偖[さて]前回に伺[うかが]ひました如く金長[きんちゃう]は如何[いか]にも不思議に思ひました、依って▼鹿の子[かのこ]の顔を熟々[つくづく]と打眺[うちなが]め 金長「何が為に只今より出立[しゅったつ]を致さねばならぬか、何[ど]うも▼一円[いちゑん]合点[がてん]が行かぬ 鹿子「これには段々訳があることですから却[かへ]ってそれは貴方[きでん]が聞かぬが宜[よろ]しい 金長「然[さ]うではない、理由の解[わか]らぬことをば其のままに致して置いて況[ま]して況[いは]んや▼師匠へ一言[いちごん]の断りもなくして、此のまま出立は何[ど]うも煩[わづ]らはしいことであります、斯[か]う云ふ理由だから夜[よ]が明ける迄に出立をせいと言はれることなれば致し方がない、御身[おんみ]が然[さ]うして親切上[しんせつじゃう]を以[もっ]てお知らせに預かったのには、何か理由のあることと心得まする」と、金長は何[ど]うしても今がら出立をしやうと言ひません、其処で鹿の子は先程から金長の顔を眺めて考へて居りましたが
鹿子「それ程までにお尋ねに相成[あひな]るなれば、話を致さぬこともないが、抑[そ]も主人の六右衛門[ろくゑもん]と言ふのは、御身も御存じの通り▼彼[あ]のやうな気質である、一旦[いったん]善悪に拘[かか]はらず斯[か]うと思へば飽く迄も、それを貫[つらぬ]かんければならぬと言ふ主人の精神、然[しか]るに今宵[こよひ]▼息女[そくぢょ]を以て▼御身に配偶[めあ]はせ、我が跡目[あとめ]相続を致させんとなしたる所が、御不承知とのこと、依って彼が日頃の気性を顕[あら]はし、一旦御身を思って言ったことが間違ひに相成[あいな]ったのであるから、此の侭[まま]お手前を捨て置く時には、遂[つひ]に正一位の官位を彼に奪はれ、其の上[うへ]我が後継[あとつぎ]を▼押領[おふりゃう]せぬかと云ふ疑ひの心がある、よって我が望みの叶はぬ時には是非に及ばぬ▼彼を此の侭に捨て置いては相成らぬと、早速自分の▼腹心彼[か]の▼四天王の各自[めいめい]を手許[てもと]へ呼んで、様々御評定[ごひゃうぢゃう]に相成ったのである、然[しか]る所が彼[か]の奴等[やつら]は只[ただ]血気の勇に逸[はや]って、日頃よりお手前が天晴れ▼学に進んで居られると言ふのを嫉[そね]み妬[ねた]みの所より、御身を亡き者にするにはこれ恰度[ちゃうど]▼幸[さいはひ]の折柄[をりから]と、一ッは四人の奴等が主人に段々▼悪計を勧め、今夜[こよひ]御身の旅館へ対して夜討をかけ、喰ひ殺さんと言ふ彼が決心、又六右衛門も其の議を大きに賛成を致して、然[しか]らば今夜彼の旅館へ押寄せんと、一統の奴等が充分其の準備を致して居[を]る、拙者[それがし]▼姫の手許[てもと]より暇[いとま]を告げ、最早御身が御承諾に相成ったことと充分に喜んで、主人のお傍[そば]へ出[い]でんとしたる時に、図[はか]らず其の評定を立聞[たちぎき]いたしたやうな訳であるこれは怪[け]しからぬ、昨日迄も今日までも御身をば我[わが]婿にせんと言ふ、精神のある六右衛門公の心が▼俄[にわか]に変って、若[も]しか御身の身の上に▼不慮の凶事があってはならぬと相心得[あいこころえ]、既に其の居間へ飛び込んで、主人に段々と意見を致さんとは心得たが、一度[ひとたび]斯[か]うと決心いたしたる六右衛門を、却々[なかなか]今更[いまさら]▼翻[ひるが]へさせやうと言ふのは容易ならぬことであるから、其れよりか御身の方へ此の事をお知らせ申して、今夜[こよひ]は兎[と]も角[かく]も其の鉾先[ほこさき]を避けさせ、而[しか]して後[のち]飽くまでも主人へ対して▼諫言[かんげん]を為[な]すは 我等[われら]の心の裡[うち]にある、依って金長殿、御立腹でもござらうけれども、訳は斯う云ふ次第であるから、是非共[ぜひとも]只今の中[うち]に、当所を御出立の程お願ひたい」 理を分けまして鹿の子が段々此の事を勧めたることでございます、
依って金長も暫[しば]し鹿の子の親切上の一言[いちごん]を聞いて感心をしたが 金長「成程[なるほど]偖[さて]は御身が態々[わざわざ]然[さ]うして先廻りを致してお聞かせ下し置かれた其の親切、千万[せんばん]辱[かたじけ]ないことでございます私[わたくし]も六右衛門公を慕[した]ひ、態々[わざわざ]数多[あまた]の▼眷族を捨て、▼日開野[ひがいの]より一年以来[このかた]▼当地に来[きた]って修行をするも何が為[た]め、偏[ひとへ]に官位をお授けに預からんが為[ため]苦心に及んで居て、今更その望み叶はんと言ふ所から、我を討たんと言はるるのは、これ迄のことと相心得まする、よって今にもこれへ六右衛門公を始めとして、四天王の御勇士の方々、仮令[たとひ] 幾何千[いくなんぜん]お出[い]でに相成らうとも、金長は金長だけの思惑[おもわく]があるから、面会の上[うへ]其の理解を為[な]し、若[も]しお聞入れがない時は、又我にそれだけの所存がありますから、御身の親切上は辱[かたじけ]ない」 と更に此処を▼今から立たうとは言ひません併[しか]しそれでは鹿の子は何[ど]うもこれまで態々[わざわざ]乗込んで、意見を致した甲斐[かひ]がないのでございますから 鹿子「▼強[た]って御身が此の地を御出立がないとあれば、我が為には六右衛門公は主君、そて見れば飽く迄も御身へ抵抗をせんければならぬと云ふやうな場合に陥[おちい]って見ると、実は拙者の心苦しい所は如何[いか]ばかり、其の辺の所を御推量あって、何[ど]うか強[し]いて御出立の程を、斯[か]く申す鹿の子が▼両手を下げてお願ひ申す」と頻[しき]りに鹿の子は頼み込むことでございますから、両眼[りょうがん]を閉ぢて先程から差俯向[さしうつむ]いて頻[しき]りに考へ込んで居りました金長も、鹿の子の胸中を察しまして 金長「如何にもそれでは只今より当地を発足致しまして、其の鉾先を一応は避けると言ふことに致しますから、何分宜[よろ]しくお願ひ申す」と何[ど]うやら金長承知を致して呉れた様子でございます、
これによって鹿の子は非常に喜んで 鹿子「愈[いよい]よ御身が然[さ]う云ふ▼御了簡[ごれうけん]なれば、私[わたくし]も夜中[やちう]態々[わざわざ]これまで乗り込んだ甲斐もある、然う云ふ中[うち]にも今に▼穴観音の同勢これへ押寄せ参らぬとも計[はか]り難[がた]いから、何[ど]うか一時[いっとき]も早く御出立の程を願ひたい」と呉々[くれぐれ]も意見を致して置いて其の夜[よ]▼深更[しんかう]に及んで、彼[か]の鹿の子は金長に別離[わかれ]を告げまして仕度[したく]も匆々[そこそこ]に立帰[たちかへ]って了[しま]ひました、後に暫[しば]しの間は金長考へて居りましたが、折[をり]しも▼次の間より▼唐紙[からかみ]をサッと開いてそれへ入込[いりこ]んで参ったのは彼[か]の▼鷹でございます。 鷹「御主君貴方等[あなたがた]の秘密の話を立聞き致しては甚[はなは]だ相済みませんが、全体只今鹿の子が今にも同勢がこれへ押寄せると言ったのは全体何者にございます 金長「オォ鷹[たか]近[ちか]う進め 鷹「ハッ 金長「四辺[あたり]に気を注[つ]けろ」 其処で四辺[あたり]の唐紙[からかみ]を開[ひら]いて誰か立聞きをするものはないかと見届けた上、金長の前へ鷹は進み寄りました、
此方[こなた]は声を潜[ひそ]め 金長「態々[わざわざ]今夜[こよひ]鹿の子が注進を致して呉れたのは斯様々々[かやうかやう]の次第である、明朝▼授官[じゅかん]所[どころ]の騒ぎではない、我を今夜[こよひ]の中[うち]に討取らん六右衛門が計略、腹心四天王の奴等を始めとして共々[ともども]これへ押寄せると言ふことである、我れこれを引受け戦[たたかひ]をするのは決して恐れはせぬ、けれども一旦鹿の子が親切上を以[もっ]て態々[わざわざ]注進を致して呉れた其の親切を捨て、彼に向[むか]って戦ふのも大きに心苦しいことである、如何[いかが]いたしたことであらうと、それゆゑ大きに途方に暮れて居[を]ることである」と、金長の言葉を聞いて、平素[ひごろ]より金長に仕[つか]へる多くの眷族の其の中[うち]に於[おい]ては、藤の樹寺を▼占領いたし、此処に永らく棲息[すまゐ]をして、殊[こと]に▼英雄[えいゆう]の伜[せがれ]もあり、今回の▼旅行に就[つい]ては、主人金長の身に若[も]し▼事がある時には、我が▼一命を抛[な]げ捨てましてもこれを避けんと言ふ決心を致して居[を]ることで、少しも油断なく金長の身を守って居ります鷹のことでございますから、殊の外[ほか]立腹致しまして 鷹「御主君、何[ど]うも六右衛門と云ふ奴は卑怯未練な奴でございます、己[おの]れの望みが叶はぬからと言って、貴方を夜討[ようち]に及んで喰殺さん等とは、不埒[ふらち]なことを吐[ぬか]す奴、御主君決して恐るるには及びません、貴方も決心なさい、仮令[たとひ]穴観音より▼如何程[いかほど]大勢が来[きた]るとも、平常[ひごろ]鍛[きた]へしこの▼歯節[はぶし]、片っ端[ぱし]より喰ひ殺して呉れん」 とグッと眼を瞋[いか]らした、狸の眼はこれが持前[もちまへ]でありますから、▼炭団[たどん]を真赤[まっか]に致したやうな有様、豈夫[まさか]然[さ]うでもありますまいが、牙を噛み鳴らして非常に鷹は憤[いきどほ]りました、
金長はこれを止[とど]めまして 金長「待て鷹[たか]必ず逸[はやま]るな、併[しか]し敵に如何[いか]なる計略があるとも、それを討取るは少しも恐れはせんが、寧[いっ]そ鹿の子の心を察し、一応は此の鉾先を避けんと心得るが 鷹「イヤイヤ仮令[たとひ]御主君がお立ち去りに相成らうとも、憚[はばか]りながら此の鷹は一寸[いっすん]も此の地を退[の]きません急度[きっと]此の地に踏み止[とど]まって夜中[やちう]に寝込みを討たうと言ふ不埒[ふらち]な奴、片っ端から喰ひ殺して呉れます 金長「ムムン、然[しか]らば其の方は何[ど]うしても我に従がって出立をしやうと言はぬか 鷹「大体御主君然[さ]うではありませんか、抑[そ]も四国の総大将と皆に▼尊敬[そんけふ]をさるる六右衛門奴[め]、彼等のやうな腹黒い奴は、懲戒[みせしめ]の為に充分に▼悩ましてやるが、一ッは身の為でございます、依って御主君も仕度[したく]をなさい、これから来る奴をば片っ端から喰ひ殺してやります」 金長とても血気に逸[はや]る勇士でございますから、如何[いか]にも六右衛門が今夜[こよひ]我が寝込みを討取らうと言ふ、卑怯なことを憤[いきどほ]ったのでございますから、遂[つひ]に鷹の言葉に励[はげ]まされまして 金長「併[しか]し乍[なが]ら何[ど]うせ六右衛門のことであるから、▼己[おの]れに添[したが]ふ眷族は百や二百ではあるまい、必ず千以上の同勢が来るに違ひない、然[しか]るを何[ど]うして▼手前はこれを引受ける 鷹「先[ま]づ兎[と]も角[かく]も▼先生は此の裏の広庭[ひろには]へお乗出[のりい]だしに相成って、準備[ようい]充分整[ととの]ふた上、彼[あ]の松へお上[のぼ]り遊ばしてそれに手頃の石を以[もっ]て、彼等が狼狽[うろた]へる所を頭上より平素[ひごろ]手馴れたる▼礫[つぶて]を以[もっ]て彼等を悩まし給へ、私[わたくし]は裏門際[うらもんぎは]へ出[い]でまして、茲[ここ]は我々両名が充分に油断をして寝て居ると見せかけまして、彼が計略の裏を掻[か]いてやりませう」と其処で両個[ふたり]の者は早々身仕度[みじたく]を致しましたることでございます、
用意の礫[つぶて]等を持ちまして、金長は裏手にあります松の枯木[こぼく]に攀[よ]じ上[のぼ]りまして、木の▼絶頂で足場を計って、敵近寄らば起[おこ]って頭上より礫[つぶて]を以[もっ]て悩まさんと云ふ有様でございます、又鷹は鷹で充分用意を致してサァ来い来[きた]れ、今に▼寄手[よせて]が来[きた]ったら充分悩まして呉れやう、と言ふので既に其の夜[よ]最早▼丑満[うしみつ]の頃ほひ、彼が乗込む以前より相待[あいま]つと言ふことになりました、左様なこととは▼津田方[つだがた]は夢にも知らず、四天王を始め主個[あるじ]の六右衛門、多くの眷族を率[ひき]ゐ追々[おひおひ]と押寄せて来ました、我の腹心鹿の子が先廻りを致して、此のことを注進したとは夢にも知りません、先[ま]づ第一番に腹心の川島九右衛門[かはしまきゅうゑもん]が先頭となりまして、弟の作右衛門[さくゑもん]又は屋島の八兵衛[やしまのはちべゑ]、多度津の役右衛門[たどつのやくゑもん]を始め、其の同勢[どうぜい]約[およ]そ二百五六十匹と言へるもの、数多[あまた]の眷族を従[したが]へ何[いづ]れも▼獲物々々[えものえもの]を携[たづ]さへまして、又▼小石の用意等に及び、彼[か]の金長の旅館へ対して進み来[きた]った、茲[ここ]は津田八幡[つだはちまん]の森の裏手に当りまする所にて、深々[しんしん]と致してある、これへ対して▼押し寄せて参りましたが、何分[なにぶん]夜[よ]は更[ふ]け渡ってございますから、何[いづ]れも▼寝入り際[ばな]でございまして、戸毎[こごと]に静かに相成って、只[ただ]四辺[あたり]の松には、そよそよと風が亘[わた]ってあるとばかりでございます、門際[もんぎは]より進み寄った▼先手[さきて]の手合[てあひ]は息を殺し、凝[ぢっ]と耳を欹[そばだ]てまして敵の様子を考へ、偖[さて]は充分寝入際[ねいりばな]であると心得、一ッの鉤縄[かぎなは]を取って先手屈強の奴が二三匹、忽[たちま]ち高塀[たかへい]へ放り懸けまして、其の鉤縄を伝[つた]って門内へ忍び込んだ、▼内部[うちら]で▼閂[かんぬき]を外してこれをソッと開[ひら]いたることでございます、
正面の玄関へ対して川島九右衛門 九右「それ乗り込めッ」と言ふので、先手の手合[てあひ]は玄関先より忍びまして、▼間毎々々[まごとまごと]の様子を覗[うかが]ひながら、奥まりたる所の彼[か]の金長が居間と思[おぼ]しひ所に来て見ると、▼夜具[やぐ]を打被[うちかぶ]りまして灯火[あかり]は幽[かす]かに相成って居ります、偖[さて]は此所[ここ]に▼臥[ふ]して居るのが金長であるかと思ひまして、彼[か]の川島九右衛門はツカツカと進み寄り。蒲団[ふとん]の上よりムンヅと打跨[うちまた]がって用意の一刀逆手[いっとうさかて]に取直して、蒲団越[ふとんごし]に声立てさせじと思ひまして、拳[こぶし]も貫[とほ]れと勢[いきほひ]込んで上より突通[つっとほ]しましたズブズブズブと音が致しましたが、キャッともスッともコンコンとも何とも言ひません、オヤオヤこれは何[ど]うも変であると思ひ其の蒲団を除[の]けて見ますと、中は何[ど]うだ、藻脱[もぬ]けの殻[から]や空蝉[うつせみ]の更[さら]に姿がないのでございますから、サァ驚いたる所の一同、寄手[よせて]の者共[ものども] 九右「オォ何[ど]うした、偖[さて]は金長早[は]や風を喰[くら]って此の事を推量なして逃げ失せたか、残念なり」 と牙を噛んで地団駄[ぢだんだ]踏む様子合[やうすあひ]でございました、併[しか]し何[ど]うも彼がこれを推量して逃げさうな筈[はづ]はないが、何が為に彼は▼逐電[ちくでん]したのであらうと思ひ、蒲団の中をズッと捜[さぐ]り、容子[ようす]を考へて見ますと、未[いま]だ温気[あったまり]がございますから 九右「ムムン……して見れば未[ま]だ遠くへは行くまい、各自[おのおの]裏手の用心、早速進んで後を追っかけさっしゃい 一同「合点[がってん]なり」 と▼手んで手んでに先手の奴は軈[やが]て雨戸を開[ひら]いて、広庭[ひろには]へ飛び降りましたことでございます、
今裏門の方へドンドン駈け出[いだ]しました、すると大勢の頭上より見る見る間に、バラバラ、落ちて参りました礫[つぶて]の為に、或[あるひ]は頭[かしら]を打たれ眉間[みけん]を打破[うちわ]られまして忽[たちま]ち五六匹其の処へ打倒れまする、数多[あまた]の者は▼八方へ散乱を致し、これは如何[いか]にと驚きまする、川島九右衛門今縁側[えんがは]より飛び降りんとして大勢の騒ぎ立てるを見て、何事やらんと大刀[だんびら]携[たづさ]へ近寄らんと致しまする時に、彼[か]の松の絶頂にあって▼大音声[だいおんじゃう]に呼ばはりました 金長「ヤァヤァ津田方の奴等暫[しばら]く待てッ、日開野金長これにあり、汝等[なんぢら]如き奸者[しれもの]の為に討[うた]るるやうな金長ならず卒[い]で拙者[それがし]の手練[てなみ]の程を見せて呉れん」 と先程から準備[ようい]を致して居りました礫[つぶて]を手当り次第に打付[うちつ]けました、よって再び不意を喰[くら]って、アッとばかりに驚きまして、皆々八方へ散乱を致しますることでございまする 「偖[さて]は▼敵には推量して居[を]ったのかそれ各位方[おのおのがた]、此の木を伐り倒して彼を落[おと]し、速[すみや]かに金長を討取れ」 と言ふので、九右衛門は皆の手合[てあひ]に▼下知[げぢ]を致して居りますなれども数多[あまた]の小狸は互[たがひ]に狼狽[うろうろ]いたしまして、討たれる者は▼其の数を知りません、見る見る間に多く其の所へ倒れますると言ふことに相成って、只[ただ]迂路々々[うろうろ]するとばかりでございます、
此の時[とき]左手の小高き所で大音声[だいおんじゃう] 鷹「如何[いか]に六右衛門確かに聞け、斯く申する拙者[それがし]は日開野金長が▼党中[みうち]に於[おい]て、藤の樹寺の森を預かる鷹と言へる者これにあり、いでや我が手練[てなみ]の程を見せて呉れん」と言ふより早く、用意の大木[たいぼく]大石[だいせき]等へ手をかけまして当[あた]るに任せてドンドン打ち付けることでございまするから、津田方の眷族共は頭[かしら]を割られまして、負傷するものは数知れん有様であります、▼寄手[よせて]は却[かへ]って敵の準備[ようい]に不意を食[くら]って、実に眼も当てられぬ所の有様であります、此の時狼狽[うろた]へ騒いで津田方の中[うち]よりして一匹の古狸[こり]それへ罷[まか]り出[い]でまして、大音声[だいおんじゃう]に呼[よば]はりました ×「敵は多寡[たか]の知れたる主従二個[しうじうふたり]、味方は斯[か]く大勢[たいぜい]押寄せながら敗北をするとは如何にも言ひ甲斐[がひ]ない所の有様、イデや拙者[それがし]が討取って呉れやう」 と彼[か]の絶頂[たかみ]を▼睨[ね]め付けました ×「如何に鷹とやら、汝これへ来[きた]って尋常に勝負に及べ」 これを聞くと此方[こなた]は莞爾[にっこり]笑ひまして 鷹「生意気なことを吐[ぬか]す奴だ、然[さ]う云ふ手前は何奴である」 ×「オォ拙者[それがし]こそは穴観音の属党[みうち]に於[おい]て▼剛の者と衆[ひと]に言はれたる四天王の一匹、川島九右衛門なり、汝これに来[きた]って我と尋常の▼雌雄[しゆう]を決すべし 鷹「吐[ぬか]したりやホザいたり、何条[なんでう]何程[なんほど]のことやあらん、望[のぞみ]とあらば如何[いか]にも勝負を致して呉れやう」 と言ふより早く木の絶頂より身を跳[おど]らして、地響[ぢひびき]を致して其処[そいつ]へ飛び下りました、為[し]てやったりと川島が牙を瞋[いか]らして啖[くら]ひ付きに及ばんと云ふ奴を、ハッと体[たい]を躱[かは]した
鷹「ナーに▼牙口才[ちょこざい]なり」 と此方[こなた]も流石[さすが]に金長に従って乗込み、少しも彼が尻尾へ啖[くら]ひ付かんと致した、此方は九右衛門、 九右「猪口才[ちょこざい]なり」 と身を引外[ひっはづ]して置いて、軈[やが]て彼が首筋へ喰ひ付かんとすめ時に、ヒラリと身を引外[ひっはづ]したる鷹は、鎌を五本並べたやうな恐ろしい所の牙を瞋[いか]らし、九右衛門の左の耳へウンとばかりに啖[くら]ひ付いた、川島大きに驚いた、これは大変と振り放さんとする所を、鷹は一生懸命唸[うな]りながらも二振り三振り振り廻しましたることでございますから、遂々[とうとう]九右衛門左の耳を▼中半[なかば]ばかり喰ひ断[ちぎ]られました、ハッと驚いて斯[こ]は叶はぬと口程にもない卑怯な奴、既に逃げ出[い]ださんとる奴を 鷹「己[おの]れ卑怯な川島奴[め]逃げんと致して逃[にが]さうや、己[おの]れが始めの▼大言[たいげん]を忘れたか、返せ戻せ」 とドンドンドンドン其の後を追っかけることでございますから、既に川島が一命は風前の灯火[ともしび]とも相成った、所が大勢の中で▼弟の作右衛門、これを見まして大きに驚いた、兄貴の難義を救[たす]けんと、ドンドンそれへ駈け付け参りましたことでございます、素[もと]より鷹は血気壮[さか]んの勇士、見渡す限り数多[あまた]の大軍、四方八方より妨[さまた]げをせんとする奴を、或ひは蹴散らし踏み飛ばし、手玉に取って投げ付け又は啖[くら]ひ倒しに及びました、なれども多勢に無勢のことでありますから、其の身も既に数ヶ所の手傷[てきず]を蒙[かうむ]りながらも、尚[な]ほ激しき働きに及んで居りましたが今逃げ行く川島九右衛門をドンドン追[おっ]かけんと致しまする所へ、横合[よこあひ]から飛び込んで参りました作右衛門 作右「汝[おの]れ我が牙の鍛[きた]へし様子を見ろ」 と呼ばはりながらも、鷹の肩口へカブリと一口[ひとかぶり]噛[かぶ]り付きました 鷹「ナーに猪口才[ちょこざい]なり」 と此方[こなた]は身を転[かは]さんと致しますると雖[いへ]ども、最初に不意を喰[くら]ってカブリ付かれたることでございますから、鮮血[せんけつ]迸[ほとば]しって余程身体[しんたい]にも疲れを催したることであります、なれども鷹は斯様[かやう]な負傷[てきず]を▼事ともせず、鷹「何をさらす」 と作右衛門を望んで振り向く途端に彼が首筋へカブリと一口[ひとかぶり]、喰[かぶ]り付きました、喰ひ付かれながらも作右衛門は彼を喰い殺さんと致す、敵も味方も名を得ました者でありますから、上になり下になり、組んず転んず頻[しき]りに其の所に於[おい]て勝負を決して居ります、
又遥かに前方[むかふ]に於てはこれ最早[もはや]礫[つぶて]は尽きましたることでありますから、木の上から飛び下りましたる金長[きんちゃう]大勢を当るを幸[さいは]ひ四方八面に打悩[うちなや]ますのでございました、だが此の金長の家来の鷹が今は東西に分[わか]れまして、彼[か]れ一匹に数百[すひゃく]の曲者[くせもの]が取巻いて参る奴を頻[しき]りに▼荒れて居ります、然[しか]るに敵に名を得ました四天王の一匹作右衛門であります、己[おの]れは血気の勇に励まされまして、何でも此の奴を一番我が▼噛節[はぶし]にかけて呉れやうと言ふので、焦[あせ]り狂って居りまする中[うち]に到頭[とうとう]鷹の勢[いきほひ]や優[まさ]ったりけん、下敷となりまして、跳ね返さんこと自由に相成らず、其の中[うち]に彼[か]の前足に強[したた]かに喰ひ付かれまして、彼は非常に苦しみを催し、頻[しき]りに助けを呼ばって居りまする、捨て置く時には鷹の為に一命は危ないのでございます、所が一旦逃げ去った九右衛門狸はホッと後を振返って見ると、彼[か]の鷹の為に現在の弟[おとうと]作右衛門は、既に一命にも及ばんと云ふ有様でありますから 「これは大変▼彼が難渋を救ってやらう」 と云ふので再び取って返し、今[いま]鷹が作右衛門の咽喉元[のどもと]へ止[とど]めの歯節を向けんと致して居りまする折柄[をりから]、駈け付けましたは九右衛門でございました▼彼が尻尾を▼望んで、グッと一口牙を瞋[いか]らして喰付き、二振り三振り振り廻した、実に危ない所であるが、事ともせず彼方[かなた]へ駈け抜け此方[こなた]へ廻り、二匹を敵手[あひて]に茲[ここ]に血戦を致す、実に鷹の働[はたらき]は宛然[さながら]▼悪鬼[あくま]の荒れたるばかりの勢[いきほひ]でござります、津田山の方より▼押寄せましたる、多くの眷族は互ひに遠くにあって此の鷹の働[はたらき]を眺めまして、アレよアレよと騒ぐのみ、只一匹と致して傍[そば]へ▼進み寄るものもないのであります、川島に於ては取って返して一時は弟の危難を救ったとは言へど、却々[なかなか]働[はたらき]のある鷹のことでございますから、自分の敵ではないと思ひ、再び卑怯にもドンドン逃げ出[いだ]しました、作右衛門狸もこれまでと思ひましてか共崩[ともくづ]れと相成り逃げ出[いだ]す様子合[やうすあひ]でございます、
益々[ますます]哮[たけ]り狂ひまして 鷹「汝[おの]れ逃がして成るものか、返せ戻せ」 と再び後を追駈[おっか]ける様子合[やうすあひ]、何分[なにぶん]夜明[よあけ]前のことでございまして、暗さは暗し▼真[しん]の闇、▼土地不案内なることでございまするし裏門より小高き津田山の方に逃げ出[いだ]さんと云ふ有様、其奴[そいつ]をドンドン追駈[おっか]けましたる所が、図[はか]らず▼川島兄弟の奴等は森の中[うち]左右に分[わか]れて逃げ込んだのでございます、鷹は 「汝[おの]れ憎[にっ]くき曲者[しれもの]、返せ戻せ」 と言ひながら追っかけましたが、余り激しく後を追駈けたのでありますから、如何[いか]なる途端[はづみ]でありましたか、不図[ふと]木の根に躓[つまづ]いて真っ逆[さかさ]まに其の所へ倒れましたる時に、▼脾腹[ひばら]を強[したた]かに打ちまして気絶をせんばかりでございます、素[もと]より多くの敵を引受けまして、其の身充分の疲れを催して、其の上[うへ]手傷を数多[あまた]受けて居りまする所から、気は遠く相成りまして脇腹を押[おさ]へ漸[やうや]う起上[おきあが]らんとする所へ、誰か我を介抱して起[おこ]して呉れると思ひましたら、エライ間違ひ、此の時[とき]斯[か]く覚[さと]って▼矢庭[やには]に取って返した作右衛門忽[たちま]ち鷹の咽喉笛[のどぶへ]目懸けて飛び付いた、何しろ自分の急所の咽喉元[のどもと]を作右衛門の為にカブリと喰[くら]ひ付かれましたる事でございますから、▼何条以[もっ]て堪[たま]るべきや、鷹はアッと声を発しましたが、却々[なかなか]喰[くら]ひ付いたる作右衛門容易に離しません、▼唸[うなり]を生じて歯節も徹[とほ]れと噛[かぶ]り始めました、日頃より▼歯節自慢の作右衛門のことでございまして、それが一生懸命に▼これへ喰[くら]ひ付いたのでございますから、何[ど]うも此奴[こいつ]を離すことが出来ません、牙に充分力を篭[こ]めましてブリブリと振り廻しました、其の上▼逃げ遅れましたる津田方の眷族はこれを見まして、バタバタ其の所へ駈け付け来[きた]りまして、何[いづ]れも作右衛門に力を合せて、鷹の四足[よつあし]又は尻尾を当るを幸[さいは]ひカブリカブリと喰[くら]ひ付いたのでございます、鷹は手傷を蒙[かうむ]って居[を]る上に斯様[かやう]な破目[はめ]に相成ったのでございますから、実に無念と一声を発しましたが此の世の別れ、遂[つひ]に作右衛門の為に其の所にて敢果[あへ]なき最期[さいご]を遂げましたのは、実に憐[あは]れ▼愍然[びんぜん]の至りでございます、畢竟[ひっきゃう]此処に鷹が討死[うちじに]を遂げて此の場の落着[おさまり]如何[いかが]相成りませうか、チョッと一息[ひといき]いたしまして。