備後土産稲生夜話(びんごみやげいのうのよばなし)第十七回


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第十七回

登時[そのとき]一間[ひとま]に声ありて早まり給ふな稲生氏[いのううぢ]と云[いは]れて亦[また]も駭[おどろ]く稲生周章[あはてて]刀押隠せば襖[ふすま]を開[ひら]き三の井が徐々[しづしづ][いで]て稲生に向[むか]最前[さいぜん]自己[おのれ]用事ありて次の一間[ひとま]へ来[きた]る折[をり][よ]は明渡[あけわた]れど襖をもれて火影[ほかげ]映れば未[いま]だ起出[をきいで]給はぬかと失敬ながらさし覗[のぞけ]ば委細は知らねど切腹為[なさ]んず御容子[をようす]ゆゑ驚きしまま不図[はからず]声を出[いだ]せしなりと語るに稲生面目[めんぼく]なく差俯向[さしうつむき]て権八郎に今宵[こよひ]陰山正太夫が[とぎ]に来[きた]女の首を斬[きり]しより長光[ながみつ]の一刀折[をれ]たれば兄庄左衛門に言訳[いひわけ]なしと切腹せしを物語[ものがたり][かく]ては自己[おのれ]もまた庄左衛門に言訳[いひわけ]なきゆへに倶[とも]に割腹[かっぷく]して果[はて]んと思ふ心なりと聞[きい]て三の井呆れ果[はて]須臾[しばし]言葉もなかりしが軈[やが]て平太郎に陰山正太夫が兄に言訳[いひわけ]たたずして切腹為[なせ]しは是非なけれど続[つづい]て御身[おんみ]が敢果[あひはて]なば後日に言訳[いひわけ]する者なからん若[も]しまた庄左衛門が疑惑を生じ怒[いか]るとも君の所為[しわざ]にあらざれば決して死[しせ]るに及[およぶ]まじこの三の井が力を尽し御身の難儀にならざるよふ取計[とりはから]ひまいらせん陰山が死骸[なきがら]は何[いづれ]へ置[をか]れしやと尋[たづね]られ 匿置[かくしおき]し納戸[なんど]の戸を開[あけ]三の井氏御覧あれと云[いひ]つつ蒲団をとりのければ正太夫の影だにあらねば権八郎不審はれず稲生氏正太夫の死骸[しがい]は何[いづ]れにと問[とは]れ平太郎も陰山の形あらざるに始めて気が付き大[おほい]に駭[おどろ]き猶[なほ]また納戸の中を残るくまなく捜せども[あけ]に染[そま]りし血汐[ちしほ]の色さへ消[きえ]てなくなり唯[ただ][たたみ][ばか]りあるのみなれば平太郎いよいよ呆[あきれ]須臾[しばし]茫然として居たりけり稍[やや]ありて権八郎太き息をつき稲生に向[むか][これ]も正[まさ]しく変化[へんげ]の所為[しょゐ]にて御身[おんみ][あやふ]く一命を落[おと]す処[ところ]なりしも僥倖[さいはひ]拙者が来合[きあは]せたりしは偏[ひとへ]に神明[かみ]の加護にやよらんと感歎すれば稲生は猶[なほ]さら大[おほい]に歓喜[よろこび]権八郎が助くるにあらざれば犬死[いぬじに]せんとて厚く実意を謝[しゃ]した りけり

▼最前…いまさっき。
▼火影…灯火のあかり。
▼伽…夜をいっしょに明かすこと。
▼女の首…転がり出てきた女の生首の妖怪。稲生家にあらわれたとされている妖怪の中で、女の生首はどの本にもたびたび登場している妖怪の一ッ。
▼長光…備前長船。
▼庄左衛門…陰山正太夫の兄。折れてしまった備前長船の持ち主。
▼影だにあらねば…押し込んどおいたはずの陰山正太夫、かげもかたちもありゃしない。
▼不審はれず…疑問点が一切はれない。
▼朱…あかいいろ。血。
▼太き息をつき…おおきなためいき。
▼犬死…むだ死に。

編者曰[いはく]稲生物怪録[ぶっかいろく]には三の井権八郎は同年九月上旬[はじめ]に死去[みまかり]しと記したれど其[そ]は稲生の養子新八郎の死去せしを書誤[かきあやま]りし者ならん又新八郎も妖魔の為に死去せしにはあらず命数[めいすう]の定まれる者なりと云[いふ][そ]は次の条[くだり]に魔王顕[あらは]れ平太郎に告[つぐ]るを待[まち]看客[かんかく]宜敷[よろしく]知給[しりたま]ふべし

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▼稲生物怪録…このおはなしのもとになった、稲生家に起きた怪異をしるした物語。絵巻物や写本のかたちで読み継がれていました。内容からみるに柏正甫の『稲亭物怪録』(1783)に属する写本が典拠となっていると知れます。
▼新八郎…平太郎の兄。
▼命数…生まれたときから決まっていた寿命。
▼看客…この本をお読みのみなみなさま。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい