斯[かく]て稲生平太郎は降[ふり]しきる雨を笠[かさ]に凌[しの]ぎ麓[ふもと]の方[かた]より登り行[ゆく]に雨風[あめかぜ]烈[あら]く殊に闇夜なれば何[いづ]れを道とも判然[わから]ねど草を踏分[ふみわけ]行程[ゆくほど]に幽[かすか]に響く谷川の流[ながれ]の音は聞[きこ]ゆれど四辺[あたり]▼森々[しんしん]として見ること能[あた]はず遠音[とうね]に伝ふる狼[おふかみ]の声も止[やみ]て只[ただ]寂寞[せきばく]と物淋[ものさび]し平太郎は▼三次殿の墓と覚[おぼ]しきに行当りしかば手探りに▼艸[くさ]を結付[ゆいつけ]記[しる]しとなし一息[ひといき]ついて▼下向[げこう]に趣[おもむ]きしがその途中何なるか正体[せうたい]明[わか]らぬ者来り行当るに驚けば彼方[かなた]も驚愕[びっくり]飛逃[とびのき]て物をも言[いわ]ず一刀を抜[ぬく]より早く切付[きりつく]る此方[こなた]同[おなじく]抜放[ぬきはな]し▼丁々丁[てうてうてう]と切結ぶ闇にも晃[きらめ]く▼氷の稲妻白刃[しらは]の光[ひか]りに彼方[かなた]より声を懸け須臾[しばし]またれよ待[まて]須臾[しばし]と云[いふ]に此方[こなた]も初めて知りし人の声に偖[さて]は変化[へんげ]にはあらざるやと言時[いふとき]彼方[かなた]言葉掛け稲生氏には候はずや偖[さて]は貴公は三の井氏かと互[たがい]に無事を歓喜[よろこび]て後[のち]平太郎は三の井に何故[なにゆえ]此処[このしょ]へ来られしと云[いふ]を打消[うちけし]権八平太郎に向ひて君の帰りが遅きゆへ若[も]し何ごとかありもせば▼川田様や▼御兄様に此[この]権八が相済[あいすま]ねば兎[と]にも角[かく]にも行[いっ]てみんと君を尋[たづね]に来[きた]りしに不図[はからず]出会[であひ]し闇夜の▼疎忽[そこつ]赦[ゆる]し給へと詫[わび]ければ平太郎は聞敢[ききあへ]ず君とは知らず只今の無礼[ぶれい]且[かつ]は御配慮下さる段[だん]忝[かたじ]けなしと一礼なし打連立[うちつれだっ]て帰りし後[のち]濡[ぬれ]し衣裳[きもの]を脱換[ぬぎかへ]て大熊山の況抔[さまなど]を問答[とひこたへ]てぞ居[を]れども別に奇遇[ふしぎ]もあらざるゆへ暫時[しばし]憩[やすら]ふそのうちに夜はほのぼのと明渡[あけわた]るに平太郎は一先[ひとまづ]帰邸[きてい]為[す]べしと暇[いとま]を告[つげ]て帰りけり其[その]夕刻権八は稲生の邸[やしき]に音便[おとづれ]て互[たがひ]に笑ひ言[いへ]るよう妖怪[ようかい]抔[など]のことを世に▼喋々[てうてう]話し伝ふるは実に小児[こども]の戯言[たわむれごと]なり詰[つま]らぬことをしてけりと大熊山に往[ゆき]しを後悔なししが其後[そのご]は斯[かか]る事もせず月日を送り何時[いつしか]七月と遷[うつ]り替[かわ]り暑気増[ませ]ば納涼[すずみ]がてら三の井は稲生と倶[とも]に二筋川[ふたすぢがは]の辺[ほとり]を▼遊歩[ゆうほ]なさんと出行[いでゆき]たり
記者曰[きしゃいはく]二筋川は▼上布努村よりより半道[はんみち]計[ばかり]東に当る水源[みなもと]は大熊山の脇より出[い]でただ一筋の流[ながれ]なれども二十四五丁先より二筋に分れ流るる故[ゆへ]にや原川[はらかは]上[あが]り川と云[いふ]然[しか]るに此[この]川の魚[うを]の住遷[すみかは]る話あり原川には鮭[さけ]あれども上り川には一尾[いっぴき]もなし上り川には鱒[ます]あれども原川には一尾[いっぴき]もなし斯[かく]源[みなもと]は同じ流[ながれ]にして▼魚[うを]の品[しな]の住替[すみかは]るは不思議と云[いは]ざるを得ざるなり然れども陸奥[みちのく]の▼壷[つぼ]の碑[いしぶみ]の辺[ほと]りの川には鮭の渡りこぬ例[ためし]あれば同類なるべき歟[か]二筋川は大熊山の脇を過[すぎ]北原宮[きたはらみや]を通[とほっ]て原川上り川に流る水勢[すゐせい]急にして河原広ければ▼大熊嵐[おほくまあらし]に暑[あつさ]を忘れ飛行[とびゆく]蛍[ほたる]は秋の夜の星のごとは水の面[おもて]に写る月影は寒き夜の氷に似て実に絶景の▼勝地[しゃうち]なりけり