×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

備後土産稲生夜話(びんごみやげいのうのよばなし)第十回


第一回
第二回
第三回
第四回
第五回
第六回
第七回
第八回
第九回
第十回
第十一回
第十二回
第十三回
第十四回
第十五回
第十六回
第十七回
第十八回
第十九回
第二十回

もどる

第十回

[さて]も稲生の養子新八郎は此[この]二三日少し気分[きぶん][こころよ]く病[やまい]の床を離れしゆへ久振[ひさしぶ]りにて平太郎に面会せんと思[おもひ]たち実父に告[つげ]て里を出[いで]遊歩[ゆうほ]なから養家へ来[きた]り平太郎を訪[とひ]ければ此方[こなた]は兄の来[きた]りしを大[おほい]に喜び相互[あいたがひ]に囲碁など出[いだ]して手合[てあひ]なし[さぎ]と鴉[からす]のあらそひに日を暮せば平太郎兄に向い今宵は泊って行給[ゆきたま]と進むれば新八其意[そのい]に任せて泊らんと約する折柄[おりから][にはか]に雨を催せば新八郎僥倖[さいはひ]と下男八蔵を呼[よび]床を敷[しか]せて横になり平太郎と談話[はなし][など]して有[あり]けるうち雨烈[はげ]しく降来[ふりきた]りければ最早[もはや]今夜は音信[おとづれ]る人もあるまじとて平太郎も倶[とも]に床を敷[しき]枕に就[つか]んとする折柄[おりから]鴨居[かもゐ]の上の穴よりして何[なに]ともしれぬ物飛出し二個[ふたり]が寝[いね]蚊帳[かや]の上をくるくる廻[めぐ]る容子[ようす]ゆへ新八郎は何ならんと瞳をすへて熟々[つくづく]見れば今日しも自己[おのれ]が履来[はききた]りし下駄にてあれば大[おほひ]に駭[おどろ][これ]何ごとと稲生に問[とへ]ば平太郎答[こたへ]て云[いふ]やう[これ]ぞ妖魔[ようま]の所為[なすわざ]なれど怖[をそ]るることあらざる故[ゆへ]捨置[すておき]給へ気支[きつかへ]なしと雖[いへど]も新八大[おほい]いに怖[おそ]れ眠れもせで稍[やや]暫時[しばし]見つめて居る其[その]うちに何処[いづれ]へ行[ゆき]しや消失[きへうせ]ければ漸[ようや]く新八安堵[あんど]なし再び枕に就[つか]んとすると傍[かたはら]掛竿[かけさを]に投掛置[なげかけおき]し帷子[かたびら]の袖[そで]の中[うち]より一[ひとつ]の生首出ると等しく新八郎へ飛付[とびつく][さま]に見へたれば弥々[いよいよ]増々[ますます]驚怖[きゃうふ]なし[いけ]たる心地あらずして蒲団を冠[かぶり]夜明[よあけ]を遅々[おそし]と待兼[まちかね]けるうち早[はや]東雲[しののめ]の鶏の声告渡[つげわた]るに心嬉しく起出[おきいで]つ稲生に送られ実家なる中山方へ帰りしが此後[こののち][やまい]再び重り煩[わづら]いけるこそいたいたしけり平太郎は兄を送り我[わが]屋敷へ帰り来[きたれ]ば近所の若者五六人来合[きあはせ]今宵は皆々[とぎ]致すと云[いふ]に稲生心に可笑[おかし]く此[この]人々も武内や横井森川なぞと同一[おなじ]にて皆[みな]逃帰るべしと思へど[ことば]を飾[かざり]それは千万[せんばん][かた]じけなし何分[なにぶん]依頼[たのむ]と云[いふ]うちに山寺の鐘の早くも初更[しょや]を告渡[つげわた]れば稲生は一個[ひとり]眠りに就[つき]しが後[あと]に大勢寄合[よりあひ]四方山[よもやま]の話をなし何卒[なにとぞ]怪物[かいぶつ]を生捕て手柄なさんと争ふうち何時[いつしか]月は山の端[は]に隠れて最々[いといと]物淋しく風まで颯々[さつさつ]と吹来[ふききた]る人々何[な]にとなく物凄くなりぞっと身の毛さかだち寒[さむさ]を覚[おぼ]ゆれば火鉢の辺[そば]へ膝をよせ互[たがい]に顔を見合[みあは]しつ薄気味悪くしり込[ごみ]する折[をり]火鉢の中[うち]より忽然[こつぜん]と炎燃上[もへあが]り毬[まり]のごとき玉となりしに伽[とぎ]の人々胆を消[けし]一度に飛退[とびのき]逃げんとする座の中へ[どう]と落[おち]たるが其[その]音のすさまじくして恰[あたか]も落雷せし況[さま]なるに各々[みなみな]顔色[がんしょく]青ざめ周章[あはてて]庭へ飛下[とびくだ]り命からがら逃帰れば稲生は余りさわがしさに起出[おきいで]たれど別に変[かは]りし様子なけれど伽[とぎ]の人々がをらざるゆへ彼らも又怪事に罹[かか]り逃帰りし者ならんと心付[こころづき]四辺[あたり]を窺[うか]がへば畳[たたみ]刎返[はねかへ]して有[ある]ゆゑ敷直し見るに床[とこ]の間の前なる畳の真中[まなか]二尺四方ほど真黒[まっくろ]に焼[やけ]こげてありしかばこのことならんと思ひすて其侭[そのまま][いね]つ翌朝見れば焼[やけ]たる処[ところ]少しもなく元の如くにてありしといふ

▼新八郎…平太郎の兄。
▼実父…中山源七。
▼養家…稲生家。
▼鷺と鴉のあらそひ…囲碁の勝負のこと。鷺は白い碁石、鴉は黒い碁石。
▼鴨居…障子やふすま等の上にわたしてある横木。
▼蚊帳…原文では「蚊」のみ。
▼瞳をすへて…じっと焦点をさだめて。
▼掛竿…着物や手ぬぐいを掛けて置くもの。
▼生たる心地あらずして…眠ってるその真上をぐるぐる生首が飛んでたんじゃ、生きた心地がしない。
▼東雲の鶏の声…夜が明けたをしらせるコケコッコーの鳴き声。
▼伽…夜を一緒に明かすこと。
▼言を飾…はっきり言わずに。
▼初更…午後7時から9時ごろ。
▼四方山の話…いろいろな雑談。
▼物凄く…ぞわぞわっと恐くなって来る。
▼肝を消…びっくりたまげる。
▼堂…どすん。

記者曰[いはく]稲生平太郎怪事に罹りしは凡[およそ]三十日間にして七月[ふみづき]一日より晦日[みそか]までのことなり此中[このうち]同一奇話[をなじはなし]あるも少[すくな]からず其[そ]看客[みなさん]の退屈あらんと恐るれば省[はぶ]きて言[いは]ず只[ただ]日毎[ひごと][かは]りし話[はなし][ばか]りを集めて綴[つづ]れば一日より二日三日と順次を追[おは]ず記せしゆへ巻中日合[ひあい]の合[あは]ざる処[ところ]は同一奇話[をなじはなし]と見なし咎[とが]め給ふこと勿[なか]らんを乞ふ

つぎへ

▼晦日…七月三十日。
▼看客…この本をお読みのみなみなさま。
▼日合…日数。日にち。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい