備後土産稲生夜話(びんごみやげいのうのよばなし)第五回


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第五回

[かく]て稲生平太郎は降[ふり]しきる雨を笠[かさ]に凌[しの]ぎ麓[ふもと]の方[かた]より登り行[ゆく]に雨風[あめかぜ][あら]く殊に闇夜なれば何[いづ]れを道とも判然[わから]ねど草を踏分[ふみわけ]行程[ゆくほど]に幽[かすか]に響く谷川の流[ながれ]の音は聞[きこ]ゆれど四辺[あたり]森々[しんしん]として見ること能[あた]はず遠音[とうね]に伝ふる狼[おふかみ]の声も止[やみ]て只[ただ]寂寞[せきばく]と物淋[ものさび]し平太郎は三次殿の墓と覚[おぼ]しきに行当りしかば手探りに[くさ]を結付[ゆいつけ][しる]しとなし一息[ひといき]ついて下向[げこう]に趣[おもむ]きしがその途中何なるか正体[せうたい][わか]らぬ者来り行当るに驚けば彼方[かなた]も驚愕[びっくり]飛逃[とびのき]て物をも言[いわ]ず一刀を抜[ぬく]より早く切付[きりつく]る此方[こなた][おなじく]抜放[ぬきはな]丁々丁[てうてうてう]と切結ぶ闇にも晃[きらめ]氷の稲妻白刃[しらは]の光[ひか]りに彼方[かなた]より声を懸け須臾[しばし]またれよ待[まて]須臾[しばし]と云[いふ]に此方[こなた]も初めて知りし人の声に[さて]は変化[へんげ]にはあらざるやと言時[いふとき]彼方[かなた]言葉掛け稲生氏には候はずや[さて]は貴公は三の井氏かと互[たがい]に無事を歓喜[よろこび]て後[のち]平太郎は三の井に何故[なにゆえ]此処[このしょ]へ来られしと云[いふ]を打消[うちけし]権八平太郎に向ひて君の帰りが遅きゆへ若[も]し何ごとかありもせば川田様御兄様に此[この]権八が相済[あいすま]ねば兎[と]にも角[かく]にも行[いっ]てみんと君を尋[たづね]に来[きた]りしに不図[はからず]出会[であひ]し闇夜の疎忽[そこつ][ゆる]し給へと詫[わび]ければ平太郎は聞敢[ききあへ]君とは知らず只今の無礼[ぶれい][かつ]は御配慮下さる段[だん][かたじ]けなしと一礼なし打連立[うちつれだっ]て帰りし後[のち][ぬれ]し衣裳[きもの]を脱換[ぬぎかへ]て大熊山の況抔[さまなど]を問答[とひこたへ]てぞ居[を]れども別に奇遇[ふしぎ]もあらざるゆへ暫時[しばし][やすら]ふそのうちに夜はほのぼのと明渡[あけわた]るに平太郎は一先[ひとまづ]帰邸[きてい][す]べしと暇[いとま]を告[つげ]て帰りけり其[その]夕刻権八は稲生の邸[やしき]に音便[おとづれ]て互[たがひ]に笑ひ言[いへ]るよう妖怪[ようかい][など]のことを世に喋々[てうてう]話し伝ふるは実に小児[こども]の戯言[たわむれごと]なり詰[つま]らぬことをしてけりと大熊山に往[ゆき]しを後悔なししが其後[そのご]は斯[かか]る事もせず月日を送り何時[いつしか]七月と遷[うつ]り替[かわ]り暑気増[ませ]ば納涼[すずみ]がてら三の井は稲生と倶[とも]に二筋川[ふたすぢがは]の辺[ほとり]遊歩[ゆうほ]なさんと出行[いでゆき]たり

▼森々として…ものしずかな様子。
▼三次殿の墓…三好家の塚。三好家については「第四回」の文章参照。
▼艸を結付記しとなし…ちゃんと墓まで到達しました、というあかしを残しておくための行動。
▼下向…山くだり。
▼丁々丁…刀の刃と刃がぶつかりあう音。ちゃんちゃんちゃん。
▼氷の稲妻…氷は刀を綺麗に表現した美称。刀がぶつかりあった時に生じる火花の形容。
▼川田様…川田茂右衛門。平太郎のおじ。
▼御兄様…稲生新八郎。平太郎の兄。
▼疎忽…しっぱい。あわててとった行動。
▼喋々話し伝ふる…あちこちでいろいろと語り継がれているのは。
▼遊歩…ぶらぶら散歩する。

記者曰[きしゃいはく]二筋川は上布努村よりより半道[はんみち][ばかり]東に当る水源[みなもと]は大熊山の脇より出[い]でただ一筋の流[ながれ]なれども二十四五丁先より二筋に分れ流るる故[ゆへ]にや原川[はらかは][あが]り川と云[いふ][しか]るに此[この]川の魚[うを]の住遷[すみかは]る話あり原川には鮭[さけ]あれども上り川には一尾[いっぴき]もなし上り川には鱒[ます]あれども原川には一尾[いっぴき]もなし斯[かく][みなもと]は同じ流[ながれ]にして[うを]の品[しな]の住替[すみかは]るは不思議と云[いは]ざるを得ざるなり然れども陸奥[みちのく][つぼ]の碑[いしぶみ]の辺[ほと]りの川には鮭の渡りこぬ例[ためし]あれば同類なるべき歟[か]二筋川は大熊山の脇を過[すぎ]北原宮[きたはらみや]を通[とほっ]て原川上り川に流る水勢[すゐせい]急にして河原広ければ大熊嵐[おほくまあらし]に暑[あつさ]を忘れ飛行[とびゆく][ほたる]は秋の夜の星のごとは水の面[おもて]に写る月影は寒き夜の氷に似て実に絶景の勝地[しゃうち]なりけり

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▼上布努村…平太郎たちの住んでる村。
▼魚の品…さかなの種類。
▼壺の碑…平安時代からその名が知られていた陸奥国の歌枕の一ッ。
▼大熊嵐…大熊山からふきおろしてくる風。
▼勝地…景色のよい名所。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい