備後土産稲生夜話(びんごみやげいのうのよばなし)第十三回


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第十三回

案下[そのとき]長倉作平再び稲生に打向[うちむか]只今より西行寺へ参りて画像を借来[かりきた]れば暫時[しばらく]猶予下さるべしと云捨[いひすて] て直[すぐ]に西行寺へ趣[おもむ]き和尚教戒[けうくわい]に面会して稲生の怪事を語りければ教戒も変化[へんげ]の所為[わざ]を深く怖れ薬師の画像を貸与[かしあたへ]ければ作平大[おおい]に喜び彼[かの]仏像を懐中して稲生に立戻り手渡[てわたし]にして早々[そうそう]其身[そのみ]は立帰[たちかへ]りぬ平太郎は仏像を床の間に掛置[かけおき]香花[かうはな]を備へ今宵[こよひ]は如来の功力[くりき]にて少しは鎮まることあらんと頻[しきり]に薬師を祈[いのり]居たるに其[その]薬師の掛物[かけもの]糸にて釣[つり]し如くふらりふらりと空中[ちう]を歩行[あゆみ]出しければ稲生はまたも惘果[あきれはて]功力[くりき]なぞとは事[こと]可笑[をかし]と打捨[うちすて]置きければ彼[かの]画像は自己[おのれ]仏間に這入[はいり]ける平太郎一個[ひとり][ゑみ] しつ[とこ]をのべ枕に就[つき]て眠[ねぶ]りけるが暫時[しばらく]ありて目を覚[さま]し不図蚊屋[かや]の中[うち]を見れば数多[あまた]の生首集[あつま]りて平太郎の顔をなめ或[あるひ]は上に転げかかり種々[いろいろ]に狂ひ廻[めぐ]れど少しも搆[かま]はず[をそ]るる気色[けしき]あらず高鼾[たかいびき]かき寝[いね]たるは実[げ]不敵の剛胆[がうたん]なり去程[さるほど]川田茂右衛門[かはだもゑもん]は今日[けふ]しも盆の霊祭[たままつ]とて平太郎を招きけるに[いなみ]もならねば伯父の家に到りたるに親類一同協議して皆[みな]平太郎に諭[さとし]て云[いふ]よう如何[いか]に其方[そなた]が強気[がうき]なるも此後[こののち][もし][あやま]ちあらば其身[そのみ]はとまれ親類まで世の物笑[ものわらひ]となり後悔するとも詮方[せんかた]なからん殊[こと]に其方[そのほう]が身の上に凶事ある時は先祖の位牌に我等[われら]が云分[いひわけ]たち難[がた]ければここの道理を聞分[ききわけ]て一度[ひとまづ]伯父の手元へ来[きた]り伯父に安心さすべしと皆[みな]口々に説[と]き諭[さと]せど血気に速[はや]る若者ゆへ変化[へんげ]の為に憶したりと言[いは]れんは残念なりとて更に聞入[ききい]るけしき無[なけ]れば各々[みなみな]呆れ此後[こののち]は口を出す者絶[たえ]けるを返[かへっ]て稲生は僥倖[さいはひ]なりと思ひ如何[いか]にもして怪物の正体を見顕[みあら]はさんとぞ苦しみをりぬ或日[あるひ]のことなるが稲生一個[ひとり]今宵[こよひ]は雨降れば早くより休まんと戸じまりなして座敷に来[きた]れば懐孕女[はらみをんな]蒼向[あをむき]に倒れて居る故[ゆゑ]平太郎彼[か]の女の腹の上に打乗[うちのり]などして戯[たは]むるれば女の皷腹[こふく][たちま]ち破[やぶれ]臓腑[ざうふ]四辺[あたり]に散乱[ほとばしり][うじ]と変じてうごめき歩行[あるけ]ば了得[さすが]の稲生も当惑[たうわく]なし鼻を摘[つま]みて居たりけり

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▼画像…霊験があらたかだという薬師如来の画。
▼稲生の怪事…稲生の屋敷にいろいろと妖怪が出没するということ。作平自身も遭遇ずみ。
▼香花…はなとせんこう。
▼自己と…おのずと。自分から。
▼床をのべ…ふとんを敷いて寝るしたく。
▼蚊屋…蚊帳。蚊をよけるために吊る網幕。
▼怖るる気色…おっかながるようす。
▼不敵の剛胆…きもったまの大きなこわいもの知らず。
▼川田茂右衛門…平太郎の伯父。
▼盆の霊祭り…お盆の法要。
▼辞もならねば…ことわるわけにもいくまいて。
▼変化の為に憶したり…おばけがこわいんだとさ、と噂をされるのは武士としては確かに恥ずかしい。
▼懐孕女…妊娠しておなかの大きくせり出した女性。
▼皷腹…おおきくふくれた腹。
▼臓腑…内臓。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい