備後土産稲生夜話(びんごみやげいのうのよばなし)第十二回


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第十二回

不題[ここにまた]下布努[しもふぬ]の猟師にて長倉作平[ながくらさくへい]といふ者あり稲生へ屡々[しばしば]出入[でいり]して懇意なれば頃日[このごろ]を聞[きき]稲生にいたり不沙汰のことなど詫[わび]しのち作平いへるよう変化[へんげ]を除[よけ]るには西行寺の薬師如来[やくしにょらい]灼然[あらたか]なる由[よし][うけた]まはれば彼[かの]仏像を借受[かりうけ]信心なさば退散すべしと云[いふ]に稲生も物怪[もののけ]に持て余[あま]せし折[をり]なれば作平が勧[すすめ]に任せ[そ]は幸[さいは]ひのことなれば其方[そのほう][ゆき]ては呉[くれ]まじやと依頼[たのむ]に作平承知して七ッ下[さが]に稲生をいで西行寺へと趣[おもむ]く途中[とちう][やぶ]の小路[こうぢ]にかかる折[をり]しも日は暮[くれ]はてて暗[やみ]の夜[よ]に提灯[てうちん][たづさ]へ一個[ひとり]の武士此方[こなた]をさして作平に行違[ゆきちが]ふとき顔見合し貴君[あなた]は曽根源之丞[そねげんのぜう] 其方[そなた]は長倉作平か何[いづ]れへ行[ゆく]と問[とひ]かけられ今宵[こよひ]稲生に依頼[たのまれ]て薬師の絵像を西行寺へ借[かり]に参ると告[つげ]しかば源之丞自己[おのれ]が持[もち]し提灯を作平に貸[かし]与うれば大[おおい]に欣喜[よろこび]作平は彼[か]の借受[かりうけ]し提灯照[てら]し松原さして急[いそぎ]けるに並木の中頃過[すぎ]んとする折[をり]自己[をのれ]が前に暗黒[まっくろ]き大坊主立塞[たちふさが]れり其[その]惣身[みのたけ]一丈余りにして眼[まなこ]百錬[れん]の鏡の如く口は耳までさけたるが作平目懸[めがけ]捕喰[とりくらは]んとする勢ひなるに長倉駭[をど]ろき震上[ふるへあが]り逃[にげ]んとすれど身体[からだ]すくみ其処[そのば]へ倒れて気絶なせしが稍[やや]ありて蘇生[よみがへり][あた]りを見れど彼[か]の坊主の姿見へねば吻[ほっ]と息つき夢に夢みし心地して西行寺へは行[ゆか]ず飛[とぶ]が如くに自己[おのれ]が家へ帰りしは実[げ]に理[こと]はりなり稲生は長倉作平の帰りを待[まて]ども夜更[よふく]るまで帰り来[きた]らねばいかがせしとぞ案安[うちあん]眠りもやらで居たるうち二更[こう]を告[つぐ]る鐘の音[ね]に今宵[こよひ]は最早[もはや][きた]るまじと独言[ひとりごち]つつ閨房[ねや]に入らんと立上[たちあが]る後[うしろ]の方[かた]にて平太郎の袖[そで]引留[ひきとむ]れば何者ならんと振向[ふりむく]に昨夜三次[みよし]の川辺[かはべ]より救ひ帰りし乙女なれば[をの]れ怪物[ばけもの]覚悟せよ我を偽り欺きしと言[いふ]より早く一刀引抜[ひきぬき][きっ]て懸[かか]れば彼[か]の乙女は俄然[がぜん]として[けぶり]の如くに消失[きへうせ]けり再説[さても]長倉作平は翌朝[よくてう]稲生の屋敷に来[きた]り夜前[ゆうべ]途中[みち]にてしかじかと彼[か]の源之丞に行合[ゆきあひ][それ]より松原にて化物に出遇[いであひ]気絶したるに怖れ逃帰りしに因[よ]り今朝[こんてう]曽根に到り昨夜[ゆうべ]借受[かりうけ]し提灯を松原にて落失[うしなひ]し詫[わび]ごとせしに全く昨夜[さくや]藪小路[やぶこうぢ]にて提灯を貸[かし]たるは曽根源之丞にあらずして化物の所為[わざ]なることまで[をち]なく物語りければ稲生も須臾[しばし][あきれ]て居たり

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▼下布努村…平太郎たちの住んでる村。
▼不沙汰のこと…このごろはなかなかうかがえませんで、イヤおかわりございませぬか。
▼噂…稲生の屋敷には夜ごと夜ごとに妖怪が出没するという村の噂。
▼七ッ下り…午後4時ごろ。
▼一丈余り…おおよそ3mくらい。
▼百錬の鏡…とてもよくみがかれた鏡。
▼蘇生…気絶状態から気を取り戻して起きる。
▼眠りもやらで…一睡もしないで。
▼二更…午後9時から午後11時ごろ。
▼閨房…寝室。ねどこ。
▼乙女…平太郎がたすけて家に連れ帰って来たものの、いつのまにか消え去っていたナゾの乙女。「第十一回」参照。
▼俄然として…いきなり。あっというまに。
▼落なく…あますところなく。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい