備後土産稲生夜話(びんごみやげいのうのよばなし)第十一回


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第十一回

[かく]て稲生は十三日の八ッ半頃より所用ありて横新田[よこしんでん]といふ処[ところ]の上田治太夫[うへだぢだいふ]方へ到りけるに折柄[をりから]上田在宅にて久振[ひさしぶり][とて]饗応[もてなす]ゆへ[いなみ]もならず馳走[ちそう]になりおもい懸[がけ]なく日を暮[くら]遅刻せしかば治太夫に暇[いとま]を告[つげ]て戻り道[みち]三次川[みよしがは]の辺[ほとり]に来かかる時[とき]月は雲間をいで岩打[いわうつ]波の照添[てりそ]ひて流[ながれ]に踊る水玉は蛍火[ほたる]飛行[とびかふ]風情[ふぜい]にて昼の暑[あつさ]を忘れけるゆへ歩[あゆ]み静[しづか]に道芝[みちしば]の露[つゆ]踏分[ふみわけ]て行[ゆか]んとせし時[とき][かたは]らに年の頃二八斗[ばかり]の乙女が雪の肌さへ顕[あらは]して絶入[たえい]りしか打臥[うちふ]し居[い]るに稲生驚き今頃此処[ここ]らに倒れ居[いる]は必ず深き委細[しさい]あらん何にもせよ哀れなり救[すくい]てやらんと懐中より薬を取出し口に含ませ流[ながれ]の水を汲[くみ]娘の口に注[そそ]ぎ介抱せしに須臾[しばし]ありて我に返りし様子ゆへ平太郎声を懸[かけ]女中[ぢょちう]心は正[たし]かなるか[いま][われ]此処[このところ]を通行せしに不図[はからず]和女[そなた]が絶入[たへい]りたるさまを見兼[みかね][すくひ]し者ぞと云[いい]たれば彼方[かなた]の手弱女[たをやめ]心付[こころづき]何処[いづれ]の御方[おかた]か存じませねど消[きゆ]る此身[このみ]をお救[すくい]下さる御恩の程ありがたう存[ぞんじ]ますと言[いへ]ば平太郎点頭[うなづき]つつして和女[そなた]は何[いづ]れの者か包まず語[かたる]べしと云[いふ]に乙女は最[いと]どはづかしげに今は何をか包[つつみ]ませう妾[わらは]はもと芸州広島在の者なりしが幼[おさな]き折柄[をりから]父母[ちちはは]に別れ伯父の世話になり養育受[うけ]ておりますうち伯父は病[やまい]の床につき伯母と妾[わらは]と三人にて朝夕[あさいふ]細き烟[けむり]さへ立兼[たてかね]る身を思[おもふ]につけ妾[わらは]も永[なが]の此[この]年月養ひうけし恩報[おんほう]身を川竹に沈めても伯父の病[やまひ]や伯母が身を救ふ手段[てだて]をせん者と覚期[かくご][きめ]しに伯父伯母早くも其[その]心を知りて妾[わらは]を留[とど]め譬[たとへ]此侭[このまま][しす]るとも和女[そなた]を苦界[くがい]に沈むる抔[など][おもひ]もよらぬと云[いふ]に妾[わらは]も一度[ひとたび]は留[とど]まれど貧[ひん]に苦[くるし]むを何分見かね密[ひそか]に宅[うち]をぬけいで日頃懇意に出入[でい]る松田の菊次[きくじ]と云者[いふもの]は人の世話をすると聞[きき]彼に依頼[たのみ]て身を売[うら]んと其訳[そのわけ][いふ]て依頼[たのみ]ければ彼[かれ]承引[うけがい]て僥倖[さいはひ]長崎の丸山より婦女[をんな]を抱[かか]へに来[きた]る者あるにより我と共に行[ゆく]べしと云[いふ]ゆへ妾[わらは]は嬉しく偽りなりとは知らぬゆへ仕度[したく]して誘[いざな]はれ途中にて菊次は駕篭[かご]を雇[やと]ひ妾[わらは]を乗連れ来[きた]り頓[やが]て駕篭を下[をろ]させ妾[わらは]が手を取引出[とりひきいだ]し駕篭屋を帰せし後[のち]捕へて強姦[なぐさむ]所存なりし故[ゆゑ][その]難を迯[のが]れんと妾[わらは]は早く此[この]谷間へ身を投[なげ]しなりと委細[くはしく]語るを打聞[うちきき]て稲生は愍然[ふびん]の事に思い[しから]ば此[この]川上を和女[そなた]は何処[いずこ]かしらざるべけれど是[こ]は備後国の高山[こうざん]にて大熊山と云[いふ]ところ昼さへ人の行来[ゆきき][まれ]なる魔所[ましょ]をも搆[かま]はず連行[つれゆき]しは大胆不敵の悪漢[わるもの]なり我は上布努[かみふぬ]村に住む稲生と申[まうす]武士[もののふ]なり猶[なほ]委細[いさい]の話は我家[わがや]にて篤[とく]と聞[きき]たる上[うへ]和女[そなた]伯父子[おぢご]の許[もと]へ送り届けて得さすべければ一度[ひとたび]我家[わがや]へ来[きた]られよとて彼[か]の手弱女[たをやめ]を伴[とも]なひつ家路[いへぢ]をさして帰り我家[わがや]へ入[い]りたる後[のち]衣裳[きもの]着替[きかへ][かはや]にいたり再び座敷に来[きた]りて見るに乙女は其処[ここ]に在らざれば不審に思ひ次の間[ま]勝手の方[かた]なぞ尋ねたれど更に行衛[ゆくゑ]は知れざりけり

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▼八ッ半…午後2時ごろ。
▼辞もならず…おことわりもできず。
▼遅刻…時刻もだいぶおそくなった。
▼水玉…みずしぶき。
▼二八斗の乙女…十六くらいのうら若き女性。
▼細き烟…つつましやかな生活。
▼恩報し…恩返し。
▼身を川竹に沈めても…遊里へと身を売って、お金をつくってでも。
▼長崎の丸山…丸山遊郭。
▼愍然…かわいそうだなぁ。
▼高山…おおきな山。
▼伯父子…伯父御。おじうえどの。
▼厠…おべんじょ。
▼次の間…となりの部屋。
▼勝手の方…おだいどころ。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい