎[あなた]は我夫[わがつま]、鹿の子様ではありませんか、只今お下[さが]りでありますか、貴郎が余りお遅いので妾[わたくし]は態々[わざわざ]お迎への為に参りましたのであります 鹿子「オォ小鹿の子であるか、それは恰度宜[ちゃうどよ]い幸[さいは]ひ、其方[そち]に少し申し聞かせることがある……コリャ其の方は此処に控へて居って往来を見張って居れ」 と下僕[しもべ]を其の所に待たして置いて、急がしさうに鹿の子は小鹿の子の手を執[と]って、傍[かたへ]の森の中[うち]へ連れ込んだのであります、
漸[やうや]う葭[あし]を分[わか]って自分は立木[たちぎ]の辺[ほとり]に座を占めましたが 鹿子「小鹿の子お前は宜[よ]い所へ来て呉れた、大変なことが出来[しゅったい]致した、乃公[おれ]はこれから金長の旅宿へ駈け付けんとするのである、其の仔細と云ふのは外[ほか]でもない、実はこれこれ斯様々々の訳合と言ふので予[かね]て姫君の御結婚が成り立たんとする今宵に至り、俄[にはか]に四天王の強者[つはもの]が御主人のお居間に於いて、金長退治の評定[ひゃうぢゃう]と云ふことになって、これより彼が旅館に▼押寄せやうと云ふ其の支度中[したくちう]である、平常[ひごろ]より主人の気質を能[よ]く存じて居る拙者[それがし]、此の場合に至って我等[われら]が如何[いか]に▼諫言を致した所で、却々[なかなか]お用[もち]ゐになりさうな筈[はず]もない、依って先[ま]づ我が▼計[はか]らひと言ふのは、これより金長殿の旅館に参って彼を▼密かに落[おと]さんと言ふ考へである、それに就[つい]て万一此の事が▼露顕いたすやうになれば、我が一命にも拘[かか]はる一大事、よって其方[そち]はこれより森へ帰って我が棲居[すまゐ]を守って居れ、必ず我が首尾を待って居て呉れ、充分事を首尾能[しゅびよ]く仕了[しおう]せなば直様[すぐさま]立帰[たちかへ]ることであるから」と委細を詳しく小鹿の子に話を致しました、これを聞いて小鹿の子も▼案外の事変に驚きましたが 小鹿「貴方マァそれは大変なことであります、それではこれから彼[あ]の金長様にお知らせにお出[い]でになりますか 鹿子「如何[いか]にも左様ぢゃ、他[ひと]に覚[さと]られぬ中[うち]に早く帰れ 小鹿「委細承知仕[つかまつ]りました妾[わたし]はこれから帰ります、貴方も何[ど]うぞ早くお帰り下さいますやう 鹿子「如何[いか]にも合点[がってん]だ」と其の侭[まま]小鹿の子に別れを告げまして金長の旅宿を望んでドシドシ駈け出[いだ]しました、後に小鹿の子は「飛んでもない間違ひが出来たものである、何[ど]うぞ何事もなく穏[おだや]かに納まって呉れれば宜[よ]いが」と心配を致しながら、此の者も途中より引返[ひっかへ]し、津田浦の自分の古巣へ立帰[たちかへ]ると言ふことになりました、
所が茲[ここ]に又お話替りまして、彼[か]の日開野の金長は六右衛門にスッパリと断りを述べまして、不首尾で暇[いとま]を告げ旅宿へ帰ると、早速出迎ひました彼[か]の▼鷹[たか]は 鷹「御主君、只今お帰りでございますか」軈[やが]て主人の案内[あない]を致して彼[か]の居間へ伴[ともな]ひましたが 鷹「偖[さて]夜中[やちう]のお出[い]では如何[いか]なる御用でございました」金長はホッと一息[ひといき]を吐[つ]きましたが 金長「鷹よ、飛んでもないことが出来たのだ 鷹「何と仰しゃる、何か変[かは]ったことでも出来ましたので 金長「左[さ]れば聞いて呉れ、実は斯[か]く斯[か]く斯様[かやう]の訳合」とこれから今宵の有様を家来の鷹に詳しく述べました、鷹は此の事を承ると 鷹「ヘェー」と其の眼[め]を円[まる]くし牙を噛み鳴らし 鷹「それは御主君大変でございました、併[しか]し余り気心[きごころ]の宜しくない彼[か]の六右衛門、貴方がお謝絶[ことは]り遊ばしたと言ふので、それで理解は確かに立って居りまするが、それを聞き届けまして、そんなら養子のことは思ひ止[とど]まる、併[しか]し官位は予[かね]て申した通りお身に授けると言って、貴方の望みの通り、彼[か]れが官位を授与[あてが]ひませうや、御主君これは一ッ考物[かんがへもの]でございます、日頃からの六右衛門の▼気象[きしゃう]、彼が▼目通りへは近寄りませんけれども、君のお話で概略[あらまし]六右衛門と言ふものの心根の余り能[よ]くないものと云ふことは推量いたしました、仮令[たとひ]善悪に拘[かか]はらず、▼一旦言ひ出したことは飽くまでも貫[つらぬ]かんと言ふ彼が性分、然[しか]るに彼が望みをお退[しり]ぞけに相成ったとあれば、豈夫[よもや]六右衛門は黙って貴方に官位は授けますまい、左[さ]ある時は茲[ここ]に何かの間違ひが出来ますと、それが甚[はなは]だ心配でございます、これは飛んでもないことになって参りました、貴方は全体何[ど]う遊ばす思召[おぼしめし]でございます 金長「左[さ]れば我の所に来[きた]って日々[にちにち]修行に及ぶのも只[ただ]官位を受けたいと思へばこそ、六右衛門如[ごと]きに従ひ日々[にちにち]の勤め、其の甲斐もなく其の官位が受けられぬと言ふことになって見れば、これは無事[ただごと]では治まらぬ、マァ何[ど]うしたものであらう 鷹「御意[ぎょい]にございます、これと申すも畢竟[ひっきゃう]ずる、貴君[あなた]に御器量のあらせられます処[ところ]から、其の貴方の此の地に足を滞[とど]めさせ、穴観音を守らして、一ッ自己[おのれ]の土台を堅めやうと云ふ、彼が計略と云ふことは素[もと]より相明瞭[あしわか]って居ります、然[しか]るに▼御前がそれをお謝絶[ことわ]り遊ばしたから、彼も豈夫[よもや]此の侭[まま]には捨て置きますまい、と言って彼が望みを叶へる時には、貴方は大和屋様への御恩報じもならず、ハテ困ったことが出来ましたな、イヤ御前、こりゃ明朝[みょうてう]今一応お出[い]でになりまして、▼授官の義を一時[いっとき]も早く▼彼にお迫り遊ばしては如何[いかが]でございます、それで彼が仮令[たとひ]▼低い官位でも授ければ宜[よ]し、若[も]し左[さ]もなき暁[あかつき]は、貴方が長[なが]の年月此処に御修行遊ばしたことも水の泡、よって其の時は六右衛門を相手に致して貴方は一ッ談判[だんぱん]をなさい、それで彼を其の場に言ひ伏せて首尾能[しゅびよ]くお勝ちに相成る時は有無[うむ] を言はさず、彼[か]れが官位をお取り上げに相成って、其の後[のち]四国の総大将となり、此の国をお治めに相成るのが捷路[ちかみち]でございます、然[さ]うなる時は彼も必ず自己[おのれ]が眷族を集めまして御前を敵手[あひて]に一勝負いたすことになりませう、左[さ]ある時には速[すみや]かに私[わたくし]日開野[ひかいの]へ取って返し、部下の眷族共に此の事を▼申し聞けまして、募りまする時は、豈夫[よもや]三百や五百の者が集らぬことはありますまい、速[すみや]かに然[さ]う云ふことに遊ばせ」と頻[しき]りに金長に進めまする、
所が金長も暫[しば]し途方に暮れまして、如何[いかが]致したものであらうと考へて居ります、所へ一匹の小狸[こだぬき]慌[あは]ただしく 小狸「申し上げます 金長「アァ何事ぢゃ 小狸「只今[ただいま]穴観音より鹿の子[かのこ]と申す一匹の使[つかひ]が参って案内[あない]を乞[こ]ふて居りますが、如何[いかが]仕[つかまつ]りませう 金長「何[なに]鹿の子殿が見えられた、それでは兎[と]も角[かく]これへお通し申せ 鷹「イヤ御主君、今夜[こよひ]の場合でございますから、何[ど]のやうな計略を帯[お]びて刺客[しかく]に乗り込まぬものでもありません、御油断遊ばすな 金長「イヤイヤ鹿の子は其のやうな心得違ひのものではない、穴観音に於[おい]ては却々[なかなか]私[わし]は交誼[まじはり]を深く致して居るものである、併[しか]し油断を致さず其方[そのほう]は▼次室[つぎ]にあって様子を見て居れ 鷹「それでは御主人必ず御油断のないやうに遊ばせ」
言ひながらも鷹は次の間へ立去[たちさ]りましたが、若[も]しか鹿の子に怪しいことがあったらば、一啖[ひとくら]ひに喰ひ殺して呉れやうと牙を鳴らして相待[あいま]って居ります、所へ間もなく案内[あない]に連れられまして入り来[きた]った鹿の子は 鹿子「イヤ金長殿、斯[か]く深夜面会下さいまして誠に辱[かたじ]けなう存じます 金長「サァサァ御遠慮なく、未[ま]だ▼臥[ふ]せっては居りません、遂[つひ]鷹と雑談[ざふだん]を致して居りました折柄[をりから]、お搆[かま]ひなくズッとこれへお通り下さい 鹿子「それでは御免下され」と此方[こなた]に通り坐に着きました、軈[やが]て金長は案内の者を遠ざけまして 金長「偖[さて]鹿の子殿、深夜に及んでの御来臨[ごらいりん]は如何[いか]なる所の用向[ようむき]でありまいすか、其の次第お聞かせ下し置かれませうなれば有難き仕合[しあは]せ」鹿の子はホッと太息[といき]を吐[つ]き、四辺[あたり]を見廻し声を秘[ひそ]めながら 鹿子「貴方は今宵の程[ほど]出仕をなされた由[よし]を承りましたが何か火急の御用事でもあったのでございますか 金長「イヤイヤ別段これと言って取止[とりと]めたる用事でもないが、実は鹿の子殿お聞き下され、六右衛門公には物数[ものかず]ならぬ拙者[それがし]を婿にせんとの思召[おぼしめし]にて、段々穴観音の館[やかた]に留[とど]まれよとのお勧[すす]めでございましたが何分拙者[それがし]は少々▼望みあってのことでありますから、平[ひら]にお断り申し上げまして、漸[やうや]う御辞退の上、先程[さきほど]立帰[たちかへ]ったやうなことであります」鹿の子は暫時[しばし]考へて居りましたが 鹿子「ハハァそれでは小芝姫様の貴方はお婿様となって、穴観音の館を引受[ひきう]けよと云ふ、それは貴方の御出世ではありませんか、此の鹿の子よりも平[ひら]にお願ひ申す、と云ふのは貴方も御存じの通り▼我が妻[さい]は小芝姫様をお育て申し、殊に我は当時[たうじ]姫の傅役[もりやく]、此の程より姫も優[すぐ]れ遊ばさず、何か深き思ひに沈んで居られる様子でありますから、我[われ]熟々[つくづく]姫の様子を察する所、余程姫の其の許[もと]を慕[した]ふてお出[い]でなさる容子[ようす]である、況[ま]して四国の総大将、穴観音の姫君の御婿[おんむこ]となって六右衛門公の跡を相続下し置かれるとなれば、此の上もない結搆なことと心得まする、此の事は主人になり代[かは]って私[わたくし]よりお願ひ申す、如何[いかが]でござりませう、此の所に長くお留[とど]まり下さる訳には参りますまいか」物柔[ものやは]らかにそれとなく、金長の心の裡[うち]を試さんと申し出[い]でました 金長「鹿の子殿誠に其許[そこもと]のお言葉と言ひ、且[かつ]は姫君も物数ならぬ▼此方[このほう]をお慕ひ下し置かれると言ふのは、身の冥加[めうが]此の上もないことでありまするが、何[ど]うもこればかりは承知がなりかねます、と云ふのは一日[いちじつ]も早く官位を授かって其の上[うへ]日開野へ立帰[たちかへ]るのも、実は大和屋茂右衛門様に大恩を蒙[かうむ]りましたる拙者[それがし]、其の訳柄[わけがら]は斯様々々[かやうかやう]」と茲[ここ]で又[また]六右衛門の前で述べました通りの話を致しました、それでもと言って強[し]いて勧める訳にもなりません、鹿の子は暫[しば]らく考へて居りましたが
鹿子「成程[なるほど]然[さ]う貴方に承って見れば、此方の勝手ばかり申す訳にもなりませんけれども、貴方は授官のお望[のぞみ]はございませんか 金長「それは願ふて居る処で、官位を受けたいと思へばこそ、此の地に来[きた]って一年以来[いちねんこのかた]苦心を致して居りまする 鹿子「だが金長殿、六右衛門公の仰[あふ]せに背いて貴方は授官の義は▼チト覚束[おぼつか]ないと心得まするが、それでも此の地に足をお留[とど]めになるお考へはありませんか 金長「左様でございます、娘の養子にならんければ其方[そち]に▼官位は授け遣[つか]はさんと、仰せ下し置かせますればそれまでのこと、兎[と]も角[かく]も明朝もう一度出仕の上[うへ]▼御大将に願って見んと心得る 鹿子「それは迚[とて]も駄目です、我が主人の非を挙げるではないが、一旦主人が斯[か]うと思ったことは後[あと]へお引きにならぬと云ふ性質、よって貴方が恩人に其の義理を立て通さんとなれば、当地に来[きた]っての修行もこれまでと思召[おぼしめ]して、只今から直様[すぐさま]此の地を▼発足されて故郷へお帰り下し置かれたい、これは心得のために鹿の子がお願ひ申す 金長「ナ何と仰[おっ]しゃる、アノ夜中[やちう]今から出立[しゅったつ]をせい、それは何が為に 鹿子「去[さ]れば貴殿の一命をお助け申す、仮令[たとひ]貴殿が三面六臂[さんめんろっぴ]の鬼神[おにがみ]といへど、今夜[こよひ]一夜此の旅宿に過[すご]しなば、何[ど]うもお命が危ないことであります」と茲[ここ]に於[おい]て金長立ち去った後で穴観音に於[おい]て、六右衛門の思惑[おもわく]の立たぬ所より、▼四天王を集めて実は是れ是れ斯様[かやう]の相談、其処[そこ]で多くの眷族を集め今宵の中[うち]に此の旅宿に来[きた]って御身[おんみ]を討取[うちと]らんと云ふ、其の手配[てくばり]を付けたことである、我[われ]一足先廻[ひとあしさきまは]りをして此のことを御注進を申す次第、よって御身[おんみ]は一旦此の場を立ち去って、何卒[なにとぞ]故郷へ一時[いっとき]も早くお引上[ひきあ]げに相成るやうと▼真実[しんじつ]面[おもて]に表[あら]はれて、鹿の子がこのことを勧めました、
金長はこれを聞き 金長「何と仰[おっ]しゃる、我を養子にしやうと云ふ思惑[おもわく]が立たぬ所から、多くの眷族を集めて我を討取らんと云ふ、六右衛門殿が所存よな、ムムン……」と▼彼が平素の気象を茲[ここ]に表はしまして、両眼[りょうがん]刮[かつ]と見開いて穴観音の館の方をハッと▼睨[ね]め付けましたが、畢竟[ひっきゃう]ずる此の金長が如何[いか]なることを仕出しまするか、チョッと一息[ひといき]いたしまして次回[つぎ]に。