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備後土産稲生夜話(びんごみやげいのうのよばなし)第十五回


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第十五回

日は暮果[くれはて]て夜[よ]はまた追々[おひおひ][ふ]ければ猟人[かりうど]重兵衛は雪隠[せっちん]の裡[うち]に隠れ次郎右衛門立帰[たちかへ]れば稲生は重兵衛が模様如何[いか]があらんと一個[ひとり]莞爾[ほほえみ]その音信[おとづれ]を待つうちにキャット叫べる声せしゆへ平太郎仕済[しすまし]たり[さて]こそ怪物は重兵衛が[ひづめ]の罠に掛りたれ手燭[てしょく]を灯[とも]し刀を携[たづさ][かはや]の前に来てみれば此[こ]は如何[いか]に雪隠の戸[と]散砕[ちりくだけ]重兵衛は居[をら]ざる故[ゆゑ]案に相違し此処彼処[ここかしこ]を尋[たづね]るに重兵衛は庭の彼方[あなた]に倒れ居[を]りければ平太郎大[おほひ]に惘[あきれ]いそぎ重兵衛を介抱せしに漸[やうや]く重兵衛人心地つきたれど夢みし如くにて茫然たれば稲生声を励まし重兵衛如何[いかが]いたせしぞと云[いは]れてホット一息[ひといき]先刻[さきほど]初更[しょこう]を告[つげ]わたる鐘の音[こゑ]ぞっと身に染[しみ]て毛穴も逆立[さかだち]覚えけるゆへ妖怪[ようかい][きた]りし者ならんと息を殺して窓の中[うち]より蹄[ひづめ]の仕懸[しかけ]を賺[すかし]みれば踏落[ふみおと]しの方[かた]よりして丸太の如き手を延[のば]し雪隠の戸と諸共[もろとも]に我等[われら]を掴[つかみ]て庭へ投出されたるにては覚[おぼえ]あれど其後[そのご]は更に正体なし[さ]れども拙者の考へには狐狸[こり]の類[たぐゐ]にあらずして必ず天狗[てんぐ]の所為[わざ]なるべく思はるるなり危[あやう]かる目に逢[あふ]たりとて荒果敷[あはただしく]こそ帰りけれ稲生は一個[ひとり]小首[こくび]を傾[かたむ][これ]まで[とぎ]に夥[あまた][きた]るも一個[ひとり]として気丈の者なく臆病未練の人斗[ひとばかり]にて意気地[いくぢ]なきの限りなれば憖[なま]じ伽人[とぎびと]はなきこそ却[かへっ]て快[こころ]よけれ己後[いご]は如何[いか]なることあるとも断り呉[くれ]と私語[つぶやき]ながら其夜[そのよ]は枕につきたりしが翌朝起[おき]いで彼[かの][ひづめ]の仕懸[しかけ]を見るに庭の垣に釣[つる]しありて昨夜[ゆうべ][こわれ]し雪隠の戸扉[とびら]は少[すこし]も損ぜず元の如くにありければ稲生妖魔の奇術を感じ奇妙なこと為[す]る物かなと思ひは為[す]れども驚く様子はなかりしとぞ偖[さて]も猟師の重兵衛は稲生の屋敷を逃帰[にげかへ]りしが其[その]翌日より惣身[みのうち]に痛[いたみ]を覚へて起臥[おきふし]も自由ならず[わずら]いたるは最[いと]気の毒なことにぞありける

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▼雪隠…おべんじょ。
▼次郎右衛門…向井次郎右衛門。重兵衛を妖怪退治のために連れて来た武士。
▼仕済たり…やった!
▼蹄の罠…狩りのとき等に使われる動物をとるための罠の一ッ。
▼手燭…手に持ってあたりを照らし歩くときにつかう燭台。
▼厠…おべんじょ。
▼人心地つきたれど…意識をとりもどす。
▼初更…午後7時から9時ごろ。
▼正体なし…意識が無い。
▼天狗の所為…天狗のいたずら。狐や狸のいたずらと睨んで妖怪退治に来たものの、さすが山で仕事をする猟師の重兵衛、狐や狸のやる事なす事以上の怪異だとわかると、天狗のしわざと判断してガクガクの恐怖。
▼伽…夜を一緒に明かすこと。
▼起臥の自由ならず…寝たきりになった。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい