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不題[ここにまた]▼下布努[しもふぬ]村の猟師にて長倉作平[ながくらさくへい]といふ者あり稲生へ屡々[しばしば]出入[でいり]して懇意なれば頃日[このごろ]▼噂を聞[きき]稲生にいたり▼不沙汰のことなど詫[わび]しのち作平いへるよう変化[へんげ]を除[よけ]るには西行寺の薬師如来[やくしにょらい]灼然[あらたか]なる由[よし]承[うけた]まはれば彼[かの]仏像を借受[かりうけ]信心なさば退散すべしと云[いふ]に稲生も物怪[もののけ]に持て余[あま]せし折[をり]なれば作平が勧[すすめ]に任せ其[そ]は幸[さいは]ひのことなれば其方[そのほう]行[ゆき]ては呉[くれ]まじやと依頼[たのむ]に作平承知して▼七ッ下[さが]りに稲生をいで西行寺へと趣[おもむ]く途中[とちう]藪[やぶ]の小路[こうぢ]にかかる折[をり]しも日は暮[くれ]はてて暗[やみ]の夜[よ]に提灯[てうちん]携[たづさ]へ一個[ひとり]の武士此方[こなた]をさして作平に行違[ゆきちが]ふとき顔見合し貴君[あなた]は曽根源之丞[そねげんのぜう]様 其方[そなた]は長倉作平か何[いづ]れへ行[ゆく]やと問[とひ]かけられ今宵[こよひ]稲生に依頼[たのまれ]て薬師の絵像を西行寺へ借[かり]に参ると告[つげ]しかば源之丞自己[おのれ]が持[もち]し提灯を作平に貸[かし]与うれば大[おおい]に欣喜[よろこび]作平は彼[か]の借受[かりうけ]し提灯照[てら]し松原さして急[いそぎ]けるに並木の中頃過[すぎ]んとする折[をり]自己[をのれ]が前に暗黒[まっくろ]き大坊主立塞[たちふさが]れり其[その]惣身[みのたけ]▼一丈余りにして眼[まなこ]は▼百錬[れん]の鏡の如く口は耳までさけたるが作平目懸[めがけ]捕喰[とりくらは]んとする勢ひなるに長倉駭[をど]ろき震上[ふるへあが]り逃[にげ]んとすれど身体[からだ]すくみ其処[そのば]へ倒れて気絶なせしが稍[やや]ありて▼蘇生[よみがへり]辺[あた]りを見れど彼[か]の坊主の姿見へねば吻[ほっ]と息つき夢に夢みし心地して西行寺へは行[ゆか]ず飛[とぶ]が如くに自己[おのれ]が家へ帰りしは実[げ]に理[こと]はりなり稲生は長倉作平の帰りを待[まて]ども夜更[よふく]るまで帰り来[きた]らねばいかがせしとぞ案安[うちあん]じ▼眠りもやらで居たるうち▼二更[こう]を告[つぐ]る鐘の音[ね]に今宵[こよひ]は最早[もはや]来[きた]るまじと独言[ひとりごち]つつ▼閨房[ねや]に入らんと立上[たちあが]る後[うしろ]の方[かた]にて平太郎の袖[そで]引留[ひきとむ]れば何者ならんと振向[ふりむく]に昨夜三次[みよし]の川辺[かはべ]より救ひ帰りし▼乙女なれば己[をの]れ怪物[ばけもの]覚悟せよ我を偽り欺きしと言[いふ]より早く一刀引抜[ひきぬき]斬[きっ]て懸[かか]れば彼[か]の乙女は▼俄然[がぜん]として煙[けぶり]の如くに消失[きへうせ]けり再説[さても]長倉作平は翌朝[よくてう]稲生の屋敷に来[きた]り夜前[ゆうべ]途中[みち]にてしかじかと彼[か]の源之丞に行合[ゆきあひ]夫[それ]より松原にて化物に出遇[いであひ]気絶したるに怖れ逃帰りしに因[よ]り今朝[こんてう]曽根に到り昨夜[ゆうべ]借受[かりうけ]し提灯を松原にて落失[うしなひ]し詫[わび]ごとせしに全く昨夜[さくや]藪小路[やぶこうぢ]にて提灯を貸[かし]たるは曽根源之丞にあらずして化物の所為[わざ]なることまで▼落[をち]なく物語りければ稲生も須臾[しばし]呆[あきれ]て居たり