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備後土産稲生夜話(びんごみやげいのうのよばなし)第八回


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第八回

[ここ]に又家来の六助は遠寺[えんじ]の鐘に夜は明[あけ][ねぐら]を出[いづ]る烏[からす]の声に心付[こころづき]表にいでたれど夜前[ゆうべ]のことの思はれ怖[おそろし]さに震[ふるへ]ながら門[かど]の戸に寄懸[よりかか]り四辺[あたり]を眺め彳[たたず]み居るうち此処彼処[ここかしこ]にて雨戸を開[ひら]き起出[おきいで]たるに漸[ようや]く少[すこし]力を得て近処[きんじょ]隣へ到[いたり]夜前[ゆうべ]屋敷へ化物[ばけもの][いで][いた]く悩[なやま]されたりと語りければ人々みな恐[おそれ]を生じ夫[それ]から夫[それ]へと触廻[ふれまは]りしゆへ終[つい]に村中の噂となり麦倉[むぎくら]屋敷に化物出[いで]稲生の小天狗をおびやかすとの評判せしより若者等[ら][これ]は面白[おもしろき]ことなりとて我も我もと見物が麦倉屋敷の門前に集り来[きた]るも多かりけり斯[かか]れば稲生の伯父川田茂右衛門これを聞付[ききつけ]捨置[すておき]難きことなり[とて]一早く馳来[はせきた]り平太郎に面会して怪事の況[さま]を問[とひ]し後[のち]平太郎に諭[さと]して言[いふ]よう何分[なにぶん][この]屋敷に其方[そち]一個[ひとり][おく]は心許[こころもと]なし因て一度[ひとまづ]屋敷を退き我等[われら]が方へ来るべしと懇[ねんごろ]にさとしけれども稲生は血気の若者ゆへ聞入[ききい]れべき気色[けしき]更になければ伯父茂右衛門は呆果[あきれはて]其侭[そのまま]打捨[うちすて]帰りゆく後[あと]に下男[げなん]六助が稲生に向[むか]いて言葉を改め[なが]の年月御恩を受[うけ][いま]御暇[おいとま]を希[ねがひ]まするは本意にあらぬことながら怪物[かいぶつ]の為に苦[くるし]められ何分[なにぶん]御奉公なりがたければ暫時[しばらく]御暇[おいとま][たまは]りたしと只管[ひたすら]依頼[たのむ]に是非なく家来に暇[いとま]を遣[つかは]し自己[おのれ]一個[ひとり]で居住[すまゐ]しは十六歳の若者には最[いと]珍敷[めづらしき]魂と人々感賞[かんじ][あへ]りとぞ平太郎は其日[そのひ]も暮方[くれがた]になりければ夜食を仕舞[しまい]行灯取出し火を灯し今宵は如何なることをなすか生体[せうてい]を見現[みあら]はし引[ひっ]とらへて呉[くれ]んずと待構[まちかまへ]て居るをりから家中[かちう]の朋友武内伝吉[たけうちでんきち]横井孫作[よこゐまごさく]森川一平[もりかはいっぺい]の三人尋来[たづねきた]今宵は我等[われら][とぎ]をいたせば貴君は早く休給[やすみたま]と云[いふ]を稲生辞退すれども聞入[ききいれ]なきは僥倖[さいはひ]と心に歓喜[よろこび][しか]らば依頼[たのみ]まうすとて初更[しょかう]すぎまで語合[かたりあひ]自己[おのれ]は其座[そのざ]を退きつ臥戸[ふしど]に入[いり]て休みけりさるほどに三個[みたり]の若者は妖怪来らば生捕て手柄[てがら]を見せんと勇立[いさみたち]勢込[いきほひこむ]こそ可笑[おかし]ければ時刻やや丑満[うしみつ]近くなりければ何となく物淋しく覚[おぼ]へ今迄[いままで][いさみ]し三人も頻[しきり]に眠りを催ふす折柄[おりから]吹来る風の窓うつ音に心づき三人倶[とも][これ]は思はず眠[ねぶり]を生じたりと呟[つぶや]きながら茶を呑まんと茶碗を取[とり]て茶を汲[くむ]折柄[おりから]突然[いきなり]茶碗飛上り座敷の中[うち]を飛廻[とびめぐ]りければ各々[おのおの]顔を見合[みあは]して[これ]不思議なりと云[いふ]うちに行灯自然[おのづ]と歩行[あるき]出し其様[そのさま]手足のあるごとくなれば皆々あれあれと言ふうちに火鉢[ひばち]舞上[まひあが]り三個[みたり]の頭に灰ばらばらと懸[かか]りければ各[おのおの]呆れて逃走[にげはし]り竊[ひそか]に我家へ帰りたり

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▼遠寺の鐘…遠くから響いてくるお寺の時を告げる鐘の音。ここでは夜明けの時の鐘。
▼塒を出る烏の声…朝になって動き出したからすの鳴き声。明けがらすは朝の鳥の代名詞の一ッ。
▼此処彼処にて雨戸を開き起出たる…よその家々がみんなオハヨウサンと起き出した。
▼麦倉屋敷…稲生家の屋敷の通称。麦を納める蔵があったことからの名。
▼稲生の小天狗…平太郎のこと。剣術がおさかんであったことから来た村のあだ名。
▼川田茂右衛門…平太郎のおじ。
▼我等が方…川田の屋敷。
▼気色…ようす。きぶん。こころもち。
▼言葉を改め…改まった、丁寧なことばぶりになって。
▼生体…正体。へんなことを巻き起こしている妖怪の真実のすがた。
▼家中の朋友…おなじ藩に勤める同輩。
▼伽…夜を一緒に明かすこと。
▼初更…午後7時から9時ごろ。
▼臥戸…寝室。
▼丑満…午前2時ごろ。
▼自然と歩行出し…勝手にとことこ歩き出す。
校註●莱莉垣桜文(2011) こっとんきゃんでい