案下[そのとき]長倉作平再び稲生に打向[うちむか]ひ只今より西行寺へ参りて▼画像を借来[かりきた]れば暫時[しばらく]猶予下さるべしと云捨[いひすて] て直[すぐ]に西行寺へ趣[おもむ]き和尚教戒[けうくわい]に面会して▼稲生の怪事を語りければ教戒も変化[へんげ]の所為[わざ]を深く怖れ薬師の画像を貸与[かしあたへ]ければ作平大[おおい]に喜び彼[かの]仏像を懐中して稲生に立戻り手渡[てわたし]にして早々[そうそう]其身[そのみ]は立帰[たちかへ]りぬ平太郎は仏像を床の間に掛置[かけおき]▼香花[かうはな]を備へ今宵[こよひ]は如来の功力[くりき]にて少しは鎮まることあらんと頻[しきり]に薬師を祈[いのり]居たるに其[その]薬師の掛物[かけもの]糸にて釣[つり]し如くふらりふらりと空中[ちう]を歩行[あゆみ]出しければ稲生はまたも惘果[あきれはて]功力[くりき]なぞとは事[こと]可笑[をかし]と打捨[うちすて]置きければ彼[かの]画像は▼自己[おのれ]と仏間に這入[はいり]ける平太郎一個[ひとり]笑[ゑみ] しつ▼床[とこ]をのべ枕に就[つき]て眠[ねぶ]りけるが暫時[しばらく]ありて目を覚[さま]し不図▼蚊屋[かや]の中[うち]を見れば数多[あまた]の生首集[あつま]りて平太郎の顔をなめ或[あるひ]は上に転げかかり種々[いろいろ]に狂ひ廻[めぐ]れど少しも搆[かま]はず▼怖[をそ]るる気色[けしき]あらず高鼾[たかいびき]かき寝[いね]たるは実[げ]に▼不敵の剛胆[がうたん]なり去程[さるほど]に▼川田茂右衛門[かはだもゑもん]は今日[けふ]しも▼盆の霊祭[たままつ]りとて平太郎を招きけるに▼辞[いなみ]もならねば伯父の家に到りたるに親類一同協議して皆[みな]平太郎に諭[さとし]て云[いふ]よう如何[いか]に其方[そなた]が強気[がうき]なるも此後[こののち]若[もし]過[あやま]ちあらば其身[そのみ]はとまれ親類まで世の物笑[ものわらひ]となり後悔するとも詮方[せんかた]なからん殊[こと]に其方[そのほう]が身の上に凶事ある時は先祖の位牌に我等[われら]が云分[いひわけ]たち難[がた]ければここの道理を聞分[ききわけ]て一度[ひとまづ]伯父の手元へ来[きた]り伯父に安心さすべしと皆[みな]口々に説[と]き諭[さと]せど血気に速[はや]る若者ゆへ▼変化[へんげ]の為に憶したりと言[いは]れんは残念なりとて更に聞入[ききい]るけしき無[なけ]れば各々[みなみな]呆れ此後[こののち]は口を出す者絶[たえ]けるを返[かへっ]て稲生は僥倖[さいはひ]なりと思ひ如何[いか]にもして怪物の正体を見顕[みあら]はさんとぞ苦しみをりぬ或日[あるひ]のことなるが稲生一個[ひとり]今宵[こよひ]は雨降れば早くより休まんと戸じまりなして座敷に来[きた]れば▼懐孕女[はらみをんな]蒼向[あをむき]に倒れて居る故[ゆゑ]平太郎彼[か]の女の腹の上に打乗[うちのり]などして戯[たは]むるれば女の▼皷腹[こふく]忽[たちま]ち破[やぶれ]▼臓腑[ざうふ]四辺[あたり]に散乱[ほとばしり]蛆[うじ]と変じてうごめき歩行[あるけ]ば了得[さすが]の稲生も当惑[たうわく]なし鼻を摘[つま]みて居たりけり